翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第二節第三項(039)

 3.

 ぱちぱちと、火の爆ぜる音。
 体をひとつ震わせてアイシャは毛布に深く首を埋め、白い息を吐いた。

 山の夜は気温が下がる。月のない夜、頭上に星を仰ぎながら、一行はアイシャを除いて皆、夢の中だ。ふと荷馬車の奥から物音がして、外に出てきた人影が彼女の視界に入る。イスカだった。
「まだ起きてらっしゃったのですか?」
 無邪気な琥珀色の瞳がアイシャを捕らえて、そう尋ねてきた。アイシャは無言で火を指差す。誰か一人が火の番をするのが野宿の努めだ。隊商にいた頃はまだよかった。女二人で旅をしていても、誰かが見張りをしてくれたために二人ともぐっすり休める日があったから。隊商より外れてからは三日に一回は徹夜である。ヒスイがセイを引き込んでくれてよかったと思った。でなければ一日おきに徹夜で、身が持たなかっただろう。神殿で休めた昨日は恵まれていた。
 今度はアイシャが聞いた。
「眠れないの?」
 よほど寝起きがいいのか、イスカの声には寝ぼけたような響きは含まれていなかった。まだ起きていたのかと聞いた彼女に、イスカはそわそわと口ごもる。アイシャはやっとピンときた。微笑んで手を振る。
「行ってらっしゃい」
「……はい」
 イスカは小走りに暗闇に消えていった。女性でいう花摘みであろう。しゃがみこんでいる姿が花を摘んでいるように見える、排泄の隠語だ。アイシャは燃料を火にくべた。赤い光が一時、大きく膨らんでまた萎む。炎に常に当たっている面だけがあぶられて熱すぎるくらいである。だがそれに反して背中は寒い。星も凍りそうな……と、まではいかないが、とにかく今夜もよく冷えた。
 ほどなくしてイスカが戻ってきた。荷馬車の影に隠れて、ひょっこりと顔を出す。その様子がなんとも可愛くて、アイシャは思わず、小さな子供にでもするように手招きをした。(さすがに本人に面と向かって可愛いというのははばかられた。イスカは見た目、ヒスイと同じ年くらいには見えたからだ)
 手招きに誘われて、イスカはやっと近づいてきた。
「あの……ヒスイ様は?」
「そこよ」
 なにしろ荷馬車には一人が横になれるくらいの空き場所しかない。名目上は雇い主であるイスカに一番いい場所を提供して、アイシャは火の番、ヒスイとセイは星天井の下で眠っている。
 アイシャの指差した先には、ヒスイの姿より先に、セイの背中と赤い尻尾があった。
「!?」
 思わず大声を上げそうになったイスカに、静かに、と手振りする。大声を出して安眠を阻害するのは忍びない。……気持ちは分からないでもなかったが。
 毛布を下に敷き、マントにくるまって眠るヒスイの側には、セイがぴったりと寄り添って眠っていた。
「どういうことなんですかっ?」
 出来るだけ小声で抗義してくる。怒っている、というよりは泣きそうな顔だった。座るようにと彼を促して、アイシャはどう説明をすればよいのか迷いながらイスカをなだめにかかる。
「ヒスイが寝入ってから、あの男が隣を占領するのよ。もちろん目を覚ます前に離れるけど。寝てる最中だけは殴られないでしょう?」
「あな……あなた、それを、どうして黙って見てらっしゃるんです?」
「今のところ添い寝してるだけで不埒な真似を働く気配はないし、仮に気付いてもセイが殴られるだけでしょうし……。なによりヒスイにはいいかと思って」
 どういう理論だ、と自分でも思ってしまう説明になったなとアイシャはいいながら思う。その時ヒスイが小さく寝返りを打った。ちょうどセイの腕の中にすっぽりとおさまるような体勢になってしまい、イスカが更に小さく悲鳴を上げた。気のせいか、セイの表情はいつも以上に幸せそうに目尻が下がっている。アイシャは苦笑混じりの溜め息をついた。
「セイが見張りについている時は私がヒスイと一緒に寝てるけど……」
「それとこれとは問題が違うと思いますっ」
「……あの子ね、朝、目を覚ますと、私の毛布の端を遠慮がちに握ってるの」
 イスカの反論が止まった。
「一人じゃ眠れない、というわけではないらしいのだけれど、誰かが側にいると安心するみたいなのよね。……私じゃ駄目なのよ。ヒスイは私を大事にはしてくれるけど、甘えてはくれない。逆に、セイに怒鳴ったり殴ったりしているのは無意識に甘えているのよね」
 一緒に旅してまだ数ヶ月。だが、ずっと一緒にいるのだからある程度性格は見えてくる。ヒスイは、他人に気を使うというより警戒心が強いのだ。そういえば隊商にいた頃も彼女は他人と積極的に関わろうとはしていなかった。以前、自分に「……アイシャに拾ってもらってよかった」といったことがあるが、今思えばあれを境に懐いてくれたような気もする。
 それに、アイシャはヒスイの知らないセイも薄々知っていた。ヒスイ以外に大切なものがないと言い切ったこの男からヒスイを引き離すようなことになれば、どんな恐ろしいことになるか。考えただけでもぞっとする話だ。
 ……しばらく沈黙が流れた。
 イスカを見ると、やはりというべきか複雑な顔である。微笑ましく思った。まるで彼を見ていると、大事なご主人様に悪い虫がつくのを心配しているお付きの少年といった感じに見えた。
「あなたはよっぽどヒスイのことが大事なのね……えーと、私はやっぱりイスカ様って呼ぶべき?」
 名目上、彼は三人の雇い主なのだ。だが案の定、当の本人はいわれたことに過剰に驚いて首を横に振った。
「とんでもない! 僕のことは呼び捨てでかまいません。……え、と、僕がヒスイ様をヒスイ様とお呼びしているのは……その、事情がありまして……」
 本当にごまかし方が下手である。まるで、いかにも聞いてくれといわんばかりではないか。とうとう、たまらなくなってアイシャは吹き出してしまった。
「いいたくないことは黙って微笑んでいればいいのに……あなたって本当に正直者ねぇ」
「よくいわれます……」
 照れているのか頭を抱えて、イスカは顔を赤らめた。そして、ふと顔を上げた。
「聞かないのですか?」
 事情を。
「聞かれたくないんでしょ?」
 だから聞かない。本当はとっても興味があるけれど。
 ありがとうございます、と彼は頭を下げた。
「あの……アイシャさんは、愛の女神の巫女だったそうですが……」
 急な話の振り方である。ちゃんと過去形で話していることに満足しながらアイシャは視線を逸らした。
「なぁに? どうしてやめたかってこと?」
「いいえ、そうではなく……最終階級はどれくらいまで行きました?」
「……見習い」
 それもあまり成績のいい見習い巫女ではなかった。ただ、薬草の扱いには長けていたので順当に行けばかろうじて表巫女にはなれただろうが。
「見習いなら、他の神殿のことはご存じないかもしれませんね……」
 イスカはつぶやくように、更に声を低めた。
「表沙汰にはされていませんが、大地の神の神殿にも裏の顔があります」
「……どこもそうなのね」
「おそらくは一番、ひどいですよ。うちの神殿は冥府も司りますから……裏の組合(ギルド)となんらかの関係がある神殿もあるそうです」
 大人しく豊穣だけを祈っていればいいものを。アイシャは逸らした視線をまた元に戻してイスカを見た。この正直で実直な彼から地下組織とはまた似合わない話だ。
 その真面目くさった顔で、イスカはいった。
「アリアナ神殿に着いたら気を付けてください」
 アイシャは空色の瞳を見開いた。
 信じられない、といった風に首を振る。そして、イスカの表情が変わらないことを見ると、頷いて大きく息を吐いた。吐いた息は見る間に白くなる。
「……明日、ヒスイにもいっておいた方がいい?」
「そうですね。……でも、あなたが一番、身を守る術を持たないかと……」
 なるほど。心配してくれたわけだ。
 セイには初めから心配などしていない。だが、イスカは知らないがヒスイも武器を手に取ったのはここ最近の話だ。まして地下なら、風の力も当てにならない。
「うちで一番、危ないのはヒスイかも……。何かあったら、そこの大きな猫が何するか分からないんだから」
 赤い尻尾の、青い目の、大きな猫かぶりはヒスイの側で幸せそうに眠っていた。
 アイシャはまた、消えかける焚き火に燃料を放り込む。
 赤い火がまた大きく膨らんだ。闇の中の赤い色が今日に限って妙に不安をかき立てた。

   *

 寂しいと泣く子供。
 ヒスイは最初、それは自分かと思った。
 暗闇に手を伸ばしても、誰も側にいなくて。
 そうしたら誰かが耳元で囁いた。ちゃんと側にいるよ、と。だから、その一言で安心した……。

 見上げるとそこには満天の星。……これが夢だということを理解するまで、ヒスイにはしばらく時間が必要だった。
「こういうリアルな夢を見るのは初めてかもしれないな……」
 天球をさえぎることない平原。足下には短い草が触れる。草に付いている露が足下を濡らす感触まである。満天の星空は澄んでいた。冬の空を見上げるのと同じくらい、星はその光をまっすぐに地上まで届けてくる。
 宝石箱をひっくり返したような、とはこのことかもしれない。大きなものに飲み込まれそうな圧倒的な存在感に、ヒスイはつい、手を伸ばす。まるで触れられるほど間近に星が降りてきたようだった。

 すすり泣く子供の声が聞こえたのはその時だ。
 寂しいと、聞くだけで分かる子供の泣き声。背を丸めて、身なりの良さそうな子供が泣いていた。
 覚えのある泣き方だった。ヒスイはその子供に近づく。わざと足下で音を立てた。……子供に、彼女に気付いてもらうために。
「誰っ!?」
 可愛い声が響いた。子供の声というのはどうしてこれほど高く響き渡るのか不思議である。思わず耳を押さえた。
 幼い彼女は声だけでなく、なかなかに可愛らしい顔立ちをしていた。波打つ淡い金髪はやや赤みが強い。蜂蜜色とでもいうのだろうか。青みがかった薄紫の瞳は大きく、さっきまで泣いていたのが分かるくらい、はっきりと目の周りが赤い。額にぶらさげられた宝石飾りは瞳の色よりももう少し濃い紫だ。微妙な濃淡が彼女の愛らしさを増している。
 単純にその造作を可愛いな、と思って口元に少し笑みを浮かべたのだが、彼女はそれを目に留めた。
「何、笑ってるのよ!」
 泣いているのを見られた気恥ずかしさか、幼い彼女の声は攻撃的だ。
「勘違いしたのならすまないな。可愛いな、と思ってつい、微笑んだだけだ」
 無表情で答える。こういうときアイシャなら人懐っこそうな笑みを浮かべるのだろうか。子供相手というのはどうも苦手だ。だが幼い彼女はその答えに、ちょっと気をよくしたようだった。……分かりやすい。
「あなた、誰よ」
 それでも不信感いっぱいの態度。
「人にものを尋ねるときは、自分から名乗れといわれなかったか?」
「そんなの変よ。いきなり自分の名前を喋りだしたら、私だったら『なによ、こいつ』って思うわ。名前を名乗れっていわれて初めて名乗るもんなの!」
 ……と、いう。習慣というのは土地によって異なるものだ。彼女の知る常識ではそういうものかもしれない、と頷いた。
「それは失礼した。私はヒスイ。お前の名前は?」
 できるだけ無難な聞き方をしたつもりだが(これでも、だ)、彼女は、何を偉そうに、とますます怒りだした。そして急に胸を張る。
「私の名前はね、教えちゃいけないんだからっ。キドラがそういったんだもの! 私は特別だから、私の名前は教えちゃ駄目なんだって!」
 彼女の態度の方が偉そうだった。だが、高価な身なりからして、いばるのが仕事の身分なのかもしれないと思う。
「第一、あなた、変だわ。ここは私の『星見』の中なのに。他の人は誰も見えないはずなのに。どうして? あなたも『星見』なの? キドラだってここには入れないのに!」
「星見?」
「あなた、『星見』を知らないの?」
 小馬鹿にしたような笑みだった。だが知らないものは知らないので、首を縦に振る。目の前の子供は拍子抜けしたようだった。子供は一歩、近づいてくる。
「……あなた、本当に『星見』じゃないの? そうね、あなた、どう見ても人間だもの。じゃあ、どうしてここに来られたのかしら」
「さあ? これは私の見ている夢の中らしいけれどな」
 子供は藤色の瞳を更に大きく見開いた。
 大粒の宝石のような目に、思わず吸い込まれそうな印象を受ける。そして、愛らしい顔が次の瞬間、笑った。花が咲いたような華やかな笑みだった。
「あなたのこと、ヒスイって呼んでいい?」
 と。
 気に入られたのだと分かった。昔の自分を見ているようで、ヒスイも我知らず微笑む。暗闇の中、寂しいと泣く子供。ヒスイはしゃがみ込んで彼女と目線を同じくする。
「じゃあ、私はお前のことを何と呼べばいいのかな?」
 ヒスイの翠の瞳と、彼女の藤色の瞳が互いを映しあった。幼女は、誰にも内緒よ、と前置きしてヒスイに耳打ちをした。大切な大切な、内緒事を告白するように。
「私の名前はね、トーラっていうの」

 ヒスイと、トーラと名乗る幼女が言葉を交わす様を。
 彼女たちの目に届かないところで、もう一人、見つめている者がいた。
 ここはトーラにしか見えないはずの「星見」の空間。だが、ヒスイの心に潜り込む力を持つ彼には造作ないことだった。
 足を組んで、彼女たちを高みから見下ろす。……青い髪の、夢見の妖魔が。


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