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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第一節第二項(036)

 2.

 青い髪に縁取られた相手の顔をキドラはにらみ返した。
 拳を強く握りしめる。怒りが沸点まで上昇したかと思うと、次の瞬間、一気に氷点下まで急降下した。
 顎を引いて、片眉をつり上げ、目をすがめる。唇をにやりと左右に引いた。
「貴様のその言葉、我が主に対する侮辱と受け取って良いな?」
 キドラの足下からゆるやかに立ち上る白い陽炎。空気が音を立てて凍り付いていった。青い髪の妖魔もまた目を細めて受けて立つ。顔には馬鹿正直に「あ、こいつ性格悪いな」と書いてあるものだから、それを見た御簾の奥の女王は思わず口元を押さえて微笑んだ。
 ここで二人の争いを止めるのは簡単だが、それでは面白くないのでそのまま放っておく。
 口火を切ったのはキドラだった。
「畏れ多くも妖魔の長たるあの方に、妖魔でもない私が何をしてさしあげられる?」
 氷で出来たナイフのように冷たく切りつける声。口調にはわずかに苦い笑いが含まれている。本来なら、キドラなど側に寄ることもかなわない高嶺の花だった。下僕に落ちることで愛しい女のために出来ることがあるというのなら何をためらう必要があっただろう?
 忠誠心と、愛情と、肉欲と、打算と、崇拝。全てを含んだこの感情に何と名前を付けるのかキドラも知らない。ただ、一生涯でただ一人の相手に彼女を選んだ。たった一人の主、たった一人の女。自分の存在すら彼女の存在の前には霞んでしまうほどに。
 青い髪の妖魔は「夢見」。キドラの心を読みとったのか、興味なさそうに首をすくめ、両手を広げた。無関心を装ってはいるが、どうみても納得はしていない。ともかく相容れないことはよく分かったようで、そのまま退出する気配を見せる。
 その背に向かってキドラが
「待て」
 と制止の声を上げた。男は首だけこちらをむける。
「貴様は三度、我が主を侮辱した」
「……それが何?」
「今度会ったら命はないぞ?」
 笑っているのはキドラの方で、「夢見」の妖魔は笑みを引っ込めている。一見、優位に立っているのはキドラに見えた。が、
「サイハ様に免じて、今度会っても一度目は殺さないでいてやるよ」
 あくまでも青い髪の妖魔は強気だった。
「ただし」
 と、大きな声で付け加える。次に男は声を低めた。
「……もし、体にしろ心にしろ、オレの一番大切なものに兎の毛ほどの傷でもつけてみろ……その時は」
 不自然なところで言葉を切った。その先はいわない。分かってるな、とも、命はない、とも。が、その眼差しにキドラは不覚にも総毛立った。
 彼は辺りの闇に溶け込むようにして立ち去っていく。キドラは、けばだった腕をかばい込むように、右手で左腕あたりの服地をつかんだ。
 御簾の向こうでも、麗しの妖魔の女王が立ち上がる。キドラは急いで女王に向かい、跪いた。
「なかなか見物だったわ」
 笑われてしまった。キドラは更に深く頭(こうべ)を垂れる。
「キドラ。お前、あの男の一番大切なものを引き裂いてやろうと考えた?」
「あなた様はお考えにならなかったのですか?」
 そんなはずはない、と直感的にキドラは思った。
「効果的だわね。あの男もそう思って、お前の前で私に無礼を働いたのでしょうよ。……けれど、あの男に大切なものが出来てたなんて……」
 意外そうにいう女王の言葉に、今まで彼はそれに該当するような対象を持っていなかったのだろうと推察する。だとしたら少々厄介かもしれない。守るものを得た獣は、より攻撃的になる。キドラはそんなことをおくびにも出さず主の言葉を接いだ。
「『面白い』ですか?」
「よく分かっているじゃないの」
 また、くすくすと笑い声。鈴を転がしたような高く澄んだ声だ。そこに陰湿さのかけらも窺うことはできない。ただただ本当に……しいて形容する言葉を探すなら「愛らしい」であろうか。
「待っていなさいね、キドラ。お前の野望は、そう遠くない日にかなえてあげる。そう、あの星を足がかりに、ね」
 柔らかく告げられた声に、キドラは思わず顔を上げた。
 自然とにじみ出る微笑……否、冷笑。
「ありがとうございます」
 この麗しき主と打算で繋がっている、ということを思い出すのはこういうときだ。

   *

 主を見送った後、城に戻ったキドラはまたもや頭痛を引き起こしそうな思いをするはめになった。
「キドラ!」
 耳をつんざくような高い声。……あの子供だ。
 部屋の中には、癇癪(かんしゃく)を起こしたのか部屋中に花瓶か何か、陶器の破片が散らばっていた。
 側仕えの侍女が数人、その片づけにかかっている。
「何があった」
 出来るだけ優しい声音で尋ねる。占い師の幼女は長い裾を蹴って駆け寄ると、キドラに抱きついた。守ってもらえる人だと信じ切っている。キドラは、そのふわふわした蜂蜜色の髪を何度も撫でてやる。
「どうした?」
 撫でられて、彼女はやっと落ち着いたらしい。しっかりとキドラの服の裾を握りしめ、むくれた顔で訴える。
「キドラ、あの子を叱ってやって頂戴!」
 あの子、と侍女の一人を指差した。まだ若い侍女は身をすくめる。微笑みを浮かべながら、どうせ他愛もないことだろうと内心で思いつつ、それで、と先を促した。
「あの子が私の名前を呼んだの。キドラしか呼んじゃいけないのに! 私の名前は特別だから、呼んじゃ駄目なのに!」
「おや」
 わざとらしく目を瞠ってみせる。それはいけないね、とやはり柔らかな微笑みを浮かべてキドラは子供の頭を撫でた。
 名前には呪が宿っている。とはいえ、真名……人間でいうハーン文字で綴られた、意味を持つ名前でない限り特別どうの、ということはない。数少ない「星見」ということで不用意に名乗ることを念のため禁じているが、この子供も名前の事情はちゃんと承知しているので――すなわち、真名でなければ教えても差し支えないことを――きまぐれに人に教えて「内緒ね」と口止めしていることをキドラは知っていた。
 おそらく癇癪を起こす子供を止めるために、その名前を教えられていた侍女の一人が思わず口走ってしまったのだろう。それが、たまたま虫の居所の悪かった子供の癇(かん)に障ったらしい。
 くだらない。
 微笑みを浮かべながらキドラは思う。
 キドラは彼女の髪を何度も撫でながら、薄い水色の瞳を三日月に細めた。
「じゃあ、殺してしまおう」
 あっさりといってのけた。
 当の侍女は絶望に顔を染めて、涙目でキドラを窺い見た。爪先から頭のてっぺんまで、震えがまっすぐ立ち上っていったのが見てとれる。
 幼女はというと、そこまできつい罰が下されるとは思っておらず、ただでさえ大きな目をさらに大きく見開いた。それから、顔色を悪くしてうつむき、もじもじと体を揺すり始める。
「あ、の、……そこまで、しなくても……いいと思うの。ね?」
 自分がやりすぎたことに気付いたらしい。だが、もう遅かった。キドラは、表面上はとてもせっぱ詰まった顔をして見せた。しゃがみ込み、幼女と目線を同じくする。
「何をいうんだい? もし可愛いお前に何かあったらと思うと、私はそれだけで胸が潰れそうになってしまうよ。生かしておけば同じ事になるかもしれない。もう二度と、こんなことが起こらないようにしなくてはね?」
 違うかい?
 誠意を持って、彼女の藤色の目を見つめる。幼女の目の奥で迷いが見て取れた。
 子供が大人の口にかなうはずもない。たとえ、子供が幾ら「違う」と思っても。一見、正論のように見せて巧みに論点をすり替えた大人の言い訳に気付いても、それをどういう風に相手に伝えればいいのか分からない。
 その上、大人はそれを分かってやっているから、さらに始末が悪い。……結局は子供が納得するしか相手の口を塞ぐ手段はないのだ。
 占い師の幼女は、左右にふらふらと視線を彷徨わせながら、
「キドラは、私を心配してくれているのよね……?」
 と、おそるおそる尋ねてくる。
 キドラはこれ以上ないくらい頼りがいのある、優しい笑顔で応えた。
「もちろんだよ、私の可愛い姫君」

 子供は必死で納得しようとしていた。これは、キドラが自分のためを思ってやってくれたのだから、と。
「お許し下さい、お館様。お許し下さい、お許し下さい!」
「連れて行け」
「お許し下さい!」
 引き立てられる侍女の後ろ姿を見ながら、子供は小さく、ごめんなさい、と震える声でつぶやいた。
 扉が閉ざされる。だが、侍女の許しを請う絶叫はなおも続き、やがて遠くなっていった。
 キドラは悪くない。キドラは私を心配してくれただけだ。だから、これはみんな私が悪いのだ、と。小さな胸を痛めてキドラの足下にしがみついた。
 ……絶叫が耳にこびりついて離れなかった。

 打ち震える幼女に対してキドラは優しく、背中をさすってやった。
「愛しているよ、私の小さな姫君」
 偽りの微笑みを浮かべる。すべてを見通すはずの「星見」の子供はそれに気付かない。しゃくりあげながらキドラにしがみついた。

 お前があの方の役にたつ間は、いくらだって愛しているふりくらいしてあげるよ――。

  ***

 うってかわって、こちらは「最後の聖域」。
 常に霧の立ちこめるこの国を、人々は霧の国、とは呼ばず、霧の谷と呼んだ。そこは国にして国にあらず。人と精霊が近くに暮らす、文字通り精霊達の「最後の聖域」。この国を治める王は同時に精霊の長でもあるのだから。
 今上の長は他のどんな長よりも精霊に愛されていた。公式の妻子はいない。王妃は早くになく、庶子が一人。だが、跡を継ぐ者は他の家から決める、と、国では高名な三つの家から一人ずつ養子を迎えていた。……余談であるが庶子の存在を見た者はいない。

「風竜様のお渡りだって?」
 長は、相手の突然の来訪に驚きながらも嬉しそうに謁見の間に入ってきた。
「これはこれは。相変わらず唐突ですね。出迎えの暇も与えてはくださらない」
 おそらくこの地上で膝を折る相手など一人もいないはずの長は、敬語を使い、目の前の相手に深々と頭を下げて礼をした。
 その、膝を折られた相手はというと、背丈ほどもある長い白の髪をすべて後ろに流して悠然と腰掛けていた。両目は固く閉ざされている。こめかみの近くには耳のかわりに別のものが見えていた。幾筋かの骨に皮膜を張ったような形。竜が人の形を取ったとき、他の全ては完全に人と同じものになるのにこれだけは竜のままで残す。
「やあ。相変わらず固いな、お前は」
 若い男の姿を取った風竜は、まるで友達にでも語るような口調で長に話しかけ、椅子を勧めた。長はそれに甘えて目の前の椅子に座る。
「さて、さっさと本題に入らせてもらうよ。……お前、水の姫巫女が『あれ』を異端の星と見なして排除の方向に向かっているというのに、正面切って反対したそうじゃないか」
「……ああ、予言の星ですね。きっと、そのことでおいでだと思いました」
「で、何故だ?」
 風竜は、性質として一定の所にとどまらず、良くいえば自由奔放、悪くいえば気まぐれでせっかちである。長は苦笑しながら答えた。
「正面切って反対などしていませんよ。ただ、今はまだ静観するだけにとどめるべきだと申し上げただけです」
「お前が反対意見をいうのは珍しいからそうなるんだよ」
 風竜は面白そうに、長の額をこづいた。まるで見えているかのような自然な動作だったが、両目はやはり閉ざされたままである。
「お前、まだ何か隠してるだろう」
「そういう風竜様こそ、何か私におっしゃりたいのですか?」
 にっこりと微笑んで返す。伊達に年くってないねぇ、と、見た目に反して長より遙かに年長の青年は満足げに頷いた。
 椅子に座り直す。
「人間とはいえ、お前くらいになればあの星がまた、強く輝いたのが分かっただろう」
「ええ……森の国のはずれ、でしたね」
「あの辺りの風の精霊が歓喜していた」
 風竜がこともなげにいいきったのは、極秘事項だった。長は何度か瞬きを繰り返す。
「なぜ、そのことを水の姫巫女様におっしゃいませんでした? 真であれば、少なくとも予言の星は精霊に愛される性質だということでしょうに。それも、聞く限りでは風の属性を持っている」
「私の見解が水の彼女と同じだからだよ。……私もあれは異端のものだと思う。分からないのは、『世界』があの星を守る方向に向かっていることだ。それはすなわち、この『世界』に必要な存在だと認めているということにならないか?」
 長は静かに微笑む。そうでしょうね、と。
 風竜は身を乗り出した。
「で、お前は何を隠してる?」
「あれは私の雛です」
 あまりにあっさり告げられた長の言葉に、今度は風竜があっけに取られる番だった。その両目が開けば目をしばたたいたかもしれない。
「どういう意味だ?」
「文字通りですよ」
「お前の……子供という意味か? それとも、鳳雛(ほうすう)だとでも……?」
 長は穏やかに微笑んでそれ以上答えなかった。長の名前は鳳(ホウ)という。


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