翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第二節第一項(037)

 案内人

 1.

 石ころだらけで木の一本も生えていない山、そこを慣れた足取りで歩く一人の影があった。裾のすり切れた朽葉色の法衣を身にまとい、遮るもののない日射しを避けるためにフードをかぶっている。フードの下からは茶色の前髪がこぼれて見えた。一生懸命そうな両の瞳は琥珀色。その輝きはまだ少年のように見える。
 少年はふと顔を上げた。
 山の麓から馬車の車輪の音が聞こえる。轟くような馬のひづめの音がそれに覆い被さる。何が、と少年は音のする方角に目を向けた。
 一目見て荷馬車と分かる馬車が、珍しく全力疾走していた。何かから逃げているようにも思える。御者席に座るのは女性だ。その彼女と、少年は目があった。
 女性が何かを叫ぶ。が、はっきりとは聞き取れない。それでも、せっぱ詰まったその雰囲気から、逃げてといっているのが分かる。何から逃げろと、と、うろたえた一瞬が余計だった。その一瞬で馬車は一気に距離を詰めて、それと共に矢が飛んできた。
「わぁっ!?」
 少年の足下に深々と刺さった矢。次々と矢が雨のように振ってくる。矢は、荷馬車の背後から放たれていた。
「早く乗って!」
 馬を操っていた女性が手を伸ばしてくる。今逃げてもおそらくは逃げ切れないと判断してくれたのだろう。
「早く!」
 鬼気迫る迫力に押されて、少年はとっさに彼女に手を伸ばし、荷馬車のすれ違いざまに地面を蹴った。女性にしてはなかなか強い力で引っ張り上げられる。そのまま女性の隣の、御者席に放り出された。
 岩場だらけの山を荷馬車で疾走しているのだから、当然揺れは厳しい。いきなりの急激な縦揺れに対応できず、少年はしっかりと席にしがみついた。
「ヒスイ、まだなの!?」
 叫ぶ声に、え、と少年は隣の女性を見る。幅広いピンクのリボンを締めた女性は後ろを振り向くこともしない。
 その言葉に答える声は、ちゃんと荷馬車の後ろから聞こえてきた。
「まだだ」
 簡潔に答える声。
 少年は荷馬車の奥に二人の人影を見た。荷馬車に普通、天幕はない。ごちゃごちゃと生活道具やその他のものが積み上げられたこの荷馬車には、雨よけと思われる布が覆うように被せられていた。薄暗い荷馬車の奥にいる二人のうち、一人は短い黒髪の小柄な女性。後方に弓を構えている。その傍らに座るのは赤毛、青い目の青年だ。
 女性は弓弦の音を響かせ、次々と矢を放った。

  *

 ヒスイは弓を引き絞った。
 後ろを追ってくる野盗は容赦なく射かけてくる。こっちも負けじとやり返すが、ヒスイはお世辞にも上手いといえる腕ではない。
「また外した」
 セイがあきれかえる。
「うるさい」
「何本、矢を無駄にすれば気が済むのかな。矢だってタダじゃないんだけどな」
「だったら援護射撃くらいしてくれてもいいだろう」
 あっさりと会話を進めているが、実はかなり余裕がない。ヒスイの息は上がっている。そしてまた、矢をつがえて弓を引いた。セイは戦況を見ながら、時々右腕を振った。その度に、突き刺さってきたであろう相手の矢はたたき落とされる。彼の手には剣が握られていた。
「何度もいってるでしょ。眉間、喉笛、心臓、どれかを射抜けば人間は動かなくなるんだ、って。ヒスイ程度の腕で人を殺さず……ってのは甘いよ」
 ヒスイの矢はもっぱら馬、あるいは相手の肩など無難なところを射抜いていた。それがわざと狙ったものであることに気付かないセイではない。
 ヒスイは答えない。セイは肩をすくめた。分かってはいるが譲れない、といったところか。
「さて。ここらでもう弓矢の練習はおしまいにしよう。とっとと片づけるよ」
「……」
 ヒスイは荒い息でセイを見ながら、無言で弓をおろした。野盗の馬はさらに近づいている。ここにいたるまで少なくない数を馬から落としたつもりだったが、まだかなりの残党がいた。こちらは三人。もう迎え撃てないところまで来ていることはヒスイにも分かった。
 セイは山吹色の小袋を出してきて、中身を掌の上に乗せた。軽い、灰色の粉末だ。
 野盗はさらに馬の足を早めた。もうこちらが射かけてこないことをよしと思ったか。近づいてくる。距離はもうない。
「まだなの!? 早くしてぇええぇ!」
 アイシャの絶叫が合図かのように、セイが掌の粉末を吹いた。ヒスイの瞳が翠に光る。
「行け」
 突風が吹き荒れた。
 風は野盗に襲いかかり、その一群にからみついた。セイの吹いた粉末が全員の肺に吸い込まれるまで、念を押すように風は彼らから離れない。いきなりの突風に煽られた男達の足は遅くなった。そのうち粉末が効いてきたのか、落馬する男達が出、頑張って馬にしがみついていた者は馬の方が崩れて巻き添えを食った。
 全員が倒れるまで風は彼らにまとわりついた。ヒスイの望むままに。
 その様子を見届けたあと、彼女が聞いた。
「……何を撒いた?」
「しびれ薬。だって、ヒスイが殺すなっていったしィ」
 賢明な選択だ。それまでの緊張の糸がゆるんだのか、肩の力が抜ける。セイはそのタイミングを外さなかった。ごく自然な動作でヒスイの右腕を取り、弓を使うとき専用の籠手を外して、強(こわ)ばった手を揉みほぐし始めた。
「随分、ましになったよ」
「そうか。……だが、実戦ではまだ役に立たないな」
「実戦で役に立ちたいと思うなら、ちゃんと息の根、止めなさいね」
 ヒスイはまた押し黙った。彼のいうことは正しい。が、出来る限りそうはしたくない。セイはヒスイの右手を揉む手を止めて、むっつりした彼女の顔を下から覗き込む。真面目くさった調子で一言、
「そういう顔してると、キスしちゃうよ?」
 と。
 ……平手打ちの音が華やかに木霊した。
「あら。その音がするってことは、もう馬を止めていいのね?」
 アイシャは肩越しにわずかに顔を向けた後、疾走する馬車を止めにかかった。いくらセイでも、命のやり取りをしている最中に漫才をしている余裕はない。それはヒスイの命にも関わるから。
 馬を止め、やっと荷馬車の縦揺れが収まったとき、ふいに拍手が響いた。
 何事、と全員の目が御者席に向かう。見慣れない少年が目を輝かせて、手を叩いていた。
「……アイシャさん? ねぇ、そのちっこいの、何?」
「えーっと……」
 巻き込まれそうだったから、と、ついお節介を焼いてしまった女性は、そっとセイから目をそらした。

「大地の神の神殿に仕えます、イスカと申します。先ほどは危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
 少年は、袖の中に隠して両手を合わせる神殿風の礼をした。危ないところを助けた、どころか、巻き込んだ、の間違いである。ヒスイは気まずく口を閉ざし、セイはその後ろに立って彼女の肩を抱きすくめていた。アイシャだけが一人、明るい。
「こちらこそ、ごめんなさいね。私はアイシャ。薬草の行商人をしているの。で、隣はヒスイ。私達の護衛で、その後ろがセイ。ええと、私の弟よ」
 弟、と紹介されたセイは、相手が女性なら手のひとつでも振ったであろうが、今はしっかりとヒスイを抱きしめて無言のままである。ヒスイに愛想笑いなどという器用な真似ができるはずもなく。
 イスカは頷いた。似ていない姉と弟を変わりばんこに見る。やっぱりこの設定は無理があったかな、などと思いながらも平然とアイシャは微笑んだ。
 森の国を出るときに詐称したヒスイとセイの通行証。ヒスイは風使いの特技を生かして護衛、セイの身分は何と、薬師見習いと書かれてあった。何の関連性のない三人がつるんでいるよりも怪しまれないだろうというのがセイの言い分だ。もっともである。周囲の余計な詮索をかわすためにも、旅の間はそういう設定を押し通すことにしたのだ。今までのいきさつを一から説明するのは面倒だったし、この方が「行商の姉弟が安い護衛を雇っている」と相手は勝手に考えてくれる。危険の多い行商人が護衛を雇うのはよくあることなのだから。
 イスカもそう受け取ったようである。納得したようにもう一度、頷いた。そして目を輝かせながら真ん中に立っていたヒスイを見やる。
「ヒスイ様は風使いなのですね」
 アイシャとセイは揃ってヒスイに目を向けた。いきなり尊称を付けて呼ばれたことに、一番困惑したのは当の本人である。
「……あの……様付けされるいわれはないのだが……」
「え? ……あ! すいません、外の国ではヒスイというお名前は多いのですよね」
 少年は、自分の思いこみを恥じたのか顔を赤くして照れ笑いをする。外の国、という言葉を聞きつけて、セイが口を挟んだ。
「もしかして、さぁ。あんた、霧の谷の出身者?」
 セイの言葉に少年は顔を上げ、ヒスイとアイシャは少年を見た。外部との接触がほとんどない霧の谷では独特の文化が形成されている。外の国、というのは鎖国同然の霧の谷の出身者でないと漏れにくい言葉だった。
 少年はセイに向かって邪気のない笑みを向けた。
「はい、その通りです。霧の谷、またの名を精霊達の『最後の聖域』が僕の故郷です。この先のフォラーナ神殿に留学しております」
 琥珀色の瞳を輝かせ、誇らしげに故郷を語る少年。
 セイはやや押さえた声で、当たりだ、とヒスイの耳元で囁いた。

