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翡翠抄−ひすいしょう−

第一章第五節第二項(032)

 2.

 ……それは今から十年ほど前の出来事。
 季節は確か秋。
 小学校にあがったばかりだったと記憶している。学校帰りに呼び止められた。

 ――お母さんが事故に会ったよ――

 知らない人だった。
 だからヒスイは彼らについていかなかった。

 ――さあ、早く乗って。病院に行こう。どこにいくの――
 ――……おうち帰る――

 母親からいわれていた。知らない人についていってはいけない、知らない人から物をもらってはいけない、お家にはちゃんと決まった時間に帰ってくること。当時、ヒスイの知っている大人といえば母の「おともだち」と「かいしゃのひと」しかいなかった。声を掛けてきた大人たちはそのどちらでもない。
 もし本当に事故にあったなら、お家にいれば「かいしゃのひと」が知らせてくれる。ヒスイは家路へと急いだ。
 けれど大人達は、彼女の体を軽々と抱えて車の中に連れ込んだ。

 ヒスイは、彼らが自分をどうするつもりなのか分からなかった。
 お家に帰らないといけない、と思った。でないとお母さんが怒る。
 やがて日が暮れて彼らはとうとうヒスイを帰してはくれなかった……。

   ***

 気が付くと見慣れない室内の天井を眺めていた。
「……」
 何気なく左手を持ち上げる。その大きさを確認して自分がもう子供ではなかったことを思いだした。
 ヒスイの認識が「今」に戻った。アイシャと再会した後、倒れたことを覚えている。ここはきっと石の町の宿屋かどこかだろうと判断した。
 ふと右手をずっと握っている温かい手に気づき、そちらを向いた。室内は月の光だけが差し込んで、あたりを青く染めていた。その青い光を背景にセイの赤いはずの髪も青く染まっている。元から青かったその瞳はどこまでも深い。
「……アイシャ、は?」
 感情のこもらない声で問うと、穏やかな声が返ってきた。
「笑っているよ」
 セイの声はいつもふざけている高い声ではなくて、やや低く響いた。その返事は普通のやり取りでは間違っているかも知れない。けれどそれは今、一番ヒスイの聞きたかったことだった。無表情だったヒスイの顔に安堵の色がにじみ、広がる。よかった、と声になるかならないかの囁きをセイは聞き逃さなかった。
 ヒスイは視線を天井に向けると、ぽつりと呟く。
「女の人が泣くのは、苦手だ」
 それは独り言。セイが聞いてようが聞いていまいがどちらでもよかった。まるでそれが通じているように彼は何もいわなかった。相づちを打つこともせず静かに微笑んでいる。
「泣かれるのは苦手だ。どうしていいか分からない。慰め方ひとつ知らない。なのに悲しいと思っている気持ちだけは伝わってきて、こっちまで胸が塞がれているような息苦しさを覚える」
 そういってヒスイは何かを思い出すように目を瞑った。
 右手を強く握りしめる。それだけでセイには伝わったはずだ。
「……昔、母親が泣いたんだ」
 天井を見ていた視線を青い目に戻して、話しかける。
 彼はちょっと小首を傾げた。
「子供の頃、誘拐されたことがある」
 ヒスイはどこから伝えればいいのか迷いながら、そういった。
「帰ってきたとき、私は血塗れで……ちょうど今回と同じだ。帰ってくるなり母親が泣いて私を抱きしめた」
 その時の光景は鮮明に覚えている。

 ヒスイの知っている母はいつも笑っていた。怒るととても怖かった。それに誰よりも美人だった。梳(くしけず)られた長い金髪も、化粧して仕事に行くときの顔も、いつも綺麗でちょっと自慢だった。忙しくて滅多に会うこともなかったけれど帰ってきたときはちゃんとおやすみのキスをしてくれているのも知っていた。優しくて強くて綺麗な、大好きなお母さん。
 それが。

 ――ヒスイ!――

 駆け寄ってきた母は泣いていた。
 化粧が全部はげ落ちるくらいにぼろぼろだった。母親が泣いたのを見たのはそれが初めてである。どんなに眠っていない日でもきちんと身なりを整えていた人が、そのときは目の下のくまを隠そうともしていなかった。泣きはらした赤い目で白い腕が伸ばされる。
 爪が食い込んで来るかと思うくらい強い力で抱きしめられた。血で汚れることも厭わない。昨日は丁寧にまとめられていた筈の金の髪がくしゃくしゃに乱れている。よく見ると着ているスーツも型くずれを起こしていた。昨晩ずっと、このままの姿で心配してくれていたのだと分かった。

 ――よかった、無事で、本当によかった――

 しゃくりあげながら掛けられた声は嗄(か)れていた。
 ヒスイは、それが、とても……怖かった。
 それは自分が知っている、強い母ではなかった。全く別の人のように思えた。そして母を泣かせてしまったのは自分だと分かると罪の意識はもっと大きくなった。
 自分が母を泣かせた。大好きな母を、そうでないものにしてしまった。
 母親にはいつも笑っていて欲しかったのに。

 ――きっと何年経っても忘れることのない出来事。
「本当に……アイシャの髪の色がもう少し濃ければ連想することもなかったろうにな」
 さしのべられた白い腕。振り乱された金の髪――アイシャは亜麻色だったが――。むせ返る血の匂い。涙。条件が揃いすぎた。
 きっと口にしても分からないだろうからいわなかったが、母はその事件の後、ヒスイを連れて国を出た。出世コースを外れてまで祖国を離れたのはあの小さな島国では武器が規制されていたからだ。二度と娘が同じ目に遭わないように、と、それが母の願いだった。
 親は親の事情で子を守ろうとしたのだが、子にだって子の事情というものがある。自分が親の足枷になっていることが分からないほど幼くもなかった。安穏と与えられた立場に満足できる人間だったらどんなに気楽だっただろうか。
 黙っていたセイが初めて口を挟んだ。
「お母さんが泣いた直接の原因はなんなのかな。ヒスイが何かをされたの? それとも……何かを、した?」
 それとも両方?
 この男の問いかけは的確だった。あまりに的確すぎて答えるのが躊躇(ためら)われた程に。
 ――泣かないで、お母さん。
 あの時、母が泣いた原因は明らかだった。だが……。
「それは、私にとってはあまり意味がないんだ」
 感情のこもらない目でそう答えた。月の光が窓から射し込んで、室内に灯りがいらないくらい青く、明るく照らしていた。だが男の表情は逆光で見えない。
「そう」
 低く響く声がそう答えた。優しく聞こえたのは気のせいだろうか。
「ヒスイにとっては、お母さんが泣いたことの方が重大だったんだね」
 優しい声音で発されたのは、まるで心の中を読んだかのような答え。ヒスイは頷きたかった。アイシャあたりなら嬉しさに涙のひとつでもこぼすのであろうが、あいにくとヒスイは感情表現に乏しかった。感情のかけらも表に出すことは出来ず、ただ逆光で顔の見えない男の、唯一光る青い目をじっと凝視していた。
 唇を引き結ぶ。決意を込めて言葉を紡いだ。
「……もう、誰も泣かさないですむといい」
 それだけの力が欲しい。だが、また、セイはその心を読んだように言葉を重ねるのだった。
「味方を守る力を得るってことは敵を潰すってことだよ。ヒスイに人が殺せる?」
 ヒスイは上半身を起こした。角度がずれてようやくセイの顔が月の光の下に晒される。
「お前は、強いんだな?」
 それは問いかけではなく、確信。セイは否定しない。ちょっと意味ありげな微笑みを唇に浮かべただけだ。
「それが?」
「……では、お前はもう殺すな」
 よほどその台詞が意外だったのだろう。片眉が跳ね上がった。ヒスイはなおも彼に詰め寄るように顔を近づけた。
「私は弱い。だから、弱い力で自分を守るためなら私はためらわない。でもお前は強いから……だったら、お前は殺すな。私もいつか誰も殺さずにいられるほど強くなる。敵を殺さずに守りたいものを守れるほど、お前は強いのだろう?」
 セイはちょっとおどけて、上目遣いでヒスイを見た。
 口で言うほど易しいことではない。だが、確かにセイにはそれが出来るとヒスイは確信を持っていた。
 さて、彼は頭の中で素早く計算を巡らせていた。セイが守りたいのは、少しもじっとしていない、大切な人のためなら自ら火の中に飛び込んでいきそうな厄介な性格と行動力を持ったヒスイだけだ。誰も殺さずにヒスイを守る。……難しいことである。どちらかといえば易々と命を奪ってしまった方が遙かに楽でいい。だが、難易度が上がるほどやりがいもあるのは確かだった。
 何よりヒスイが初めて自分に望んでくれたこと。しかも評価されているとなれば、それに応えたくもなるものだ。セイはにっこり笑って見せた。
「分かった。約束する」
 月の光を映していつもより冴え冴えとした青色の目を向ける。
 そして、握っていた手を離し、寝台の上に手をついた。そのまま顔を近づける。吐息が絡むほどの近距離。ヒスイの翠の瞳が大きく見開かれた。
 と。
 鈍い衝撃がセイの右側頭部を直撃した。
「どさくさに紛れて何をする気だ、お前は」
 ヒスイの左手には拳が作られている。
「意地悪っ」
「約束は反故にするなよ」
「……オレ、どうしてヒスイに惚れちゃったんだろうね……」
 痛む頭を抑えながらセイはわざとらしく泣き真似をする。口づけひとつ許してはもらえない女に惚れてしまった自分をほんの少し恨めしく思った。

   *

 階下に下りていたアイシャは階段を上ると……ほどなくして、また下りてきた。
「あら、病人はいいの?」
 巻き毛の黒髪、豊満な肉体の美女がアイシャを呼び止める。
「……上でね、あんまり仲むつまじくやってるから気が引けてきちゃって」
「ああ、取り込み中を邪魔しちゃ悪いわね」
 女は体を揺すって、けらけらと笑った。アイシャが見たのは仲むつまじく殴られているセイだったが、場所が場所だけにそういう想像をされるのももっともなので訂正せずにいた。ここは奥の方とはいえ、れっきとした花街なのである。この宿でももちろん春は売られていた。
「ねぇ、ヤロウかキンセンカがあったら、もうちょっと入れてよ」
「生理不順?」
 アイシャは階段に座った。ちょうど目の前の女を見上げるような格好になる。こういった春を売る女たちは大抵、不衛生な場所での労働を強いられる。薬屋は需要があるのだ。
「そうじゃないけど、肌を綺麗にするんでしょ?」
「……詳しいのね。でも駄目。私、堕胎薬は調合しないのよ」
 図星を言い当てられて女は軽薄な笑みを引っ込めた。
 子宮の活動を活発にする薬草はその効果の副産物として肌を綺麗にする。が、妊娠中に使用がすぎると子供を流す危険があることもよく知られていた。
 女は吐き捨てるように
「こういう商売してるとね、石女(うまずめ)が一番よく儲かるのよ。お綺麗な表巫女様には分からないかもしれないけどさ」
 といった。
「一歩間違えれば私も裏巫女行きだったわよ。それに私、もう巫女じゃなくてよ?」
 お綺麗な表巫女、の部分に反発を覚えてアイシャは女の首にぶら下がっている金色の飾りを見た。そして自分も服の隠しを探る。出てきたアイシャの手の中には、同じ意匠の金の飾りが握られていた。これは愛の女神の聖印。女神の巫女たるものの証だった。
 愛の女神の巫女とは隠語で娼婦のことを指す。
 一夜限りの愛を旅人に与えるというのがその由来だ。もちろん神殿勤めのちゃんとした巫女もいる。が、実際に神殿が管理する売春宿があることは一般には知られていない。
 神殿経営の娼婦はれっきとした巫女だ。ただし神殿に勤める巫女と区別して裏巫女と呼ばれる。
「愛の女神の神殿に拾われた女の子の運命は十六になるまでに三つに分かれる。結婚するか、優秀な成績を修めて表巫女となり神殿に引き続き勤めるか、それ以外の娘は裏巫女に堕ちて場末の売春宿で男を取る……でも、その裏巫女の収益で孤児達はまかなわれているんだもの。文句ひとついえやしないわね」
 アイシャもそうやって姐さん達が体を売った金で養われてきたのだ。おそらくは目の前の女も。手の中で金の聖印をもてあそぶ。女がそれを見て顔色を変えたのでやめた。こんな目にあっても彼女にとってはまだ女神が大切な存在だと分かったからだ。苦笑する。アイシャにとってはこれはもう崇め奉る対象ではなかった。昔はそうであったにしても。
 聖印を強く握りしめる。もう女神には祈らないと決めていた。それでもまだこれを捨てられないのは間違いなく神殿はアイシャを構成しているもののひとつだからだ。どの道、神殿で身につけた薬草の知識で生活をまかなっている以上、一生あそこと縁を切ることはできない。
 心の中で繰り返す。
 神など存在しない。あるのは人間の妄執だけだ――。


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