4.
目覚めたのは自分のくしゃみでだった。
「……風邪かな?」
冷え冷えとした夜気が漂っていた。毛布を首元に寄せる。
まだ周囲は暗かった。いつもより早く目覚めてしまったようだ。ヒスイは起きあがると毛布をマントのように羽織って荷馬車の外に出た。あちこちでまだ火が灯っているが夜明け前の空は一際暗い。
昨日アイシャが灯した焚き火には鍋がかけられており小さく音を立てていた。鍋に放り込まれた野菜屑や干し肉の切れ端は夜の間中煮込まれ、朝食の頃合いには形も崩れきったとろとろのスープになる。食欲のそそられる匂いがもう立ちのぼっていた。
「ん、なぁに、もう起きたの……?」
大きなあくびと共にアイシャが顔を出した。
早すぎる時間だ。ヒスイの起き出す気配で目覚めたに違いない。
「ごめん、起こした?」
アイシャは肩掛けを引っかけると眠そうに目をこすりながら外に出てきた。いつもひとつに束ねられている髪は下ろされており肩全体をふんわりと覆っている。ピンクのリボンは無くさないようにだろうか、手首に結ばれていた。
濃紺の空を見上げる。
「……夜明けまであと一時間ってところね。二度寝すると寝過ごしそう。いいわ、起きましょう」
ヒスイも倣って空を見上げた。
満天とまでは行かないが、澄み切った夜空に散りばめられた星が森の葉っぱに遮られながらあった。
「時間……星、か?」
当たり前だがここに時計などというものは存在しない。
「そぉぉね。星は、北の一つ星を中心に二時間で三〇度回転するからぁ、星の位置を覚えていればおおよそはね。天文学の基礎だけど、まあ、覚えなくてもいいわ」
まだ半分寝ぼけているのだろう、言葉がはっきりしない。
「本当はねぇ、こんな森の中じゃなければ東の空に明けの明星が出るのが目印なんだけど、葉っぱに邪魔されて視界が狭いからね」
荷馬車の中からブラシを取ってきて、あくびを噛み殺しつつ焚き火の側に座った。もつれた毛先をほぐす。綺麗にほぐし終わるとひとまとめにして、細い紐をくくりつける。いつものピンクのリボンをその上に結ぶ頃には彼女の目はしっかりと輝いていた。
「ヒスイ、いらっしゃいな。あなたの髪も結んであげる」
「え、いや、……そこまでしてもらわなくても」
いい、と断ろうとしたが、それをさせてくれる相手ではなかった。
「私がやりたいの。さ、おいで」
にっこり笑ってかなり強引である。ヒスイを座らせ、櫛に持ち替えて黒髪を梳いた。辺りはまだ暗く焚き火の明かりだけが光源だった。
「ヒスイの髪って櫛通りがいいわねぇ。私なんか細いわ、柔らかいわ、すぐ絡むわ……」
「……固いから、はねやすいんだが」
「うん? 難しいまとめ髪には確かにしにくそうね」
どうやら三つ編みにされているようだった。人に髪をいじってもらった覚えなどなくて、つい、ぎこちなくなる。
「慣れてるんだな」
「ああ、小さい妹達相手によく、ね。思えばあの頃から人の面倒見てないと気が済まない性格だったのよ」
「兄弟、多かったんだ」
無意識にちょっと羨ましさが滲んだ声が出た。が、すぐに思い直す。兄弟のいないヒスイにとっては羨ましいことかもしれないが、この世界で子沢山というのは案外歓迎されていないことかもしれないと思ったのだ。
「……そう、ね」
笑みを浮かべている声が帰ってきた。なんとなく後味が悪くて、急いで別の話題を探す。
「そういえば、さっき天文学がどうのこうのといっていたが」
「ああ、あれは関係ないの。あなたが知らなくてもいい話」
「どこで覚えたんだ?」
アイシャの手が止まった。想像した問いと少し違うといった困惑が伝わってきた。
「……ねぇ、もしかして天文学って何か知ってるとか?」
「名前しか知らないが、星のことを学ぶ学問だろう。アイシャはどこで覚えたんだ? 学問ってのは金持ちしか出来ないんじゃないのか?」
多分、それは当たっているはずだ。大体これくらいになるという説明ではなく、アイシャは三〇度といった。どこかできちんと学問として習ったのだろう。それにヒスイの育った世界でも一部の地域では知識は特権階級の物だった。
ただ、生活のことに関してはとんでもなくたくましい彼女が金持ち階級の人間というのもまた想像ができないのだが。
アイシャはまた手を動かして、ヒスイの髪を編む。
「はい、できあがり」
肩を叩かれた。それを合図に、弾かれるようにヒスイは体を反転させてアイシャと向き合う。アイシャは相変わらず、優しい笑顔を浮かべていた。
「あら、可愛い。似合う、似合う」
「……あの、聞いてはいけなかっただろうか」
おずおずと尋ねたヒスイを、アイシャは笑い飛ばした。
「そんなことないわ。ヒスイが意外に物知りだったからびっくりしただけ。私はね、神殿育ちなの。学問はまあ、一般教養ってところかしら?」
神殿という聞き慣れない言葉にヒスイは耳をそばだてる。
「色んな神様がいるでしょう。主な神様と太陽と月を合わせて、七柱よね? そのうちのひとつ、愛と美の女神の神殿で育ったの。私、捨て子だったから」
彼女はにっこりと、何でもないことのように微笑んだ。
だが聞いた方はそう簡単に衝撃を受け流せなかった。ヒスイはどう返せばいいのか分からずに、とまどう。ただ「ごめんなさい」というのだけは違う気がしたので余計にどういえばいいか分からなかった。生まれや育ちなど本人にとってどうしようもなかったことにごめんなさいというのは同情しているようでヒスイは嫌いだった。それはヒスイ自身が私生児であることに対し「ごめんなさい」といわれるのが嫌いだったから、という背景があるせいだが、そんなことはアイシャは知らない。
なんとか言葉を紡ごうとヒスイが口を開きかけたとき。
アイシャの背中越しに、森の中に明かりが見えた。目がそこだけに吸い寄せられる。
「アイシャ。……あれ、何だ?」
指差した先を、アイシャが振り返り見る。彼女の顔色が変わった。
「山賊よ!」アイシャは立ち上がり素早く荷物をまとめると、小さく息を吸い込み、夜の闇に響き渡る高音の悲鳴をおもいっきり張り上げた。その声量に思わずヒスイは両耳をしっかり塞ぐ。その声が合図だった。まだ眠っていた隊商の人々がすぐさま跳ね起きる。忍んでいた山賊は一斉にその距離を縮めた。
「逃げるわよ!」
ヒスイを荷馬車に放り込むと自らは馬車の前に座って馬に笞(むち)を入れた。
狭い道に一列に並んでいた隊商の列。前が動いていないのに後ろが先に進むのは難しい。大きな荷馬車がばらばらに移動するわけだから隊商は大混乱に陥った。その隙をついて山賊達は思う存分、略奪と流血に歓喜できた。
後ろで響く悲鳴にヒスイは思わず身をすくませる。アイシャの舌打ちが聞こえた。
「ええい、せめてごはんが済んでから出てきてくれればよかったのにっ」
「……そういうことをいっている場合ではないと思うんだが」
貴重なごはんは置き去りである。熱い汁物を呑気に運べる余裕などあるわけはなく、今頃焚き火の中にひっくり返され人馬に鍋ごと踏み荒らされていることだろう。
それでも、やはり勿体なかったな、とヒスイも思ってしまった。この辺りアイシャの刷り込みは成功しているといえよう。
「ヒスイ、後ろのカメの中の黄色の包みをしっかり抱いていなさい。万が一ってこともあるからね」
荷馬車の速度が上がった。上下の振動がひどくなる。この揺れる荷馬車の中、ヒスイは体のあちこちを打ち付けながらも這いずって後ろのカメを探し、黄色の包みを探った。それはあっさりと見つかるところに置いてあった。固くて重いそれはおそらく金属製。長さはそれほどではない。ヒスイの肘からぴんと伸ばした中指の先くらいまでの長さである。触った感じからそれが剣であることが推察できた。アイシャがいいたいことが分かった。万が一の時にはこれで身を守れ。いや、辱めを受ける前に自分で自分の始末を付けろという方かもしれない。
「ア……」
「喋らないで。舌、噛むわよ!」
振り返りもせずにいう。もっともだった。
後ろからの悲鳴はますます近づいてくる。ヒスイからは見えなかったが隊商すべての荷馬車は今、全力疾走で逃げまどっていた。山賊の声はますます近くなっていく。こちとら重い商売道具を積んだ上で疾走しているが彼らは身ひとつで馬にまたがっている。速さが違ってくるのは当然だ。
後ろでまた別の荷馬車が鮮血に濡れた。捕まれば男は殺され、荷物は奪われ、女も奪われる。アイシャは歯を食いしばった。昨日まで共に生活していた仲間を切り捨ててでも今は自分たちが生き残ることが優先で、その酷薄な現実を受け入れねばならない自分に腹が立った。
ヒスイは剣を握りしめながら揺れる荷馬車の中、小さくなっているしかなかった。金臭い匂いが風に乗って流れてくる。血の匂いだと経験的に知っていた。山賊はもう近くまで来ている。目をしっかりと開いた。手に汗をかきながら強く剣を握りしめる。ここで少しでも荷物が軽くなれば荷馬車はもっと速く走れるはずだということにも気付いていた。剣をくるんだ黄色の布を引き剥がす。揺れる荷馬車の中、ひざで立った。
「アイシャ!」
「舌を噛むっていってるでしょ!」
「今までありがとう。このまま行ってくれ」
怯えて動かなくなっていたはずの体が、これ以上なくなめらかに動く。
荷馬車から飛び降りた。
「ヒスイ!?」直接、道に飛び降りるような真似はさすがにしない。出来るだけ下草のあるところを狙って飛び降りたが、疾走する馬車から転げ落ちた痛みは相当なものだった。内臓を直に叩きつけたような衝撃が伝わる。息が出来ない。勢いが付いて傾斜を転がった。木々の枝がヒスイの体を突き刺し、切り裂く。咄嗟に顔だけはかばったが腕や足は摩擦でこすれた。……全身に擦過傷を負ったが、ねんざひとつしなかったのは運が良かった。
「こうした方がアイシャには危害が加わらなくて済むからな」
泥だらけの体を起こし道に立ちふさがった。馬にまたがり、血の色した砂煙を巻き上げ向かってくる山賊の姿が近づいていた。
あの優しい人だけは守りたい。
小さな剣を握りしめた。ヒスイにこんなものは使えない。だが。
「思う存分するのは初めてだからな。……調節は利かんぞ」
口の中を湿らせる。風がヒスイの周りを取り囲んだ。紐が切れ、編んでいたはずの黒髪が風に舞う。
馬が近づいて来る。
ヒスイは、その馬の足に狙いを定めた。翠の瞳が一際鮮やかに輝く。――当たれ!
勢いよく空気のこすれる音がする。風の固まりが馬を襲った。
「うわっ!」
馬が煽りをくらい、乗っていた人間は落馬した。
それはいつの頃からだったか。風はヒスイを守ってくれた。思うように動いてくれた。唯一の家族である母がその力を恐れも否定もしなかったため、使えるのが当然だと思っていた。そうではないと知ったのはいつの頃だっただろうか。
ここでは見とがめる者は誰もいない。
風がヒスイを守るように取り囲み、渦を描く形で吹いた。
「さぁ、次は誰だ?」
この先は行かせない。時間稼ぎくらいは出来る自信があった。風の壁を作る。イメージするだけでいい。近づく者に風の壁をぶつける。来るな、と。*
「魔法使いだ!」
山賊達は道の真ん中に立ちふさがる少女に押されていた。近づくと何かに跳ねとばされる。馬はまっすぐ走って逃げて行くし隊商の残りは追えないし。
「魔法使いが守ってるなんて聞いてねぇぞ!」
「そうだ! 今度の隊商はほとんど護衛を失ったって話じゃなかったのか!」
口々にわめく男達の後ろで、若者が突っ立っていた。
男達の憤りは彼にも八つ当たりという形でぶつけられた。
「てめえ、突っ立ってるだけかよ!!」
学習という物をしない男達である。すっと細められた青い瞳が、明らかに彼らを小馬鹿にしていた。
「だーかーら、たまにはオレに頼らずひとりでやれっての」
馬鹿にしている、を通り越して蔑みの目で見る。だが次の瞬間、人好きのする愛嬌のある表情でにこっと笑った。
「あれはオレの獲物だもん」
腰に差した剣を抜く。その刃は明るくなってきた周囲に白い光を跳ね返し、彼は馬もなしに一気に彼女に走り寄った。*
青い影が走った。
それは咄嗟の出来事。ヒスイは半分以上、勘で鞘に収めたままの剣を水平に構えた。
カッ、と上から被さってくる金属音。目の前には、青い瞳をつけた若い男の顔があった。
「あ、すごい。近くで見ると本当に美人さんだ」
「!?」
ヒスイは剣を握った手に力を込める。若者はその力に負けず上からぎりぎりと力で抑えつけながら、顔には親しげな微笑みを浮かべていた。