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翡翠抄−ひすいしょう−

第一章第四節第二項(029)

 2.

 山賊の頭(かしら)は下卑た笑いを浮かべながら目の前の小娘を押さえ込んだ。
 舌なめずりをした後、柔らかい肉に食らいつく。
 若い娘特有の青臭い匂いに混じって妙に蠱惑(こわく)に満ちた甘い匂いが男の鼻孔をくすぐった。押し倒された兎は怯えて動けなくなっているのだろうか、無駄な抵抗を見せる気配はない。
 正直いって成熟とは程遠い小娘の体に期待などしていなかった。それでも、いざ組み敷くと妙に雄の生理を促される。その小娘……いや、女、の存在自体に男を興奮させる何かがあるのかもしれなかった。

 女を引きずり出したのは確かに本能が命じたせいだが、実は、それ以上に別の醜い感情もあった。
 つまり……奴の大事にするものを壊してやりたい。
 青い目の男。人の縄張りに無断で商売っ気を出しているところを捕まえた。道中、金がなくなったからだとふざけた口調で平然といい返してきた男。少し勉強してもらおうと力で訴えたところ、部下五人を返り討ちにして仲間に入った。
 どこで手に入れてくるのか奴の情報が一番正確だった。剣も弓も他の部下より上手く使うくせに「疲れることは嫌い」とぬかして怠けること多々。頭である自分のいうことも素直に聞くということはしなかった。そうそう金銭(かね)にも女にも執着を見せるわけでもなく、あればありがたく頂くといった飄々とした態度も腹が立つ。しかも人を馬鹿にする態度だけは一人前。
 偉そうに。
 一番偉いのはこの俺だ。なのに、ないがしろにしくさって。
 奴が珍しく執着を見せた女。全員ですました後に下げ渡してやる。お前など、その程度なのだ、と。
 それが劣等感という名の感情以外の何者でもないということに彼は気付いていなかった。

 鼻息荒く足をこじ開け、ふとももをまさぐった。女が空気を震わすかどうかのかすかな声を上げたことで興奮は否応なく高まる。意識は完全に下半身に集中していた。
 だから、突き飛ばされたとき、咄嗟に反応できなかった。

