[←back][home][next→]

翡翠抄−ひすいしょう−

第一章第四節第三項(030)

 3.

 ……ないで。
 泣かないで。
 お願いだから私のために泣かないで……。

  ***

「はっ」
 ヒスイはうなされて跳ね起きた。
「夢……?」
 夢の中で自分はとても小さな子供だった。そして……それ以上ははっきりと思い出せなかったが何かとても悲しいことがあった気がする。
 子供の頃に何かあったっけ、と思いながらヒスイは体にかかった毛布をどけようとした。だが手にしているのは毛布ではなかった。手にしているのはマントである。それも寒くないようにとの配慮か、二枚重ねてあった。そのうちの一枚は昨日ヒスイが貸してもらったものだ。毛布代わりのマントをどけると冷たい空気が直に肌を刺した。大慌てでマントを一枚、羽織る。
 ヒスイが体の下に敷いていたのは今度こそ本当に毛布の上だった。つまり昨夜は毛布とマント両方、ヒスイが独占してしまったわけである。ごめん、と謝ろうとして。
 そこには青い目の盗賊の姿はなかった。
「セイ?」
 ヒスイは辺りを見回した。だが側には誰もいない。風の音が高らかに鳴るだけだ。彼だけでなく馬も見あたらなかった。
「セイ!」
 置いていかれた、と思った。思わず西に走り出そうとしたところで、茂みの奥から大きな水音がした。
 人一人分の大きさの魚でも跳ねたのだろうかと思うほどの大きな音だった。水音のする方向に行ってみる。昨日、セイが水汲みに消えた方向だ。

 泉があった。
 泉のほとりでは青鹿毛の馬が水を飲んでいた。セイの乗っていた馬に間違いない。水面が勢いよく突き上がる。赤い、猫の尻尾のような髪が水しぶきに映えた。セイだ。さっきまで大声で名前を呼んでいたのが馬鹿馬鹿しくなるくらいの明るい笑顔である。
「おーい」
 手を振って合図を送ってくる。……無性に腹が立った。一瞬でもこんな奴を探してしまった自分が腹立たしい。セイは水をかきながら水面をすべって近寄ってきた。
「ヒスイもおいでよ。気持ちいいよ」
「遠慮する」
「またまた、つっけんどんになっちゃってえ。一緒に入ろ?」
 彼はヒスイの神経を逆なですることにかけては天才的かもしれない。
「お前の頭には本能しか詰まっていないのかっ」
 思わず大声で怒鳴る。
 その反応すら完全に面白がられていた。セイは「照れ屋さんなんだから」などといいながら頭を抱えて水の中に潜っていく。水面に広がる赤い髪がなんとなく血を連想させて、ヒスイは、昨日の毒気がまだ抜けきっていないな、と密かに反省した。

   *

 怒りながら立ち去っていくヒスイを確認しながら、セイはそっと水の中から顔を出した。彼女の背中を見つめながらヒスイには決して見せない種類の笑みを浮かべる。朝からの水浴びは返り血を流すため。血を吸った衣服は始末済みだ。
 あの山賊たちはそのうち、誰かが見つけて役人に報告するだろう。ひょっとすると一番最初に見つけるのはあの場所を新しい根城にしようとする新しい山賊の一味かもしれない。そう思うと笑いがこみ上げてくる。山賊が役人に通報など出来ないだろうから。
 大きな事件が起これば吟遊詩人がそれを歌にする。仮想の歌の文句を思い浮かべながら、セイはにんまりと笑った。

 女神に触れた者共に罰を。
 青い翼を持つ女神の執行人が見えざる刃を振るう。
 女神を見た罪により、彼らは見る力を取り上げられた。
 女神に触れた罪により、両の指を残らず取り上げられ
 女神に口づけを望んだ罪により、唇も取り上げられ
 女神の体香を知った罪により、鼻も取り上げられ
 女神の声を聞いた罪により、聞く力を取り上げられた。
 最後に女神のことを言いふらさぬよう
 執行人は罪人の声を取り上げた……殺さぬように加減して。

 ……例えるならこんな感じか。
 人としての尊厳を根こそぎ奪っておきながらセイは誰一人として殺してはいなかった。
「だって、ねぇ? 一応、ヒスイは無事だったわけだし」
 水から上がりながら、誰に聞かせるわけでもなくそう呟いて微笑む。
 本当は耳も削いでやろうと思ったが一人だけヒスイに削ぎ落とされた男がいたので気が変わったのだ。あれを見つけた人間は片耳を余分に削がれた男を見て、彼が一番罪深い男だということを知るに違いない。
 仮想の歌の文句はきっとこう締めくくられるだろう。
 ――声なき声で罪人が叫ぶ「死んだ方がましだった」――
 

「このまま町に向かうね」
 馬にまたがって、セイは前に乗せたヒスイにそう話しかけた。
 ヒスイは馬に乗るのは初めてのようで、視点が急に高くなったことにささやかな感動を覚えているようだった。確かに昨日はそんなことに気が回るほどの余裕がなかったことを思い出す。
 当然、彼女一人で馬には乗れない。最初はちゃんと婦人らしく横乗りで乗せたのだが、ヒスイが「またがりたい」といったので苦笑しつつもその通りにしてやった。
 はしたないだの何だのいう風潮があるがヒスイにもセイにも、おおよそ常識というものが備わっていない。加えて剥き出しになった足を目に出来るのは今のところセイだけである。だったら咎め立てする必要はこれといってなかった。
 ……しばらくするとヒスイはむっつりしているだろう声で呟いた。
「足が開きにくい」
「ああ、裾が邪魔になってる?」
「下りる」
 やっぱり横乗りで乗るのか、とちょっと残念に思いながらヒスイを下ろした。が、
「ナイフを貸してくれ」
 何をするか予想がつきながらも渡してやると、期待を裏切ることなくヒスイは広がった裾にナイフの刃を立てて割いた。よし、と満足げに頷いている。セイの大好きな白い足はもっと剥き出しになったので、こちらも心を込めて小さく拍手を送った。
「スカートは嫌いだ。男物がいい」
「そりゃあ、女物の服で乗るより遙かにいいだろうねぇ」
 ヒスイとセイはまた馬上の人になった。ヒスイには大人しく横乗りになるという発想はないようだ。確かに、ゆるい曲線を描く不安定な馬の背中に尻だけを乗せて、しかも横向きに腰を捻って手綱をさばくのは想像するだけでも無理な姿勢だといえる。
「町に着いたら新しい服を買おうね。どっちにしろ今、着ているものでは人前に出るのに支障があるから」
「……服、売ってるのか?」
「うん。石の町は大きな町だからね」
 ぴらり、と素早く地図を広げてヒスイの前に出す。広げられた羊皮紙には広大な森が描かれていた。
「この大きな森の一番西の端の小さな点がこれから行く石の町。森の国っていうのは全部で七つの国の総称。どの国も森の中にあるからね。正式な名前は手紙の住所くらいにしか使わないし」
「地図に国の名前がないのは、そのせいか?」
 おや、と思わず首を捻ってしまう。
 まるで文字のある地図を見たことがあるかのような言い方だ。
「ええとね、ヒスイ。……ふつーの人は文字なんか読めない、とオレは思うんですけど」
「あ」
 しまった、という顔だ。
「ヒスイ、読めるの?」
「……」
「読めないのに、文字の書いてある地図は見たことあるわけね」
 むっつりと押し黙ってしまった。実に素直な反応。可愛いなぁ、と思ってしまう。このままもう少しいじめてみたいが、あんまりいじめすぎて馬に乗ってくれなくなると困るのでここらで止める。ヒスイなら馬に乗らず「歩く!」といいかねない。
「平民にとっては正式名称ってあんまり意味がないんだよね。ああいうのは貴族が税金取るために引いた領土の境界だから。意味を表すハーン文字で『森の国』『石の町』って呼べば通じるようになってる。ハーン文字は分かるよね? 自分の名前に付いてるでしょ?」
「翡翠、と書く奴か」
「ああ、ヒスイの字ってやっぱりそう書くんだ。名付け親はどんな気持ちで付けてくれたんだろうね。オレはね、青って書くの。ただの青。意味はそれだけ。多分、目の色からとったんだろーと思うけど」
「……」
 音を優先して字を当てる場合もあるがその時でも親は出来るだけいい意味を子供に付けたがるものだ。青い目をしているからセイ(青)、とはなんと安直。
「でもねー。その名前は無闇に口にしちゃ駄目だよ。ハーン文字で綴られた名前には魔力が宿るからね」
「……魔法、とか?」
「そうだね。魔法に名前を織り込むってのは聞いたことある。だから本当の名前を魔法使いに知られてはならないっていうくらい。その辺はオレは魔法使いじゃないから分からないけどぉ」
 ヒスイは、ふうんと答えて何かを一生懸命考えているようだった。
 小さな子供が物を習い覚えるようなその態度にセイは少し違和感を感じる。あまりに当たり前のことを当たり前として知らないような印象だ。興味をそそられた。この世にセイを縛れるものは何もない。そこにあるのはただ「面白いか否か」である。
 ヒスイにくっついていけばきっと楽しいことがある。
 思わず微笑みが浮かんだ。
 楽しいなぁ、と思うこと。それがセイの行動の全てを決める。

   *

 夕暮れ近くなってからヒスイは前方に町の姿を見ることが出来た。
「さて、ヒスイ。町に入るからね、悪いけどちょっと横乗りになってくれる?」
 セイの言葉に、やっぱり人の目があるかとヒスイは大人しく横乗りになった。彼の真意が「ヒスイの足を他人に見せてなるものか」というところにあることなど知る訳がない。
 馬を進めると高い柵で囲まれた町の外壁が段々近づいてきた。木で出来た柵は森の国の名にふさわしいたたずまいだった。跳ね橋を渡ると、暮れなずむ町の風景が広がる。石造りの家が並び、石畳が敷かれていた。人々が「石の町」と呼んですぐに通じる理由が分かる気がする。こんなにたくさんの人がいるところはこの世界に来てから初めてだったので、ヒスイはきょろきょろと物珍しげに視線を彷徨わせた。
「……大きな町だな」
「ここはね、隊商にとって重要な基点なんだよ。西に行けば砂の国、東に行けば森の国の国境(くにざかい)だからね」
 いわれてみると店じまいを始めた露天商たちの顔ぶれは今までの生活にいた人とは少しずつ違うように見えた。商いが賑わっていると町が活気づいて見える。
「さて、ヒスイのいた隊は一足先に着いてるはずなんだけど」
 その一言で我に返る。
 別れたときは再び会えるとは思いもしなかったのだが、もしかするとまた隊商と合流できるかも知れないのだ。
「アイシャにまた、会えるのか?」
「さて……そう上手くいくといいんだけどね」
 セイは馬から下りる。ヒスイを乗せたまま馬を店の入り口にくくりつけ、大人しくしているようにと念を押して消えていった。
 とりあえず、ヒスイに出来ることはなかったので、一度下りようと思って鐙(あぶみ)に足を掛ける。今まで乗ったり下りたりするときはセイが手を貸してくれたが一人で下りるのは勝手が違っていて、上手くいかない。それにさっきからどうも足に力が入らなかった。馬の首につかまって――どう訓練されているのかこの馬は嫌がりもしなかった――もう片方の足を下ろそうとする。またがった体勢から下りる方がよっぽど楽だった。
「あ」
 かくん、と足が滑った。やっぱり力が入らない。
 そのまま石畳に頭が激突か、と思ったときには青冷めたセイが背中を支えてくれていた。
「……だーから、大人しくしててねっていったのにっ」
「あ、悪い。……ありがとう」
 よっぽど心臓に悪かったのだろうか、助け起こしてくれたあとセイはしっかりとヒスイを抱きしめて長い息を吐いた。またも彼に助けてもらい感謝はしているのだが、口から飛び出したのは別の台詞だった。
「あの……アイシャ、は?」
「それなんだけどね」
 セイの表情が曇る。残念な知らせだった。今朝、出ていったばかりだというのだ。ヒスイがいた隊商は襲われた後なので商品が少なく、この町で必要な物を少量仕入れてすぐに次の町へと移動したらしい。
「すれ違い……」
 ではもう二度と会えないのか――。

 その時だった。
「ヒスイ!?」
 聞いたことのある女性の声がした。まさか、とセイを引き剥がして声の方向に振り向く。ヒスイの翠の目がその姿を捕らえた。まだここにいる筈がない。なのに……そこにいるのは間違いなくアイシャだった。
「……アイシャ?」
 目と目が合う。その一瞬で互いの無事を知った。表情が二人同時にゆるむ。アイシャは別れた時と変わりない姿で駆け寄って来た。彼女の元気な姿に心の底から安堵した。
「ヒスイ!」
 空色の目には涙が浮かんでいた。
 ……それを見た瞬間、ヒスイは動けなくなった。
 まっすぐに伸ばされた白い腕。その腕がヒスイをしっかりと抱きしめる。
「あなたって子は無茶をして! 私がどれだけ心配したと思ってるのよ! 本当に……もう二度と会えないかと……でもよかった、よかった……本当によかった」
 彼女の声は涙声だった。
(前に、何か同じことがなかったか……?)

「無事でよかった……!」
 ――無事でよかった……――

 むせ返るような血の匂い。さしのべられた白い腕。
 その手が今のように強く自分を抱きしめて、金の髪を振り乱しながら、泣いていた。
「ヒスイ?」
 平衡感覚がなくなっていく。体が傾いでいるのかもしれない。
 アイシャの悲鳴とセイが手を伸ばす仕草が見えた。
 そのまま視界が真っ暗に落ち込んだ。

   ***

 泣かないで。
 泣かないで。
 お願いだから私のために泣かないで。
 ……お母さん……。


+感想フォームを利用してくれる?+(作者が喜びます)
[<<前]
[次>>>]
[目次]
翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada.