[←back][home][next→]

翡翠抄−ひすいしょう−

第一章第三節第二項(025)

 2.

 一夜にしてヒスイは文明の世界からこの「世界」の住人になってしまった。
 さて、働かない者を置いておけるほど隊商に余裕はない。ヒスイはアイシャに引き取られて働くことになったのだが、ヒスイの仕事はまず「自分は何も出来ない」ということを実感するところから始まった。

「自分で服も縫えないの?」
 布地を前にして放心しているヒスイにアイシャは驚いた声を上げた。
 アイシャの服をいつまでも借りっぱなしという訳にはいかないのでヒスイの服を仕立てようということになったのだが、渡されたのは布地だった。そして裁縫の道具を貸してもらった。好きな服を作りなさいね、と。布にはさみも入れられないまま考えこんでしまった。もちろんヒスイとて簡単な繕(つくろ)い物くらいは出来る。ほつれた裾を繕ったり、取れたボタンを付けたりくらいはしていた。しかし、目の前にある現実はそんな段階を一足飛びに越えていた。
 アイシャは目をまんまるにしてヒスイの顔を覗き込む。
「あなた、今まで誰が服を縫ってくれていたの?」
 答えられなかった。既製服を買っていたが、それも当然誰かが作ったものであるということを気付かされた。ここには既製服という観念がないのだ。自分の物は自分で作らなければ誰も何もしてくれない。そしてヒスイは今、それが出来ない。
 泣きそうになった。
「……」
「ああ、そんな顔しないで。仕方ないわね、ほら、立って」
 ヒスイを立たせて、アイシャは巻尺とまち針と布を手に取った。たくさんの布地を次々とヒスイにあてがっていく。
「うーん、どんなのがいいかしらね? 私、裁縫はあまり得意じゃないの。簡素なものになるわよ。何色が似合うかしら。どんなのが好き?」
「あ、の……アイシャさん?」
 アイシャが見上げてくる。
「だって服はどうしても必要でしょう」
 ヒスイが作れないならアイシャが作るしかない。巻尺で体のあちこちを測りながら、こんなものかなと布を巻き付け、まち針で止めていく。
 これで裁縫が得意ではないと言われてしまったらヒスイなどどうすればいいのだろうか。
「それから、『さん』付けはやめてね。アイシャと呼んで頂戴」
「いいんですか?」
「敬語もやめない? あなたのことを引き受けた時点で家族みたいなものですもの。家族で遠慮するような付き合いは私が嫌いなの」
「……」
 どう切り返していいのか分からず言葉に詰まってしまった。棒でも飲み込んだような直立不動をいいことにアイシャはさっさと採寸を済ませる。
 鳥の声がした。
 頭の遙か上で鳶が輪を描く。よく晴れた青空に雲が流れていた。
 隊商の使う荷馬車は荷物以外はやっと人が寝そべられるくらいの空きしかなくて、縫製作業は全て外で行われていた。外といっても地べたで直接、というわけではなく、荒く編んだ麻布を下に敷いている。隊商の女たちはこの様子を笑いながら見ていた。あちこちでかまどに火が入る。食事時なのだ。次の町に着くまで一日中、移動に費やされる。揺れる荷馬車の上では出来ない作業はこうやって隊が止まるときに外で行われるのだった。
「まあ、こんなもんでしょ。ヒスイ、もういいわよ」
 ようやく固くなった体に動きが戻った。
 アイシャは素早く布地を裁っていく。
「あと、これで仮縫いしていくからね」
「……あの、仮縫い、って……こんな遮蔽物(しゃへいぶつ)のないところで?」
「そうなるわね。まあ、そのときはみんなで壁を作ってあげるわよ。今日中に出来やしないし。一枚作ったら型をとって、そうしたら次からすぐに本縫いできるでしょう」
 アイシャはピンクのリボンを揺らしながらヒスイを見上げてきた。
「もちろん、次からは自分で作るのよ」
 いたずらっぽい瞳で笑う。対し、ヒスイは渋面した。

