[←back][home][next→]

翡翠抄−ひすいしょう−

第一章第三節第一項(024)

 拾われた娘

 旅は死と隣り合わせであった。
 町や村は広大な大地に点在している。そこを繋ぐ道はない。旅人は道なき道を進む間、常に追い剥ぎや獣、時には魔物に襲われる恐怖に晒されていた。まして商人は金目の物を持ち歩いているわけだから追い剥ぎに襲われる可能性は高い。店を持たぬ商人は、ある者は自衛し、ある者は護衛を雇い、またある者たちは同じ目的地を持つ者同士で徒党を組んで旅を続けた。群れて旅する行商人達の集団を隊商と呼んだ。

  1.

 森は人にとって優しい場所ではなかった。そこは獣たちの領域。森の暗がりは獣の姿を隠し、悪い足場は人の歩みを妨げ獣の逃げる道を確保する。心構えもなく進んでその領域を侵す者は獣に引き裂かれることと覚悟しなくてはならない。
 夕暮れも近い森の中、足場の悪い岩場を若い女性が二人、歩いていた。
「ねぇ、もう帰りましょうよ」
 後ろについていた女性はおどおどと前に声を掛けた。
 声を掛けられた女性が振り返る。亜麻色の髪を束ねているピンクのリボンが揺れた。
「ごめんなさい、じゃあ一人で戻ってて。私はもう少し薬草を採取して帰るから」
 明るい空色の瞳で見つめられ、後についていた女性はひるむ。
「だっ……だってこんなに暗くなっちゃ、アイシャの道案内がないと帰れないわ!」
 と、精一杯の抵抗をした。
 仕方ない、とアイシャは苦笑し手元の籠(かご)に視線を落とした。ひとつ切らしている薬草があったのだが。
 夜の森に入るものはよほど命が要らない者である。その場所に精通している者でも後込みする。行商の彼女たちに土地勘はない。また連れてきた女性には帰りを心配する者もいる。そろそろ引き返してやらないと彼女が可哀想だ、と思いなおした。
 アイシャは薬草の行商人だった。行商は大抵、小さくて軽い希少性の高い物を取り扱う。危険と隣り合わせで商売する分、確実な値段で売れなければ割に合わないからだ。特に高く売れるのが織物・宝石・香辛料。薬もそのうちのひとつだった。アイシャは調合された薬ではなく薬草そのものを売った。症状に応じてその場で処方もする。そして足りなくなった薬草は道々で採取した。他の行商の者達は森を通るのを嫌がったがアイシャにとっては宝の山だった。
 森に一人で入るのは危険だということは熟知していたから一番手の空いていそうな女性に頼んで同行してもらったのだが、今日は思った以上に収穫がなかった。森に慣れていない者に随分と歩き回らせてしまったようだ。

 帰路に向かおうとする彼女たちのすぐ近くで枝が折れる音、続いて何かが滑り落ちる音がした。
 同行の女性が悲鳴を上げた。
「やだ、熊? 狼?」
「そんな音じゃなかったようだけど……」
 たわんだ枝が重みに耐えかねて折れたような音だった。アイシャの故郷では雪の降った翌日などにあんな音がした。雪の重みに耐えかねて枝が折れ、雪が音を立てて落下するような。
「……落下?」
 熊や狼が落ちたのだろうか。いや、考えにくい。
「ちょっと行ってみるわ」
「アイシャ!?」
 青ざめる女性を置いてアイシャはどんどん森の奥に進んだ。

 切り立った崖だった。だが崖の高さはアイシャの身長より少し高いくらいしかなかった。向かいの崖はもっと高い。崖下は二つの岩壁に挟まれ、ちょうど小さな谷になっていた。アイシャは崖下を覗き込む。息を呑んだ。
 そこには少女が倒れていた。黒髪の少女、身に付けている衣服はこの辺りでは見かけないものだ。
 ふと向かい側の崖……いや、岩壁を見上げた。アイシャの立つ側の崖より三倍以上は高いだろうか。頂上は木々に覆われているが、それ以外はまったく足場のない崖だった。その木々が折れていた。崖下には木を折ったばかりの青臭い匂いが漂っていた。折れた木の枝のうち太くて先の尖ったものは綺麗に少女からどけられており、柔らかな新芽を付けた枝葉は少女の下にあった。
 アイシャはくるりと方向を変える。
 後を追ってきた女性に薬草の入った籠を押しつけた。
「私の商売道具よ、粗末にしたらただじゃおかないから」
「ええ!?」
「戻って、毛布を持ってきて。人が倒れているの。ロープは持っているから」
 薬草の採取には岩場に下りなければいけない時もある。
「無理よ、一人で帰れないわ。アイシャが行って帰ってきた方が早いわよ」
「……そうかもしれない。じゃあ、あなたここに残って頂戴」
 女性はひぇっ、と小さな悲鳴を上げた。森はどんどん暗くなっていく。こんな暗い森に残されるというのが利いたのだろうか。彼女はアイシャの薬草の籠を抱いて、助けを呼びに行って来ると戻っていった。
 さて、残ったアイシャはロープを体に結わえ付け、端を木の幹に回すと崖下を見た。
「さて、果たして二人分の体重でも支えてくれるかしらね?」
 冷や汗をかきながらも自分を勇気付けるように微笑を浮かべる。
 誰もいないことを幸いとばかりに、アイシャは勢いよく服地をたくしあげ裾を結んだ。ロープの長い方を先に崖下に落とす。
 岩壁の高さはそれほどでもない。アイシャは岩場が崩れにくいことを確かめると後ろ向きに足から下ろし始めた。足場に出来そうなところはなく見事にえぐれている。足がかりに少しずつ下ろそうとして体重を掛けた矢先に、足の裏が滑った。
 小さな石が幾つか転げ落ちた。
 悲鳴は急にかかった負荷に相殺され飲み込まれる。岩の上にかけた腕が引っかかり、脇の下で全体重を支える体勢になっていた。
「うーん。この姿勢ってばけっこう辛いんだけど……まだ足がつかないか」
 足のつま先に神経を集中させ円を描いてみるが触れるものは何もない。
 地面まであとわずかだったように思う。アイシャは足を振り子のように振って反動を付けて
「せえ、の」
 後ろに飛んだ。
 着地の際にたたらを踏んだが、無事に下に降りたった。
 ロープはちゃんと木の幹に回されたままだ。安心する。さて、アイシャは体に結んでいたロープをほどくと倒れている少女に近づいた。
 黒髪の少女は華奢で衣服はひどく破れていた。
 脈を診る。大丈夫、生きている。骨もどこも折れていない。裂傷は? 小さな物はいくつもあるが大きな傷はないようだ。体を随分強く打っているようだから内臓への影響が心配だ。頭にこぶはない。最後にアイシャは少女のスカートをめくり上げた。最悪の事態を想定したのだ。少女があんな高いところから飛び降りなければならないほどの、女性にとって最悪の事態を。……ほっと一息ついた。着衣に乱れはなかった。
 手にした服地を放す。それにしても珍しい生地だ。こんなものは初めて触る。
「……ねぇ、あなた。大丈夫?」
 頬を軽く叩いた。
 意識がないとすれば危ないかもしれない。
「ねぇ、ねぇったら。気が付いて頂戴」
 頬を叩き続ける。下手には動かせない。どうしたらいいかと思ったとき、少女が薄く目を開けた。細い翠の色が浮かぶ。
「気が付いた? 大丈夫?」
「……」
 少女はまた目を閉じた。
 風が少女を包むように吹いた。

