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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第二節第二項(038)

 2.

 三人は神殿に一泊し、翌日にイスカを加えて出発することになった。
 粗末な固い寝台といえども久しぶりに野宿から解放され、三人の体調はすこぶる上々。晴れやかな笑顔が誰の顔にも浮かんでいた。清々しく迎えた朝、いい気分で神殿が用意してくれた朝食を口に運ぶ。献立はつつましやかに、ゆがいた芋と豆だけ。が……。
「まずっ」
 口にした瞬間、真っ先にセイが率直な感想を述べた。ヒスイは文句ひとついわずに口に運ぶ。まずいというのはいいすぎだと思った。ただ、味がほとんどしないだけある。
「これが普通よ」
 そういったアイシャの声にも険があった。自分ならもっとおいしく作れるのに、とでも思っているのだろう。これを普通とするならアイシャは相当、料理が上手かったのだな、と、ヒスイは口にこそしなかったがこっそり彼女を尊敬した。何かと不便な旅の間だというのにアイシャの作ったものはこれより数段おいしかったから。
「オレ、つくづくアイシャの仲間やっててよかったよ」
「私の腕じゃなくて調味料の勝利でしょ。商売柄、料理に使えそうな香草は常に備えてあるもの」
「肝心の商売道具を惜しげもなく使ってまで、おいしいものを食べるのが好きな人が、それをいう?」
 と、セイは切り返す。アイシャは反論もせず、むっつりと黙り込んだ。作るのも好きだが、食べるのも好きなのである。が、ヒスイは味に一番うるさいのはセイだろうと思った。
 話が一段落したのを見て、ふとヒスイはひとつの疑問をこぼす。
「ここは……総本山というには人がいないな」
 確かに広いことは確かなのだが神官や神官見習い、それを支える人々をほとんど見なかった。現在だって、そこそこ広いこの一室にはヒスイ達だけが通されている。広すぎて空気が寒々しい。先ほど、神官見習いと思われる給仕の少年が、無言で食事を置いて出ていったきりだ。
 アイシャは食べ物を十分に噛み砕いて飲み込んだあと、答えをくれた。
「大地の神の主要な神殿ではね、地下があるの。主な人々はきっとそこにいるのよ。収容人数は分からないけれど、ここはどの神殿よりも大きな地階があるとみていいわ」
「……地上部分は入り口の意味でしかないのか」
「そ。大地の神を信仰してる神殿らしいでしょ」
 そして再び食べることに集中する。じゃあイスカはそこにいるんだな、とヒスイは頷いた。それを不満そうな表情で見ていたセイには気付かずに。
 三人が食事を終え部屋を出たあと、別室に控えていた給仕の少年は後片づけをするため入れ違いに部屋に入った。卓の上に残された三人の皿は、芋一欠け、豆一粒残さずきれいに平らげられていた。少年は「まずい」といっていた彼らの会話を反芻する。……味を楽しむのと腹を膨らませるのは別物、ということらしい。

 荷馬車を引く馬にも飼い葉が与えられており、神殿側の待遇はかなりよかった。離れていたのが不安だったのか、アイシャは早速、帳簿を出してきて在庫確認を始める。癖のようなものだ。……しつけの悪い神殿では旅人の荷物が翌朝、少しばかり軽くなっていることがある。安宿に泊まるときも要注意だ。
 ヒスイに荷物と呼べるようなものは初めからない。生活に必要なものはほとんどがアイシャと共有して荷馬車に積み込んであるし、あとは身に付ける武器防具を点検したら、いつでも出発できた。弓を弓袋(ゆぶくろ)にしまい、矢筒と共に背中に背負う。腰には短剣、動きやすい男物の服の上には胸部を補強した皮鎧。格好だけは護衛らしく見える。セイはいつも着ている上下共地の服の上に、今は商人らしくゆったりとした服を身に付けていた。それだけで非戦闘員に見えるのだから色んな意味でたいしたものである。
「遅くなってすいません」
 明るい少年の声が届いた。フードを取り払った彼の茶色の前髪の下で、細い金色の環が朝の光を受けて自己主張している。イスカは昨日と同じ、ややくたびれた法衣に身を包み、最低限の荷物らしきものを持っていた。違うのは手に大きな杖を持っていることである。少年の身長より、やや低いくらいの長さだ。少年はヒスイと同じくらいの背だったが、ヒスイの方が細身だからであろうか、イスカは彼女よりも低めに見えた。
「じゃあ、さっさと霧の谷に案内してもらおーか」
 わざとそうしているとしか思えないぶっきらぼうな言い方だが、イスカは気にならなかったらしい。
「あの、まず先にアリアナ神殿にお使いに行ってからです」
 と、素直な笑顔で答えた。
「……はぁ? あれ、言い訳じゃなかったのか?」
「どうしてそんなことをしなきゃならないんですか? 僕が神殿を離れていいのは、神殿の許可が下りたときだけです」
 真面目な顔で首を捻る。ヒスイは表情こそ変えなかったが面白そうにそれを見、アイシャは背を向けて笑いをこらえていた。イスカという少年は、嘘とか、騙す、騙されるといった発想はまるでないらしい。ある意味でセイと反対の彼の言動は真面目な分、滑稽な道化に見えた。セイはあからさまに侮蔑した顔を作る。お前なんか嫌いだとか、苦手だとか、要領悪すぎだとか、いってやりたいことは山ほどありそうだったが、ヒスイが止めた。
「……ともかく。行こうか。道中は歩き。食事は日暮れまでないが、大丈夫か?」
「はい、ヒスイ様!」
 イスカは元気よく答えた。そこにはやはりヒスイだけを特別視するような態度が見えたが、こっちには心当たりはないので気にしないことにした。セイはまだ、なんでこんな面倒な、と嫌味ったらしく愚痴をこぼしていたが、これまた気にしないことにする。

 さて、セイが馬の轡を取り、行き先を知っているイスカがその隣に並んだ。荷馬車の後ろにはヒスイとアイシャが付く。女性陣は会話も進むが、前を歩く男性陣に会話が進むはずもなく、二人とも無言で後ろの女性達を気にしていた。
「……あれは何をなさっているのですか?」
「ああん?」
 声は不機嫌きわまりない。後ろでは、ヒスイとアイシャが空中でなにやら指を動かしている。セイにとっては見慣れた光景だった。
「読み書きの練習だよ。ヒスイは、ハーン文字の意味は取れるけど、カリナ文字の読み書きが出来ないんだ」
 ハーン文字は、文字ひとつに意味がある。それに対して音だけを単純に表したものがカリナ文字だ。他の言語に比べて覚えやすいことから比較的よく使われ、共通文字ともいわれる。とはいえ、比較的よく使われるといっても識字率は全体的に低いのだ。だからヒスイが文字を知らなくても不思議はないのだが、いかんせん彼女の場合、神殿育ちのアイシャや元・盗賊のセイが文字を自在に使うものだから自分も覚えなくてはいけないと思ったらしい。どのみち文字が分かるのは色々便利なのであえて止めることもない。
「ハーン文字は書けるんですか? 普通、カリナ文字を先に覚えません?」
「……多分、ヒスイは中央の出じゃないんだろ」
「ああ、そうかもしれませんね。『言葉は竜が与えたもの、文字は神が与えたもの』ですから、もしかすると使う音が少し違うのかもしれませんね」
 だったら音から覚えなきゃならないから大変だ、とイスカは納得するように頷いた。
 獣が吠えるように、鳥が鳴くように、地上で生きるもの全てには、ちゃんと種族間で通じる言葉をそれぞれ竜は与えた……と、いわれている。それは、この『世界』に言い伝えられているただの神話だが、二人はそれを前提に話していた。言葉はひとつ。なのに、文字は神の数だけ、いや、もっとたくさんあるのだから厄介だ。
「……おい、チビ」
「……もしかしなくても、僕のことでしょうか」
「そーだよ。お前、なんでヒスイだけ様付けなわけ?」
 気に入らない。自分以外でヒスイの側による男はみんな気に入らないのだがそれは棚に上げておく。セイは気に入らないだけでなく、はっきりと目の前の彼が嫌いだった。
「ヒスイ様のご両親は霧の谷の方なのでしょうか」
 はぐらかされた、と思った。だが違った。イスカは前に視線を固定したまま、次の言葉を続ける。
「外の方は気付かないのかもしれません。でも、谷の人間にだけ分かる意味がお名前には隠されています。ヒスイ様のお名前は翡翠と書かれるのでしょう?」
「その意味ってのは、何だよ」
「……はっきりとはお教えできませんが……僕の名前も同じ意味を持ってます」
 いわれた言葉にぎょっとしてセイは少年を見た。少年、イスカもまたセイを見る。ふたつの名の共通点。いわれるまで気付かなかった自分が呪わしい。
「気付きました? それ自体は特別な意味ではないでしょう? ですが谷では特別なんです。谷でしか通じません。……あなたが、あなた方にしか通じない意味の名を持つように」
 やっぱり、ばれてたか。
 セイはやや目を細めながら彼を見た。イスカの琥珀色の瞳は揺るぎもしない。
 会話らしきものはそれっきり途絶えた。目の前の少年もセイのことを気に入らないと思っているのかもしれない。セイとイスカは無言で歩き続け、後ろの女性二人は前の様子に気付いた気配もなく、仲良くおしゃべりに興じていた。

 これを知っている人間はここに一人もいないのだが、ヒスイの名前は父親がつけた。
 まだ翠の瞳が開かぬ間に。

   *

「セイ、ここらで止めて!」
 アイシャの声が響いた。日は西の空にあるが、まだ沈んではいない。
「今日はここらで野宿?」
「そうよ。食事の支度を始めるわ」
 荷馬車を止めると、てきぱきとアイシャはかまど作りに取りかかった。途中、何回か休憩が入ったとはいえ、半日歩き詰めだったというのに元気な人である。ヒスイは腰を下ろし、ちゃっかりとセイはその近くに座った。
「アイシャ、手伝えることは?」
 あっさりセイをやり過ごして、ヒスイは立ち上がりアイシャの近くに寄る。
「今日は特にないわ。神殿じゃ薪(まき)も野菜も随分、用意してくれたから。今日は腕を振るって野菜料理よ。なんと、キャベツが食べられるわ」
 燃えるわぁ、とアイシャは嬉しそうに包丁を握った。イスカは、きょとんとして首を傾げる。キャベツは比較的どこの畑でも作っている、ありふれた野菜だ。それなのにヒスイとセイも、久しぶりだといい、嬉しそうである。
「あの……ヒスイ様?」
 そんなに珍しいですか、とイスカが口にする前に、ヒスイが言葉を紡いだ。
「畑から離れたことがないと実感が湧かないだろうな。……葉物の野菜は、根菜に比べると腐りやすいんだ。それに、野菜は重くてかさばるから、小さな荷馬車ではあまり量を持ち運ぶことは出来ない」
 だからあまり食べられない。
 なるほど、それなら納得がいく。というか考えもつかなかった自分を恥じた。
「気にするな。私も旅をしてから気付いたんだ」
「すいません……。それでは、あの、いつも何を召し上がっておられるのですか?」
 ヒスイはただ興味本位の質問なんだろうと受け取ったようだが……実はイスカにとっては食糧事情はかなり深刻な問題だった。
「いつも? ……麦の粥とか、ビスケットとか、小麦粉を練ったものを焼いたり、煮たり。芋やかぼちゃは長持ちするから、それと干し肉でスープを作ったり。時々、狩りの獲物で鳥を落としたり、兎を捕まえて、さばいて、ワインで煮てシチューにしたり……」
 新鮮さが命である卵や乳製品は滅多に口に入らない、ともいった。
 その答えにイスカは反射的に頷きを返す。が、頭の中では必死に「どうしよう」と考えを巡らせていた。
「どうかしたのか?」
「……あの、僕は戒律上、肉や魚は食べられないのです。卵や乳製品も」
 ヒスイが翠の瞳を少し見開いた。
 あきれてるだろうな、とイスカは身をすくませる。旅の最中という、贅沢をいってられる場合ではない状況で、食べ物にけちをつけるのは最低だとイスカは思っていた。
 まだ巡礼の旅ならばいい。周りの人間も同じ戒律を抱く者たちばかりなのだから。
 四人固まっているので、自然とその会話はセイやアイシャの耳にも入る。
「アイシャさん、ちなみに今日の献立は?」
「そうねぇ、キャベツと花野菜のポトフに、ゆでたソーセージの粒マスタード添え。お酒はエールでどうかしら」
「最高」
 アイシャはイスカに向かって微笑む。
「ポトフにはお肉、入れないからね」
 大地の神の戒律はアイシャも承知の上だった。イスカは幾分か表情をゆるませて肩の力を抜く。本日の献立であればソーセージさえ食べなければいいのだ。酒は禁じられていない。葡萄から作られるワインも、麦から作られるエールも、大地の実りの証だから。
「そういや、愛の女神の神殿にはそういう戒律ないの?」
 セイの何気ない疑問にアイシャは首を捻った。
「食べ物に関しては全くないわね。神官がお酒を禁じられてないのって、うちと大地の神くらいじゃないの?」
 幼少期にたたき込まれた戒律は思い出そうとしなくても勝手に浮かぶ。そんな二人のやり取りを、残った二人がこれまたきょとんと見た。特にアイシャを。
「……アイシャは愛の女神の巫女なのか?」
 意外だといわんばかりのヒスイの台詞。横でイスカが首を縦に振る。
 いってなかったっけ、とアイシャは逆に驚いた目でヒスイを見、セイはそれに背を向けて、愛嬌のある顔で舌を出していた。


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