 ヒスイの服にかかずらっていたせいで食事の支度が遅くなってしまった。アイシャは近くの荷馬車のかまどに寄って粉と引き替えにパンと小魚を分けてもらった。
 小魚は近くの沢で捕った物だということで、すぐに食べないものは薫製にして保存しておくのだとアイシャはいう。
「……念のため聞くけど、ヒスイ、料理は?」
 アイシャはヒスイの手を見ながらいった。
「それは多分、大丈夫だと思う」
 敬語は使うなとのことだったのでヒスイは遠慮なくいつものしゃべり方をさせてもらうことにする。
 アイシャは視線を元に戻して、眉の間にしわを寄せ、ちょっと考え込んだ動作をおおげさにして見せてから
「魚は三枚に下ろせる?」
 と聞いた。
「出来る」
 ヒスイの答えは速かった。伊達に放任主義の母を持ってはいない。母親が何かしてくれるのを期待するより自分でやった方が早かった。そこそこ不自由しないくらいには作れる。
 アイシャはちょっと表情を緩めた。
「それはよかった。料理は好きだから苦にはならないのだけれど、出来るに越したことはないもの」
 ヒスイも自分が出来ることが増えたようで嬉しくなる。これ以上アイシャの手を煩わせるのはさすがに気がとがめた。そうして、ほっと胸をなでおろしかけたところへ。
「私はまた、火の起こし方もパンの焼き方も知らないのかと思ったわあ」
 安心した声が凶器となってヒスイの胸を突き刺した。
 嫌な汗が吹き出す……。
 トーストは毎日焼いていた。けれど粉からパンを焼いたことはない。火はガスをひねったら出てくるものだった。暑くなどないのに掌が汗ばんでくる。思わず煙を細く吐き出しているかまどに目をやった。
 炭の起こし方など知らない!
 またも自分が足手まといになっていることを実感するしかなかった。
「あ、の……」
 重く口を開く。そこまで馬鹿正直にいわなくてもいいのかもしれないが、黙っていることに意味を感じなかったのでヒスイは「出来ない」ことを正直に伝えた。アイシャの幻滅した顔を見るのは少し、いや、かなり気が引けた。
 伝えられたアイシャは想像に違わず複雑な顔をした、……が。
 眉を寄せ、顎を引いて手を頬に当てた。
「そうよねぇ。東では粉食ってあまりしないのよね。食生活の違いってものをまるっきり考えていなかったわ」
 と、少々見当違いな、主婦らしい溜め息をついた。
「困ったわ。あなたの口に合う物は出来ないかもしれない」
 慌てたのはヒスイの方である。
「そんなことない! 食べられるだけでも十分なのに。だって、ただでさえ余分な食い扶持が増えてアイシャの蓄えは倍の早さで減ることになるのに、この上そんなことまで気にしてもらわなくても私は大丈夫だから!」
「ヒスイ……」
 感激屋の彼女は目を潤ませて、いい子ね、とヒスイを抱きしめた。
「今度、東の国のお料理を教えて頂戴ね。うんと腕をふるうから」
「……得意だといっていたが……」
「ええ。そうね、イノシシくらいなら包丁一本でさばけてよ」
 にっこりと笑うアイシャに、やっぱりこっちの世界の人は生活能力が違う、と思わざるを得なかった。

 かくしてヒスイの仕事は、いかに小柄で華奢で体格的に向いてなかろうと力仕事に決定したのである。それしか出来ることはなかったのだから。

   *

「お嬢様だよねぇ」
 女たちは笑いさざめきながら新しい珍客の噂話に花を咲かせていた。
「見たかい、あの子の手」
「なまっちろい、きれぇな手をしてさ」
「そうそう。あれは働く者の手じゃないよ……そう思わない、アイシャ?」
 急に話を振られて、縫い取りをしていたアイシャの手が止まった。
「そうね、おばさんたち。お嬢様にはとても見えないけど」
「でも何も出来ないんだろう」
 何が面白いのか、また全員で笑った。つられてアイシャも笑う。社交辞令だ。
 縫い取りの糸を切る。
 アイシャもそれは気になっていた。あの子の手は確かに仕事をする手ではない。やわらかくて荒れてもいない。ついつい比較して、ふしくれだった自分の手を見てしまう。水仕事で荒れ、皮は固くなり、白いひび割れも入っている。爪も綺麗ではない。まあ平民の女性ならみんなこんな手をしているはずだ。
「でもあの子お嬢様じゃないわ」
 確信を持って、いつも自信なさそうな少女の顔を思い浮かべる。
 最初はアイシャもあの少女をどこぞのお嬢様かと思った。だからそのつもりでいたのだが、ヒスイはアイシャが何かしてやるたびにすまなそうに萎縮した。誰かの手を煩わせることにまるで慣れていないのだ。それに、ちゃんとこっちの食糧事情も理解していた。
 アイシャは一人暮らしである。小さな荷馬車とそれを曳く馬、それに荷物。雑貨に薬草などの商売道具の他、生活必需品・糧食・少しのお金などを荷馬車に積んでいる。持ち物はそれだけだ。それだけというには多い量に見えるかもしれない。だが家持ちの人間に比べれば遙かに少ない荷物だった。
 そんな状態で人一人を余分に抱えていくということはどういうことか。
 一人分の蓄えしかないところを二人で食いつぶすということだ。足りるはずがない。頭の痛い問題ではあったのだが、ヒスイはそれに気付いていて食べさせてくれるだけで十分だといった……。こういっては何だが普通の貴族のお嬢様は自分の心配、特に食べ物の心配などしない。他人が自分に奉仕してくれるのを当然と思っている人種にそんな芸当は出来ない。貴族特有の居丈高な態度だって欠片も見えない。むしろ、すがりついてくるような翠の瞳が印象的だ。
「まあ、そのうち全部話してくれるでしょ。それまではもう少し騙されていてあげましょうか」
 アイシャは糸を変えて、そして針の続きを刺した。


+感想フォームを利用してくれる?+(作者が喜びます)
[<<前]
[次>>>]
[目次]
翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada.