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翡翠抄−ひすいしょう−

第一章第三節第三項(026)

 3.

 隊商の生活は歩くことが大半を占める。男は馬の轡(くつわ)を握って歩き、女もその後ろに倣って歩く。
 荷馬車の用途は「人間の移動手段」ではなく「荷物の運搬手段」なのだ。このふたつは似ているようで大きく異なる。何が一番違うかといえば、やはり移動速度だろう。移動にかかる日数は馬ではなく徒歩が基準になるということだ。半日歩いても距離はそれほど稼げない。それに歩みが止まることもしょっちゅうなのである。
「おおい、止まってくれぇ。アルクの馬が穴にはまったぞぉ」
 前方から聞こえる声に、ヒスイとアイシャは顔を見合わせた。
「行って来る」
 ヒスイが簡潔に答え、ロープを持って前に移動していった。アイシャは頷くと後ろに続く荷馬車の列に向かって声を張り上げた。
「はーい、すいません、止まってください。後ろの人、止まってぇ」
 そして自分も馬の轡を引っ張って荷馬車を止めた。連鎖反応で後ろに続いていた者達が次々と歩みを止める。
 ヒスイは前に前にと進んだ。被害を被るのは大抵最前列と決まっている。そこにはもう男達が集まって作業を始めていた。
 道の真ん中に大きな陥没があって馬はそこに後ろ足から落ちたようだ。馬の下半身がすっぽりと入っているところを見ると穴はかなり深い。悪いことに穴の中には水が溜まっている。馬はなんとかはいずり出そうと前足で土を掻いて暴れていたが、足がかりの土は水のせいで崩れていく一方である。
「手伝えることは?」
 男達はロープで輪を作り馬の首に引っかけていた。これを引っ張って馬を持ち上げようというのだ。それを引っ張るのか、それとも新しいロープを掛けた方がいいのか聞いたのだが、返ってきた答えは
「お嬢ちゃんじゃ話にならん!」
 だった。
 一理ある。ヒスイは辺りを見回した。馬の持ち主は非力そうな男で、今にも泣きそうな顔して様子を見守っていた。野次馬の女達の方がよっぽど頼りになりそうだった。
「すまないが、車を押さえるのを手伝ってほしい。このまま馬を引き上げても次は荷馬車が落ちてしまう」
 その荷馬車がやたら重いものを積んでいないことを祈った。
 結局その日は女達で荷馬車を支え男達が馬を引きずり出して事なきを得た。穴には適当な材木で橋を作ったが、簡単な橋渡しだったので後ろの方でそれを踏み外す者が出たらしい。近くにいた者がまた引きずり出し作業に追われたと聞こえてきた。
 馬車でこんな道を疾走など出来ない。道は至る所で陥没しているし、時には大きな石や倒木が道をふさいでいる。それでなくても小石程度ならゴロゴロしているのだ。馬車の車輪はしょっちゅうこれに乗り上げて上下している。人が乗ればそれこそ脊髄から脳まで一直線に衝撃が響いて、おちおち座ってなどいられないだろう。せめて車輪が衝撃を吸収する素材ならば、と、ヒスイは自分の育った世界と比べながら鉄の輪で補強した程度の木製の車輪を見た。

 日が暮れ始めると隊商の歩みは止まる。火打ち石の音があちこちで響き、焚き火の火が明るく周囲を照らした。
 石英と鉄片で火花を起こし木屑に移して火種を作る。たったそれだけのことなのに、ヒスイにはうまく出来なかった。コツがあるのだと女達はまた笑った。ここに来てから彼女はみんなのいい笑いの種だった。火種を薪に移して一晩中、火を焚く。炎は獣よけのため。だが明かりは逆に山賊に自分達の居場所を知らせる危険もあるので一長一短だと隊の男衆のひとりがいった。
「ふう」
 ヒスイは横になって体を伸ばした。寝る場所はアイシャが荷物を少し積み重ねて荷馬車の中に場所を確保してくれた。ヒスイの請け負える仕事は今日のような道の不十分からくる馬や荷馬車の引き上げ、馬の世話(もちろん馬に触るのも初めてだ)、燃料にする柴を束ねたり等々。それでも彼女は足手まといにしかならない。とにかく言われた仕事ははいはいと二つ返事でこなすように努力はしたのだが、全身の筋肉はいつも夜になると悲鳴をあげた。
 アイシャも同じくらい動き回っているはずなのに、それでもまだ彼女にはヒスイを心配できるだけの余裕があった。焚き火でお湯を沸かし、温かい飲み物をヒスイに差し出した。
「これは?」
「疲労回復の香草茶。蜂蜜も入れてあるから効くわよ」
 それはわずかに緑がかかった黄色で、青林檎をすりつぶしたような甘い匂いを放っていた。進められるままに口に運ぶ。温かさと甘さが疲労した体の隅々に染み込んで、新しい血が通い全身を巡っていった。さすが薬草の専門家が煎じただけはある。
「……いいのか? その、商売道具だろうに?」
「いいのよ。本当はいけないんだろうけれど、私は商売人としては三流だから」
 ひらひらと手を振って笑っていた。果たしてそれは笑っていていいことなのだろうかとかえって困惑してしまったが、アイシャは気にする様子もなく、新しい服はどうかと聞いてきた。
 アイシャの縫ってくれた服は、上下が渋い緑、中の服は淡い黄。腰帯には娘らしく刺繍が施してあった。さすがに靴だけは隊商にいる職人に頼んだが、柔らかい皮と固い皮を組み合わせてあって旅に適するよう丈夫に作ってあった。
「どこにも不具合はない。ありがとう」
 そう答えたのはアイシャに対する気遣いからである。本音を言えばもう少し動きやすい服装の方が好みだった。ひらひらする裾の服より男物が着たいと望むのは間違っているだろうか。
 ヒスイの返事を聞くとアイシャはにっこり笑って
「色んな事をあなたに教えてあげる」
 と、いった。
「食事の作り方、服の縫い方、あなたが覚えたいというなら私の知っていることは教えて上げる」
 ヒスイは彼女が一体何をいいだしたのかすぐには理解できなかったが、ややあって頷いた。申し出は渡りに船だった。いつまでもアイシャの厄介になるわけにはいかないのだから。
「……教えてほしい。衣食住は大事だから」
「そうね、食べることと寝る場所と、着る物は大事よね」
 台詞の順番が若干違うのは言葉の変換のあやだろうか。
「食べなきゃ生きていけないからお料理をして、寝床をきれいに保つために掃除を覚えて、生地を傷めない洗濯の仕方も教えてあげる。寒さをしのぐためには衣服の手入れが大事ですものね」
 飢えと寒さは大敵、と付け加える。
 ヒスイは新鮮な気持ちで彼女の台詞を聞いていた。
 ここでは何もかもが必要に迫られて生み出されたものなのだ。料理も掃除も洗濯も。ヒスイは死にそうになるほどの飢えも寒さも経験したことはない。当たり前だったことが何一つ当たり前ではなかった。ここ数日暮らしていてヒスイは、まさか粉からパンを作るのがあんなに時間のかかる作業だとは思わなかった。パンはまとめて作り置きをしておくということだったが納得した。家にいるのならともかく、旅暮らしで一回一回、四時間もかけて焼いてなどいられない。アイシャの仕事は食事の支度、薬草の採取、乾燥、整理。薬だけでは商売にならないから、と薬草を使った雑貨を作ったり、その片手間に繕い物をしたり。食料が不足しがちなので作った蝋燭や石鹸など日用品を粉と交換してもらっていた。隊商そのものが移動する市場とはいえ、目的地が近づいて来るとどこも食糧事情は逼迫(ひっぱく)してくる。しっかり買いたたかれて赤字だと笑っていた。それもあって夜になると帳簿を付けて在庫の確認は怠らない。
「どうかした、ヒスイ?」
 自分のことより赤の他人の心配をしてくれる優しい人の顔を見つめて
「……アイシャに拾ってもらってよかったな、と」
 無意識に答えていた。本気でそう思った。
「あら、ヒスイったら嬉しいこといってくれるのね。……あ、そうだ」
 いいことを思いついたと彼女は明後日の方向に視線を移しながら目を輝かせ、ひとつ手を打ちならした。
「あなたがお家に帰るその日まで、私があなたの保護者になってあげる!」
 言われた方はたっぷり十数秒停止した。
「お母さんっていうには年が近いものね。ヒスイ、いくつ?」
「……じゅうろく……」
「あら、みっつ違い。もう大人じゃないの。家事もまともに出来ないとお嫁に行ったときに困るでしょうに?」
 アイシャの言葉がぐるぐると脳裏でワルツを描いた。
 と、いうことはアイシャはまだ十九で。正直、もっと年上だと思っていたわけで。こっちでは十六でもう大人扱いで。お嫁云々は、こっちの世界ではどうやら大人になったらさっさと片づけにかかるのが当たり前のようで。そういや母親が似たようなことを昔いっていた気がするわけで。
 この世界で女一人で生きていくのはどうやらとんでもなく大変なことらしいと、ヒスイは遅まきながらようやく実感した。

   *

 明々と隊商の明かりが灯る森の中、火も焚かずに一行を見つめている集団があった。暗がりに潜むその集団は二十人くらい。まさに潜んでいるといった風情で彼らは物音も立てずに葉陰から隊商の明かりを見つめ、物騒な光が時折、闇の中に反射していた。下卑た笑い顔が貼り付いている。高揚感を無理矢理押さえつけた特有の緊張感が彼らの間には流れていた。が、それは木の上に登って遠眼鏡を構えていた若者が一言、
「可愛いなあ」
 と、のたもうた事で一気に崩れた。
「お前、なに呑気なこといってやがる!」
「ええ? 可愛い子がいるんだよ。サラサラの黒髪に、綺麗な翠の目をしてる。可愛いっていうより美人の卵かな。うんうん、いいなぁ。すっごく好み。あれ、オレが唾付けたっと」
「この、……ちったあふざけるのもいい加減にしやがれ!」
 男は怒りで頭に血を上らせ興奮した声で怒鳴りつけた。周囲の人間はその声の大きさにぎょっとして彼を抑えつけ、静かにしろと身振り手振りで男を非難する。気付かれては元も子もないのだ。
 若者はひと飛びで木から下りる。着地の音はほとんど立てなかった。猫のような身のこなしである。
「ふざけてるつもりなんてないんだけど。やっぱり獲物の選別は大事でしょう」
「おい、お前!」
「やだなぁ。オレは『お前』じゃなくて『セイ』だよ。あっ、そうか。人の名前も覚えられないほどお馬鹿さんなんだね」
 相手の男がぶるぶると怒りで全身を震わせる様を見ながら、若者は「楽しいなぁ」と目元を細くして微笑んだ。闇の中で若者の青い瞳が煌めく。
「悔しいならちょっとは他人の力、あてにしないで自分でやったら?」
 遠眼鏡を放り出す。からかいを含んだ声。完全に相手を馬鹿にした口調だった。
「でもお目当てさん出来ちゃったから、今度の襲撃には参加するよ。朝駆けでいいんだよね」
 セイと名乗った若者は目の前で鼻息荒く唸っている男を無視して、後ろで偉そうにふんぞり返っている男に聞く。聞かれた男は返事の代わりに臭い息を吐きながら笑って見せた。集団はその男の笑みに満足そうに頷き、獣じみた匂いを彷彿とさせる汚い笑い声をもって応える。森の闇は彼らの薄汚い企みを完全に外から隠していた。
 セイだけはその声に背を向けていた。
「楽しいなぁ」
 もう一度呟いて、彼は隊商の焚き火を見つめていた。正確には黒髪、翠の瞳の少女を。


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