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翡翠抄−ひすいしょう−

第一章第四節第一項(028)

 青い目の盗賊

 1.

 東の空が薔薇色に染まった。
 森の朝は二段階で明るくなる。最初は地平線から太陽が昇るとき。そして次に森の葉陰より上に太陽が昇ったとき。日の光を直に浴びずとも辺りはもう明るい。目に映る景色が先を競って色彩を取り戻してゆく。
 ヒスイは、目の前にある二つの青い目がどんどん明るく冴え渡っていくのを間近で見ることになった。
 鮮やかで澄みきった青がそこにあった。
 青い目はよく見るがここまで純粋な青は珍しい。アイシャのそれも明るい空色だったが色が全く違う。海の碧とも空の青ともつかない、どこまでも冴えた自然界にはまずない色。瞳の奥に吸い込まれそうな深みと透明感があった。
 髪の色は暗い色だと思っていたがそれは頭全体を覆うように巻き付けた布の色だと気付く。そこからこぼれた前髪は真新しい銅貨の色した赤毛だ。彼女の目の前で、そこそこ整った顔はほころんで次に嘆息をもらした。
「綺麗な翠だね……!」
 それはおそらくヒスイの瞳の色を形容していった言葉。親しげな言葉と笑顔をヒスイに向けながら、だが彼は同時に刃(やいば)にこめた力も抜かなかった。
「ところで、どうして抜かないの?」
 彼は首を傾げ不思議そうに聞いてくる。ヒスイが襲いかかる刃に咬ませて身を守っているのは鞘から抜かれていない剣だ。ヒスイは憮然として答えた。
「……剣が使えないんだ」
 今まで触れたこともなかったのである。咄嗟に水平に構えたが、防げたのは運がよかったとしかいいようがない。
 彼はヒスイの言葉に、わざと大げさに驚いて見せた。
 刃に掛けられた力がわずかにゆるむ。それは一瞬のこと。
 剣が交わされた。一合、二合。――三合!
 またしても両者の剣は止まり場が膠着(こうちゃく)した。ヒスイは歯を食いしばって繰り出されてきた剣を防ぎ、押す。右手で柄を、左手で切っ先を支え、相手の刃と直角に交わらせていた。鞘から抜かなかったのは返ってよかったのかもしれない。受けるしか出来ないのだから鞘に入っている分だけ耐久度が格段に上がる。
 彼の青い目がきらきらと輝いていた。
「すごいすごい。今の、みんな勘で受けたの?」
 からかわれている。
 自然と柳眉が険しくなった。
「お前がいたぶっているんだろうが……っ」
 猫が鼠を弱らせ、いたぶって遊ぶように。ヒスイは何もしていない。激しく剣を交わらせているように見えて、その実、この男がヒスイの剣をめがけて打ち下ろしてきただけなのだ。それを必死で受けたにすぎない。
 彼はヒスイの台詞に傷ついた顔になった。
「ごめんね」
 ところがその表情は瞬きひとつするとまた変化した。
「オレともあろうものが、女の子を口説きにかかってるっていうのに自己紹介もしてないなんてっ! あ、オレね、セイっていうの。よろしくねっ」
「待て、激しく論点が違うだろうが! というか、口説いてるのか、お前は!」
 この状況で!!
 だが優位に立っているのはセイと名乗った青年の方である。
「実はそうなの。……ねぇ、ヒスイって呼んでいい?」
 駄目押しするように、ぬけぬけと幸せそうな笑顔。ついでに、お前じゃなくてセイだってば、と付け加えてきた。
「どうしてお前が私の名前を知っている?」
「えーっとね、ヒスイが荷馬車から飛び降りる前に、全然似てないお姉さんがそう呼んでいたからでぇす」
 セイはにっこり笑って、さらに強く力で押してきた。
 刃がヒスイの間近にせまる。押し戻そうとしてこちらも力を込めたが、もう腕がしびれて現状維持が精一杯だった。ヒスイに出来ることは相手に気圧されないように睨み付けることだけ。
 眼光に力を込め、集中する。ゆらりと緑の陽炎が立ち上った。
 風が呼応するようにヒスイを取り巻いて渦を巻く。ヒスイの黒髪とセイの赤毛が風になぶられ舞い踊った。……だが、風は目の前を男をはじき飛ばせない!
 突風に少し目をすがめながらセイは笑って見せた。
「思った通りだ。その風は絶対ヒスイを傷つけない。中心地に……ヒスイの側にいる限り、その力は利かないよ」
 思わず舌打ちをする。見た目通りのお気楽青年ではないということか。
「ところでさあ。……もうこの状態、飽きちゃったんだけど?」
「そうか。じゃあ、さっさと退いてくれ!」
「ごめんねぇ、ヒスイ」
 顔は謝っている顔ではなかった。ヒスイがかすかに眉をひそめると、セイは、
「本当は片腕で充分だったんだ」
 と、左腕を離した。
 しまった、と思ったときにはもう遅かった。セイの手は拳を作り、ヒスイの腹部にめりこんだ。
 胃液が逆流する。
「な……」
 薄れゆく視界。膝の力が抜けるのを感じた。

   *

 セイは力の方向性を変えて右手に握った剣を空振りさせる。自分の剣でヒスイを傷つけないように。左腕の上に力の抜けたヒスイの体が被さってきた。地面に彼女の持つ剣が渇いた音をたてて落ちる。
 崩れ落ちてきた体を支えつつ、ヒスイの剣を足で蹴っ飛ばした。
「痛い思いをさせてごめんね」
 剣を収め、ヒスイの体を抱き上げて、彼はそっと彼女の額に口づけた。

 山賊達がまばらに彼に近づき、上辺だけの健闘の言葉を口にする。セイは彼らに一瞥をくれると、
「これはオレの物だよ。手ぇ出したら殺すからね」
 と、冗談めいた口調で宣言した。その目が冷たく凍てついていたことに気付いた者が果たしてその場に何人いたことであろうか。

  *

 ぴちゃん

 水がしたたり落ちる音に起こされてヒスイはゆっくりと目を開ける。あたりは仄暗(ほのぐら)かった。
「おはよう。あんまり勢いよく起きあがると頭をぶつけるよ?」
 ヒスイが顔を向けると、そこには例の、青い目をした青年がいた。
 目の前にいたわけではない。彼との間には太い木の柵によって隔てられていたのだ。
「ここは?」
 ぐるっと辺りを見回す。床も天井も岩ばかりだった。ちょうど岩場のくぼみを利用して作られた牢らしく天井は斜めになっていて床とくっついていた。確かに、この低い天井では立ち上がることも出来ない。窓もない完全な岩の中、松明(たいまつ)に火がついてセイの背後で明々と燃えていた。
「この穴蔵が山賊達のねぐら。冴えないところだけど、もうちょっと我慢してね」
「いつまで?」
 睨み付ける。ヒスイは丸腰だったが、相手もまた腰に剣を帯びてはいなかった。
 セイは愛嬌のある顔で笑う。
「ヒスイ、自分の立場って分かってる?」
 捕らわれの身の上。
 そんなことはいわれなくても分かっている。返事をする代わりに睨み付ける眼光に力を込めた。セイはその視線を真正面から受ける。彼は今、頭を包んでいた布を取り去っていた。燃える炎の色に照らされてセイの赤い髪が更に赤く染まっている。その色が照り返しているのか彼の顔も少し赤い。
「……やっぱりいいなあ」
 と、何のことやら分からない呟きをもらした。
「早い話がね。オレはヒスイに惚れてしまいましたってことなの」
 ヒスイは眉をひそめた。
「何の冗談だ」
 鵜呑みには出来なかった。対峙しているときからこの調子でからかわれ続けてきたのだ。
「あ、ひどい。これでも滅多にない本気なのに。でも、そうやって怒ってる時のヒスイが一番綺麗だね。ヒスイになら『お前』って呼ばれてもいいな。似合うもの」
 何を納得したのか、ひとり腕を組んで頷いていた。
 ヒスイはますます胡散臭い顔をする。反対にセイはますます幸せそうな笑みを浮かべた。
「あのね? 今回の襲撃はとぉっても実入りが少なかったの。まず、襲った荷馬車の大半は織物を扱っている商人で、これは血が付いて駄目になっちゃった。限度ってものを知らないお馬鹿さんの集団だからね。そしてぇ、女の人で今のところまっとうな待遇を受けているのはヒスイだけなんだ」
 分かる、と愛嬌のある仕草で首を傾げて聞き返してきた。
 それはとても軽快な口調で、凄惨さの欠片すら見られない。ヒスイには人が殺されたという出来事よりも後半の方がより現実味を帯びて聞こえた。女として思わず嫌悪を露わにし、腕を交差させ自分の肩を抱く。
 岩場に作られた檻に捕らわれていることなどまだまし、ということか。
 ヒスイが怯えたのが分かったのだろう。セイは大丈夫だと檻の外から声をかけてきた。
「何もさせないよ。ヒスイはオレがもらうって約束したんだから。ね? オレがなんにもしなければヒスイの身の安全は保障されるでしょ?」
「お前が一番信用できんだろうが!」
「うーん。……そりゃあね、あーんなことや、こーんなことや、そーんなこともヒスイにしてあげたいなって欲求は人一倍あるんだけど……」
 肩をすくめて上目遣いにヒスイを見る。ご主人様に叱られている愛玩犬のような目だった。ヒスイは無言だったが「しなくていい!」と、はっきり聞こえるような視線を浴びせる。
「でも、ヒスイが嫌がるなら絶対にしないから。寂しいけど我慢する。……ちょっとは信用してくれない?」
「誰が!」
 ヒスイの言葉は簡潔だった。
 セイは悲しそうな顔で溜め息をついた。
「でもね、覚えておいてね? オレがヒスイに惚れてるってこと。一目惚れだっていってもやっぱり信じてくれないだろうけど」
 そういってセイは立ち上がった。その動作に長い髪が彼の背中から滑り落ちる。首の真後ろで束ねられた髪は細くて長い尻尾を作っていた。赤い、猫の尻尾のようだ。今まで正面からしか見ていなかったのでこんなに長い髪をしていたとは思わなかった。
 身の安全だけは。
 そう彼がいった言葉をもう一度思い返す。
 かぶりを振った。信用しそうになっていた。……山賊のいうことなど信じない。ヒスイは流されそうになっていた自分の心を立て直す。
 右手を開いた。周りには山賊達が何人か、にやにやしながらこっちを見ている。気付かれないようにそっと手に風のイメージを乗せた。呼応して弱い風がその手を取り巻く。
 ――これでは駄目だ――
 ヒスイは風の力でこの場を脱出することを諦めなくてはならなかった。自分が願うほどに風に力がない。岩の中では風はどうしても制限される。火が燃えているのだ。どこからか空気が流れ込むように作られているのだろうが、それでも森の中や平原とは比べものにならない。
 ……ふいに、笑いがこみ上げそうになった。
 あちらの世界にいたときは、この力をこんなことに使おうとは思ってもみなかった。むしろ必死になって隠そうとしていたというのに。これもれっきとした自分の一部。それを人目を気にせずに思う存分、使えるのだからこちらの世界の方が相性がいいのかもしれない。
「メシだ」
 檻の向こうから呼ばれた。
 セイではない。別の男だ。男の後ろには何人もの同じような格好をした男達が立っていた。山賊達の頭か、と推察する。……どこにもセイの姿がないことにヒスイは少々、心がざわつくのを感じた。
 朝から何も食べていなかったことに気付き、ヒスイは檻の隙間から差し出される固いパンと水を受け取った。水に浸し、柔らかくしながらなんとか全部食べる。ここに来てから食べられるときには食べておくという精神は徹底された気がする。男達は下卑た笑い声を時折もらしながらその場を動こうとはしなかった。
「……何の用だ?」
 ヒスイが一言、口を利くと彼らは一斉に笑った。
「聞いたかよ!」
「何の用だときたぜ、お嬢ちゃんが」
 山賊達の頭が口の端をにぃっと持ち上げて、舌なめずりを見せつけた。
 ヒスイの背中に一直線に走ったものがあった。それに無理矢理名前をつけるとしたら悪寒であろうが、そんな生易しい代物ではない。
 檻が開けられた。ヒスイの華奢な体が引きずり出される。軽い体は無駄なあがきをすることも叶わず岩にこすられながら男のすぐ側まで引き寄せられた。
「小兎を独り占めってえのは、いくらなんでも贅沢すぎだよなぁ?」
 性欲を触発された雄の匂いが辺り一面に発散されていた。その悪臭に思わず顔を背ける。食べた物をすべて吐き出しそうな嫌悪感。臭い息を吐く顔を近づけられる。男は本能を剥き出しにした醜悪さをヒスイに突きつけていた。岩場のあちこちに染みついた血の匂いが更に男達を狂わせ、また彼女の神経にも微妙に影響した。
 体の上に体重をかけられるとそれだけで動けなくなった。

 ちっぽけな小娘に、一体何ができたであろう?


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