 ほどなく隊商の人々が明かりと毛布を持って助けに来てくれた。
 アイシャは毛布を受け取ると素早く少女の体をくるんだので、少女が変わった衣服を身につけていることに気付く者は他に誰もいなかった。
 行きずりの少女はアイシャの手元に引き取られることになった。

   *

 その少女が目を覚ましたのは明け方に近いころだった。
 早くから起き出して薬草をすりつぶしていたアイシャがいち早くそれに気付く。
「目が覚めた?」
 少女は大きな翠の目を向けた。
「あ……。助けてくれて……ありがとうございました」
「感心、感心。ちゃんと覚えていたわね。私はアイシャ。愛紗と書くの。あなた、名前は?」
「私、は……ヒスイと……」
「あら、綺麗な名前ねぇ。東の方の名前ね」
 黒髪に緑の瞳の女の子が「ヒスイ」という名前はよくある。
 それにしても綺麗な色の目だった。こんな翠は滅多にない。
「どんな字を書くの? やっぱり普通に、翡翠?」
「そう、です」
 少女はまだぼんやりとしている。
 アイシャは反対に表情を引き締めた。
「……あなた、一体どこから来たの? どうしてあんなところにいたの? 詮索されて歓迎されるはずはないけれど、昨日落ちた星のせいで今は珍しいものにみんなが敏感になっているのよ」
「ほし?」
「……そう。あんなに明るい星が落ちたんだもの。何かあるのかも、って迷信深い人間は警戒しているの。あなたの服はとても珍しいものだわ。どこから来たの?」
 ただでさえ運頼みの隊商は迷信深い人間が多い。
 少女は、何を言われているのか分からないというような顔つきだった。あんなに明るい星が落ちたのにそれすら知らないようだった。
「……分からない」
 ぽつりと少女、ヒスイはもらした。
「ごめん、本当に私は……どうしてあんなところにいたのか、どうやってここに来たのかも、分からないんだ……」
 アイシャはまじまじとヒスイの顔を見つめた。
 これはもしかして。
 記憶喪失、という単語がアイシャの脳裏に浮かんだ。やっぱり頭を打っていたのだろうか。
 ――こりゃ大変だわ――

   *

 ヒスイはひとまず、アイシャの服を貸してもらった。
 元から着ていた服は繕えないほどぼろぼろになったと周囲には言い訳するつもりだとアイシャはいった。

 さて。ヒスイは本当に記憶喪失になったわけでは、もちろん、ない。

 人の良さそうなアイシャという女性に対して「ごめん」と詫びる。けれど、どうしてここにいるのか分からないのも本当のことだ。記憶喪失はアイシャの勘違いだがヒスイはこのまま訂正しないつもりである。
 なにしろ、こっちの世界の常識が何一つ分からないのだ。
 言葉はどうやら同時通訳されているようだ。不自由はない。
 とにかくこの世界ではヒスイの身の置き場がどこにもなかった。大人しくアイシャの保護を受けているのが一番いいように思えたのだ。
 風がヒスイを励ますように吹いた。
 ……風がずっと下から押し上げていてくれたからあの高さから落ちても無事だったようなものだ。母の語るお伽話を頭から否定できなかった理由が、これだった。ヒスイは子供の頃から風を操れた。それもこの世界に来てから力が強まった気がする。
 お前は精霊に愛されたお父さんの子供だから、と母はいった。


+感想フォームを利用してくれる?+(作者が喜びます)
[<<前]
[次>>>]
[目次]
翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada.