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翡翠抄−ひすいしょう−

第一章第五節第一項(031)

 宿

 夜が東から町をひたし人々はおのおのねぐらに帰る。
 皆が寝静まっていくのと反対に、とある通りの一角は今まさに目覚めたばかりのように活気づいていた。音と華やぎと女達の香水の匂いが一帯に広がり、旅の男達が一夜の慰めを求めて獣の本能を満足させていく場所。俗に花街と呼ばれる所だ。
 その通りの奥、花街の賑わいを避けるような、こぢんまりとした宿の裏手。アイシャの荷馬車と、それに並んで見事な青鹿毛の馬が繋がれていた。

  1.

 女を商売にしている場所には似つかわしくない清潔な寝台の上にヒスイは寝かされていた。貝粉を混ぜた漆喰の壁際に寝台が置かれ、そのちょうど正面にあたる壁の窓際にアイシャが座っていた。ヒスイの枕元にはセイが陣取っている。
 アイシャの座っているところからは通りの華やかさを見下ろすことが出来た。女の嬌声や楽の音が風に乗って流れてくるが建物の真下からは何の声も聞こえない。その方が患者にはいいと分かっているのだが、しばらくここに滞在していた身としては違和感があって落ち着かなかった。
 この町に着いたとき生き残った隊商の面々はそれぞれ宿に泊まった。が、アイシャは身ひとつの気軽さも手伝って、きちんとした宿には泊まらずここに転がり込んだ。隊商が今日、出立するというので自分だけはヒスイを探しに戻るつもりで町に残ったのだ。まさかこの町で再会するとは思わなかったし、その可愛い妹分が急に倒れるとは思ってもみなかった。
 まして着替えさせたときの状況ときたら最悪だ。
 男物のマントをはだけると胸に上着が破かれて無造作に巻き付けているだけ。裾は深く切り裂かれ足など剥き出しになっていた。側にいた男はヒスイが自分でやったのだといったが、信用できない。
 セイと名乗ったその男はずっとヒスイの側について、ときおり額に手をやっている。
「倒れるなんて……」
 ぽつりと呟いたアイシャの言葉に、黙っていたセイが反応した。
「ヒスイが倒れたのは、アイシャが泣いたせいだよ」
「なんですって。心配しちゃいけないっていうの?」
 聞き捨てならない、と片方の眉をつり上げながら問うと、彼は目だけを動かし毒づいた。痛烈な一言だった。
「心配を押しつけるのはアイシャの勝手でしょ? そんなことでヒスイに無理を強いるのは迷惑だっていってるの」
 ……黙り込むしかなかった。

 そもそもアイシャは初めからこの男が気にくわなかった。ぼろぼろになったヒスイの格好といい、山賊に囲まれていたはずのヒスイが伴って帰ってきたことといい。山賊の仲間ではないかと勘ぐりたくなるのも仕方のないことだ。
「あなたは信用できるの?」
 アイシャは口火を切った。
 彼はまた、ちらりと青い目を動かした。
「それはこっちの台詞」
「なんですって?」
 セイは左手だけをヒスイの額に残し、アイシャに向き直る。
「ヒスイの側に不審な人間は置けないってことでしょ? それはこっちも同じ。一体、どんな下心があってヒスイを助けたの?」
 それはまさしくアイシャが彼に聞きたかったことである。
 セイは唇の端を持ち上げて形だけは微笑みを作っている。が、その目は冷たい。
「下心なんかないわよっ」
「あ、じゃあ余計、信用できない」
 からかいを含んだ声。
 随分な食わせ者だ。遊び半分のようなふざけた態度の裏に敵意という名の棘が見え隠れしている。わざと人をからかい、怒らせようとしているのだ。
 別に信用してもらいたいと思っているわけではないが、アイシャはつとめて冷静に振る舞おうとした。……もう遅いかもしれないけれど。
「じゃあ、あなたはどんな下心があってヒスイに近づいたのか教えてくれない?」
 下心のない親切は信用ならないと明言したのだ。それくらい話してくれてもいいだろうと問うた。懸命に押さえているのにどうしても声にピリピリしたものが混じってしまったのは、やはり感情の抑制に慣れていない素人ゆえか。
 それとは反対に、セイはとろけるように笑う。
「オレはヒスイに惚れてるの。惚れた女に何を望むか、なんて当たり前すぎて口に出すのも、ねぇ?」
 ……やっぱりアイシャを意図的に怒らせることを目的としているとしか思えなかった。
 呼吸困難を起こしそうな怒りを必死で自制する。握りしめた手がぶるぶると震えた。一体、女を何だと思ってるのか!
 セイはその反応を面白がって喉を鳴らして笑った。
「いっておくけど体だけが目的ならとうに食べちゃってるよ。伊達に一晩過ごしたわけじゃない。でもそういうのは二次的目的っていうのかな。ヒスイの側にいられればいいんだ」
「……何故?」
「あのねえ。オレね、誰かに優しくしたいって思ったの初めてなの」
 セイの左手がそっとヒスイの額を撫で、黒髪を梳く。
 その顔があまりにも幸せそうに見えたのでアイシャは言葉に詰まった。信用できない男ではあるが、少なくとも彼がヒスイを大切にしているというのは嘘ではない。そんな気がした。
「ヒスイと一緒にいるとオレが楽しいの。それにきっと面白いことがあるよ。それが理由」
 再びアイシャの方に向き合った彼の顔は一癖も二癖もある凶悪な笑顔に戻っていた。表情が全く違う。
「オレはね、下心のない親切なんて信用できないの。お優しいアイシャは狭量だと思うかな。でも、そういうの信用しない方が生き延びる確率高いんだよ?」
 それはのらりくらりと追求を避ける声ではなかった。笑ってはいたが、純粋に掛け値なしの本音だ。だからこそ……はっきりと分かってしまった。この男は己とヒスイ以外は全くもって「どうでもいい」のだ。
 これはアイシャにとっては信じがたい精神構造だったが、それでも分かってしまったのだからどうしようもない。あっけに取られる、とはこういうことをいうのか。
 アイシャは目の前の不可解な精神を持つ男を力一杯睨み付けた。
 もう怒っていることを隠す意味はない。侮られないようにするための虚勢だったが初めからこの男は世の中全ての人間を嘲笑って生きているのだ。正直に反応して何が悪い。
 それと同時に彼がどうしてヒスイに近づく人間を厭(いと)うかも理解できた。大切で大切で、宝物のような大好きな人に不審人物を近づけたくないだけなのだ。それなら分かる。アイシャも同じ理由でセイを見ている。ただ違うのは、彼にとっての不審人物は己とヒスイ以外の全員が該当する、というだけなのだ……。
 すっくと立ち上がる。目線を彼の上に持ってきても所詮、見下されている立場は変わらないが。
「そんなに信用できないなら、私だってひとつ下心とやらを暴露させてもらうわ」
 別にそれが利用するだとかされるだとか、そういうことじゃなくてもよいのだと思う。同じなのだといいたかった。自分も同じようにヒスイが大切で、そして必要なのだ、と。それをこの男に納得させるには、いってみれば非常に自分勝手な言い分が必要なのだ。
 それならアイシャにだって、ある。
 出来ればいいたくなかったけれど。
「夫が黒髪に緑の目だったのよ」

 セイは「それで?」と首を捻って先を促してくる。アイシャの告白は目の前の男には何の感慨も与えなかったようだ。それはそうだろう。十九になる女が結婚していても何の不思議もない。肩の力を抜くと静かに腰を下ろした。
「……私達はお互い天涯孤独ってやつでね。私は早くから自分の家族を作りたかったの。でもあの人は、私に一人の子供も残さず逝ってしまったわ」
 それだけ説明するのにアイシャは相当な精神力を要した。
 洪水のように思い出が押し寄せ、泡のように弾けて消える。普段思い出さないときは何ともないのに、口にするのは未だ体が拒絶していた。掌にじわりと汗が滲む。それを悟られるのが嫌だったのか無意識にセイから目をそらした。
 足を組み、その上に膝を突いてアイシャはあらぬ方向を見つめる。
「ヒスイを見つけたとき、その黒髪が懐かしかったの」
 目の色はヒスイの方がずっと鮮やかな色であるけれど。
 必ずしもその理由が全てではない。例えヒスイが黒髪でなくても翠の瞳でなくても、おそらくは同じことをしていただろうと思うけれど。
 けれど、そういう気持ちがあったのも嘘ではなくて。
 再びアイシャは彼の青い目に視線を移した。
「どう、納得してくれた?」
「うん」
 彼はにこっと笑った。
 初めて毒気のない笑顔をアイシャに向けたのである。

   *

 セイは、アイシャの目を見てにっこり笑って見せた。
 これはヒスイの敵には回らない。そう思った。
 家族がどうだとか、そういう感情はセイにはあまりよく分からないけれど、分かったのは彼女がことのほか家族を大切にする人間であるということだ。この手の人間なら知っている。自分より家族を痛めつけられた方が痛いと感じる手合いだ。
 こういう手合いは絶対、家族を裏切らない。
 セイは邪気のない笑みで
「アイシャにとって、ヒスイは娘なんだ」
 といった。アイシャの表情が揺れる。それを見て更に付け加えた。
「大好きだった人がアイシャに残してくれた、そんな気がしてるんでしょう」
 人の図星を言い当てるのは得意である。
 アイシャが視線を逸らす。また泣きそうになっているのかもしれない。ここで泣かれると空気が湿っぽくなるのでセイは先手を打った。
「あ、じゃあね『お母さん』。ヒスイをオレにちょうだい?」
「は?」
 予想通り、こぼれかけた涙が引っ込んだ。
 無邪気な笑顔でセイは続ける。
「ヒスイがお家に戻るまでの間は、ヒスイのお母さんはアイシャでしょう? だから保護者にお願いしているの。『お嬢さんを僕にください』って決まり文句」
 夫を決めるのは花嫁本人ではない。花嫁の父の役割である。
 だから男達は意中の娘を口説き落とす前に父親を口説く。逆にいえば父親が決めた縁談は娘に断る権利はない。だから古今東西、意に添わぬ結婚を強いられた花嫁が恋人と逃げたり将来を悲観して心中したりと同じような話は尽きることがない。それこそ芝居の演目には事欠かないくらいだ。
 ヒスイに今、後ろ盾になるような保護者はアイシャくらいしか見あたらない。だからセイはアイシャに「お願い」をしているのだった。
「あなた、本気でヒスイを欲しいといっているの?」
 あきれた声が返ってくる。
「もちろん、本気も本気だよ。あ、大丈夫。保護者の許可をもらっても嫌がるヒスイに無理強いをするよな、そーんな卑怯なことはしませんってば。ちゃんと口説いて納得してもらって、それからお嫁さんになってもらうから。ね?」
 アイシャがどう取るか知らないが、この場合の「お嫁さん」は神殿で神に永遠の誓いをたてる一連の儀式を指すものではなかったりする。
 そこでやっと、目の前の肝っ玉母さんはくすくす笑い声を上げた。
「絶対、落とすのに苦労するわよ」
「だろうねぇ」
 眉を八の字に曲げて、わざとらしく溜め息をついて見せた。アイシャがまた小さく笑う。
「いいわ」
 あっさりと承諾した。
 ……あまりにもあっけなく諾され、セイの方が面食らってしまう。
「本当にいいの?」
「ただし、と、続くけどね」
 やっと調子を取り戻したかアイシャが微笑んだ。余裕のある、ふくよかな笑みである。
「ヒスイの人生は私には縛れないわ。だからちゃんと自分でヒスイを口説いてちょうだいね。その代わり私はあなたがヒスイを口説く邪魔はしないと約束するわ。それに、もし本当のヒスイのご両親が結婚に反対してもヒスイがあなたを選ぶというなら私はあなたの味方になる。いかが?」
 願ってもないことだ。愛嬌のある笑顔で答える。
「いいよ。決まった」
 そして二人は固く握手を交わしあった。

 窓の外からは華やかな女の声に変わって、静かな竪琴の音が立ち上る。
 夜はまだ終わっていなかった。

   *

「ヒスイの『お母さん』は面白い人だね」
 セイは眠ったままのヒスイの手を握りしめる。アイシャは「ちゃんとヒスイを見ていてよ」とさんざん念を押しながら階下へ消えた。
 室内の明かりは消され、今は月の光だけが部屋を青く染めている。
「やっぱり、ヒスイの回りには面白い人が集まるのかな」
 自分も含めて。
 アイシャは特別でもなんでもない、もし夫という人が生きていればどこにでもいる平凡な主婦になっていただろう人。けれど普通の人は旅暮らしなどというやくざな真似はしない。こんな花街に女一人で入ることも、ない。背景に色々ありそうだがきっと隠しもせずに教えてくれることだろう。恥じ入ることなど何もない人間にありがちな性質だ。
「……ヒスイにも何かあるのかな……?」
 眠ったままのヒスイの目から透明のしずくが流れ落ちた。
 ヒスイが倒れたときにつぶやいた言葉。

 ――私のために泣かないで、お母さん――


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