 そう。ヒスイ達は、霧の谷までの道案内を求めて、そのフォラーナ神殿まで足を運ぶ途中だったのだ。

   *

 大地の上では豊穣を、大地の下では冥府を司るその神を、人々はその役割で呼ばず「大地の神」と呼び慣わし、親しんでいた。山の上にある神殿はその総本山である。神々の大半が一ヶ所の町にまとめて総本山を置いているというのに、大地の神だけは人里離れたこの岩だらけの山にひっそりとたたずむ。
 それは、この神だけが冥府という人から忌み嫌われるものを司っているからだと誰かはいい、また別の誰かは、人が遠い昔に忘れ去った大地の精霊を敬う心が七柱目の神となったからだ、と。だから神々の列には加えてもらえないのだという。そんな噂が確かかどうかは定かではない。だが、この神殿だけが外部との接触のない霧の谷と結びつきがあるのは確かだった。……表沙汰にこそされてはいないが。
 共に大地を愛する者であり、大地を守る者であるという互いの自負がそうさせるのか。

「道案内を請う、とおっしゃる」
 語尾を上げもせず問いかけてくるのは、中年の神官だった。微笑みもしない厳めしい顔に、いささか気後れしながら三人は霧の谷へ向かいたいという意向を伝えたのだが、どうやら歓迎はされてないらしい。
「あの国は外の人間を忌み嫌います。行かれても無駄足を踏まされることになるのでは」
「分かっていってるんだよ、おっさん」
 セイが一言いう方が早かった。女性二人が同時に彼の足を踏む。どこかからヒキガエルのひきつけが小さく聞こえた。
 目の前の神官は眉ひとつ動かさない。是か非かも読みとれなかった。
「じゃあ、あのイスカって神官さんに直接聞きますわ。私達を案内してもらえるかどうか。彼を呼びだして下さい」
 なりふり構ってはいられないのでアイシャはそう提言した。あの人の良さそうな少年なら頼み込めば聞いてくれるかもしれない、と一縷の望みを託したのだが
「かの者は神殿に勤める身ゆえ、神殿の許可なくしての帰国は許されておりません」
 と、にべもない。
 ヒスイは、ふと何かを思いついたように神殿の外を見た。口の中でぼそりと呟く。……一陣の風が吹いた。
 あとは何をいっても「お引き取り下さい」の一点張りで、揺るぎない巌のような態度にいいかげん疲れてきた頃である。都合のいいことは起こるもので、イスカと名乗った例の少年が廊下を静かに歩いてきたではないか。
「申し訳ありません。その方々には、まだ僕の用があるのです」
「……公私を混同するのか、神官イスカ?」
 神官はやはり表情を変えずにイスカにも接した。語尾を上げて、聞く姿勢を見せているだけでも当たりが柔らかくなったといえるかもしれない。そのイスカは、素直そうな顔でぺこりとお辞儀をした。
「大変申し訳ありません。この度、大神官様からアリアナ神殿への使いを申しつけられまして、彼らには僕の護衛をお願いしようと思っているのです」
 更に続ける。国に大事があったようですので、お使いの後、里帰りを許していただきました、と。大神官の名前を出されては縦社会の神殿内で騒ぎ立てるわけにもいかない。神官は眉ひとつ動かさず無言で退出していった。ざまーみろ、とセイはこっそり笑う。
「遅くなりました。大神官様に許可を頂いてきたものですから」
 イスカはヒスイに向かって頭を下げた。事情の分からないセイとアイシャは、瞬きを繰り返してヒスイとイスカを見比べる。
 ヒスイは風に声を乗せて、イスカの元まで吹いて行けと念じた。精霊と身近に接していただろうイスカになら気付いてもらえるかと試してみたのだが、どうやら思惑は成功したらしい。
「聞こえるとは思わなかったな」
 ヒスイは謙遜でも何でもなくそう思ったのだが、イスカはなぜか力強いものを仰ぎ見るような表情で、にこっと笑った。


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