   *

 誰の耳にも届かない小さな囁き。
「馬鹿が……」
 足をまさぐられながらヒスイはそう呟いていた。
 臭い唾液で舐め回されながら、ただ大人しく震えているだけの娘と思ったか。大間違いである。油断させて相手が隙を見せるのを待っていた。上にのしかかった男――この手合いを彼女は馬鹿と呼んでいた――が、下半身に手を伸ばしてきたときに、上体を起こし相手の肩を突き飛ばしてやった。不安定な体位でいきなり余計な負荷のかかった体は比較的簡単に転がった。
 足を馬鹿の体の下敷きにされては元も子もない。そこからの作業は一瞬で、まず左手を支点にし足をどけ、右手で馬鹿の腰に収まっていた剣を引き抜く。
 馬鹿が不格好な形で尻餅を付いた。
 立ち上がったヒスイは服の前をはだけながらも、それに羞恥することなく残る山賊を睨め付ける。
「貴様ら、そこをどけ」
 尊大な態度で命じた。先程まで押さえつけられ、されるがままになっていた弱者とは思えない台詞だった。命令と同時に風がヒスイの周りを取り囲む。それは外よりも弱い風だったが岩場の明かりとして使われている炎を急に大きく膨らませる程度の効果はあった。
 山賊たちは彼女の姿に一斉に恐怖した。
 風になびく黒髪、生きているように踊る炎に彩られ、血糊のこびりついた剣を構える様はまるで物語に出てくる戦乙女か魔女を連想させるのに充分だったのである。
 あくまで懲りなかったのはヒスイの上に乗っていた、馬鹿だ。
「てめえら、なに怖じ気づいてやがる! 相手はただの女だ、やっちまえ!」
 その意味は殺せか犯せか。
 無闇に大声で金切り声を上げる様は初めから負けを宣言しているように聞こえた。頭の声に恐怖で固まっていた山賊達の体がのろのろと動く。隣で大きく膨らんでは萎む炎が彼らの恐怖心を煽っていた。恐怖に打ち勝つほど頭の命令は絶対ではないようである。
 ヒスイは、未だ地べたで尻餅をついたままの馬鹿を冷ややかな目で見下ろした。
「まだ懲りないか?」
 血の匂いで狂っていたのは山賊達だけではなかったのだ。
 彼女の神経にも微妙に影響していた……無害だった小娘が隠した爪をさらけだすほどに。
「大人しく犯されているような小娘じゃなくて悪かったな」
 似つかわしくない酷薄な笑み。
 馬鹿はその台詞を聞く耳も持っていなかったようである。跳ね起きるとすかさず実力行
使に出た。
 体格の差はまるで大人と子供。だがヒスイは眉ひとつ動かさず腕を振った。
「まだ懲りないかといっている!」
 血が噴いた。
 剣は馬鹿の片耳をそぎ落とし、その肩に深々と刺さったのである。
 獣の咆哮(ほうこう)に似た声が反響した。
 鮮血はヒスイをも染める。赤に彩られた顔に翠の目、元から鮮やかなその色が一層、映えた。
 呆けている暇はない。ヒスイは男に体当たりして活路を開いた。出来れば急所に一発蹴りをくれてやりたかったが、足を捕まえられては逆にこっちに不利になる。きつい眼差しで前を見据えて山賊達が行く手を塞ぐ方向へと走った。
 目の前で起こった惨事は山賊達に、恐怖から我に帰るきっかけを与えた。
 何しろ彼らにとって流血は日常茶飯事である。目に見えない何かを相手にしているよりもずっと理解しやすかったのだ。彼らは目の前の小娘に一斉に襲い掛かった。それはもう小娘ではない。恐ろしい力を使う魔女なのだ。
 ヒスイはもう身を守る武器を持ってはいなかった。だが、やすやすと馬鹿共の手にかかるつもりもない。使えるものは何だって使う。唇をすぼめ、勢いよく短い息を吹いた。
 弱い風が彼女の意をくんで明かりを一斉に吹き消した。狭い岩場は突如として暗闇に支配される。山賊の足が止まった。
「よせ、剣は抜くな! 同士討ちになるぞ!」
 誰かがそう叫ばなければ完全にヒスイの思うとおりになったのであるが。
 馬鹿共を避け、走って、穴倉の中がさほど複雑な造りでなかったことも手伝って彼女は外へと出た。空は茜色に染まっていた。太陽はもう西に沈もうとしていたのである。
「長い半日だったもんだ」
 風が歓喜していた。狭い岩場の中と違って新鮮な風が肺の中を洗う。だが今はその心地よさに心を忘れている暇はない。ヒスイは、とにかく走り出した。街道まで出なくては現在位置がつかめなかったが、隊商は上る太陽を背に旅していた。とにかく西に向かえば町に出る。ヒスイは破れた上着を脱ぐと裸の胸に巻きつけ、きつく結んだ。
 ……だが、ヒスイに出来たのはここまでだった。
 ほどなくして背後から荒々しい馬蹄の音が響いてきた。疾走しながら肩越しに振り向くと、土煙を高くあげて馬に乗った男が二人、みるみるうちに近づいてくる。
「見つけたぜぇ!」
「……随分と執着してくれるじゃないかっ」
 叫んだ瞬間、足がもつれた。そのまま勢いづいて前につんのめる。
 もう全身の筋肉は限界だった。荒い息を整えながら、ヒスイは馬の来る方向に向き直る。大きく目を見開いた。二頭の馬の向こうから更にもう一頭、凄まじい速さで突進して来る馬がいたのである。
 それは見事な青鹿毛で、その馬上では乗り手が赤い髪をなびかせていた。
「ヒスイ!」
 聞き覚えのある声が呼んだ。
 青鹿毛の馬はよく伸びる足で二頭の栗毛の馬を追い越す。セイは片足を馬の背にかけてそのまま重心を大きく右へずらし手を広げた。手綱を握っているのは左手だけである。
「ヒスイ、立って!」
 馬はよほど訓練されているのか乗り手が危うい体勢を取っているというのに足を乱すこともなく全力で走っていた。そしてそのまま、すれ違いざまにセイはヒスイの腰を取り、すくい上げる。
 足が浮いた、とヒスイが思った次の瞬間にはしっかりと抱きすくめられて馬上にいた。
「ふん、ばぁか」
 一言多い男は栗毛の馬二頭に向かって捨て台詞を残すと、そのまま森の木々を縫って街道に出る。馬は更に速度を上げた。

 ようやく馬の足が止まった頃には頭上に満天の星が輝いていた。
 ヒスイを抱きながら下りるとセイは馬を木にくくりつけ、火を焚く準備を始める。
「ひとまずここで野宿だね。水、汲んでくる。ヒスイ、寒い? とりあえずその格好じゃなんだから、マント羽織る?」
 馬にくくりつけた荷物をほどきながらヒスイにマントを寄越す。セイはにっこり笑うとさっさと森の奥に消え、戻ってきたときは皮で出来た水入れと手ぬぐいを下げていた。
「……おい」
「やだな。セイって呼んでってば」
「お前はあいつらの仲間じゃなかったのか?」
 寄越されたマントをひとまず羽織りながら詰問口調で問いかけた。当たり前だがヒスイの柳眉は険しい。セイはちょっと困ったような顔をしてヒスイの目の前に座ると、
「ごめんね」
 と、いった。
「怖い目に遭わせてごめん。安心してねっていったのに。オレのせいじゃないけど、結果は嘘になっちゃったね」
 青い目がまっすぐにヒスイを見つめてくる。それはやはり耳をぺたっと伏せた小動物の目に似ていた。毒気を抜かれる顔だ。
「ヒスイは仲間っていったけど、そんなんじゃないんだ。利害関係が一致してただけ。あっちがオレをいらないっていったんだからオレが抜けても構わない筈だよ。もう馬鹿の相手をするのも疲れてきたしね」
 最後の一言は大いに同意見だった。
「さ。とにかく、泥と血を拭きなよ。……ね?」
 差し出された手ぬぐいは水で湿らせてあった。
 そのままセイは席を外してくれた。ヒスイはマントを脱ぎ、顔を拭き、首や肩、胸、足と拭いていった。頭の中は真っ白で、考えることも拒否しているようだった。ごしごしと自然と力がこもる。匂いも感触も記憶も、全部洗い流すことが出来ればいいのに。
 涙は出なかった。泣いて自分を悲しむ余裕が出来るのはもっと後になってからだと経験的に知っていた。血が滲むほど唇をこすって、ぼろぼろになった上着をまた元通りに胸にくくりつけた。
 いい具合にセイが、もういいかい、と顔を出す。
「疲れちゃったでしょ。先に休む?」
「……嫌だ」
「あっ、警戒されてるっ。ま、仕方ないけど……オレはヒスイが嫌がることなんてしないってば。しくしく……」
 大げさに嘘泣きの真似をして見せる男に、ヒスイは露骨に眉の間にしわを作る。セイは仕方ないとでもいうように舌を出して見せた。それからが素早かった。
「いい夢を見られるおまじないだよ」
 抱きしめられ、背中を軽く二回叩かれた。
 血管がどこかでピシ、と音を立てる。
「どさくさに紛れて何をやってるんだ、お前はっ!」
 怒鳴ってやりたかった。だが、その言葉がヒスイの口から出ることはなかった。まぶたが重くなる。全身の力が抜けていき、ヒスイは、何をした、と心の中でセイに問いただした。

   *

 セイは、腕の中で力を失っていくヒスイの体を抱きしめて「この体勢は二度目だな」と呑気なことを考えていた。ヒスイの耳元に唇を寄せ、小さな声で囁く。
「おやすみ。いい夢を……」
 そしてそのまま耳たぶに口づけ、甘噛みした。唇を這わせて耳をなぞっていく。そのまま顎の線を伝って赤く膨らんだ唇へと移動し、止まった。
 彼女の唇には血が滲んでいた。
 痛々しい。セイは指でその傷口に触れた。
 泣くことさえしない彼女。それとも出来ないのだろうか。だとしたらもっと痛々しい。額にかかる黒髪を梳く。唇に触れる代わりにその額に口づけた。
 無事でよかった。

 ヒスイを寝かしつけながら、セイは忘れていたことを思い出し、はたと手を打った。
「あ、いっけない。……人の女に手ぇ出した馬鹿者に報復しておかなきゃ」
 そこにはもう先ほどまでヒスイを見守っていた温かい目はない。にんまりと笑う、三日月に細められた青が冷たい光をはねかえしていた。


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