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翡翠抄−ひすいしょう−

第一章第二節第一項(023)

 在りし日の日常

 その日の朝、いつもと同じように自室のベッドの上で目覚めたはずだった。いつもと同じように目覚まし時計のベルを止めて、制服に着替えて……。
 全くいつもの朝と変わらなかったのに。

   *

 ヒスイは鏡に向かって髪をまとめていた。
 鮮やかな翠の瞳が鏡の中からこちらを見つめていた。セミロングの黒髪をひとつに結びポニーテールにする。「そうやっているとお母さんそっくりね」とよくいわれるがヒスイの髪は母親に比べると随分短い。
 部屋の写真立てにはこの春、入学式の時に母親と並んで撮った写真が入っていた。
 髪と瞳の色以外はそっくりな母子である。母親は金の髪に紫の瞳をしていた。ヒスイの母は未婚で彼女を生んだ。現実的な母は子供を友人達にまかせて働き、今やこの極東のはずれの支社をそっくりまかされていた。ヒスイは母に連れられ子供の時にこの国に来た。
 表向き父親は死んだということになっている。結婚する前に死んで、その時にはもう忘れ形見がいたと。あまりにうるさい周囲を黙らせるための方便だと母はいっていた。
 ――お前の髪と瞳はお父さんに似ているな――
 そういって嬉しそうに母は髪を撫でた。
 だが客観視してヒスイはほぼ全面的に母親に似たのだ。顔の造りも、髪も。色は父親似だがコシの強い髪質は母親と同じである。瞳の色も父親譲りということだが、よく聞いてみれば父親は深い森の色した暗緑色の瞳だったらしい。ヒスイは翠。鮮やかで澄んだ、エメラルドの欠片を埋め込んだような色である。
 ひとつ、どちらにも似なかったのが身長だ。母は背が高い。さて、父はその母より頭ひとつほど高かったと聞く。……いずれ伸びるさ、という母の希望的観測は楽観した言葉にしか聞こえなかった。
 父と母のなれそめは聞いていた。父は本当は生きていて今も異世界で暮らしているという。まるでお伽話だと思ったが馬鹿馬鹿しいとは思えなかった。……それに、ヒスイは父親を覚えていた。
 覚えているのは声と手。自分を支える大きな手。そして声。
 ――翡翠と名付けよう――
 その声がわずかに震えていたことまで記憶している。
 母の話によると生後すぐということだから、よく覚えていたものだと自分でも思う。ヒスイにとってその記憶だけが父だった。当たり前だが写真も手紙もなにも残っていない。母にとっても父の存在のよすがは娘と別れの際にもらった腕輪だけである。ヒスイが父からもらったのはこの命と名前だけだ。改めて命名を父に任せた母の英断に感謝した。

 その母は香港に出張中だ。ヒスイはセーラー服にエプロンをかけて朝食を作り始めた。玉ねぎと挽肉を塩コショウして炒めて、卵でくるむ。手慣れたものだ。一人分の食事を作るのは今に始まったことではない。トーストが焼けた。冷蔵庫からグレープフルーツジュースを取り出してグラスに注ぐ。
 玄関のチャイムが鳴った。
 時計を見るとまだ六時だ。こんな朝早くに誰だろう、と思った直後にまたチャイムが鳴った。
 ピンポンピンポン、ピンポンピンポンピンポン……
「朝っぱらから何事だ!」
 噛みつくような勢いでインターホンに出る。
「誰だ」
 簡潔な問い。
「私だ」
 ……これまた簡単な答えが返ってきた。
 その声には嫌というほど聞き覚えがあった。深く溜め息をついて玄関を開けた。
 雑誌から抜け出したモデルのような美女が立っていた。ミディアムグレーのパンツスーツにインナーは黒。傍らには人間一人は軽く入りそうな大きさのスーツケース。長い金髪はすっきりとまとめられている。紫の瞳がにっこりと笑った。
「おはよう、娘」
 明るい声。母、サラである。
「……朝っぱらからご近所の迷惑になるようなことはやめてくれ」
 ヒスイはうんざりした顔で答えた。
「違うぞ。帰ってきたら『タダイマ』で、返事は『オカエリ』だろう」
「はい、おかえり……」
「ただいま」
 朝から脱力させてくれる母である。近所迷惑を考えながらヒスイはサラを家の中に引っ張りこんだ。
 さて、彼女たちが住んでいる家は小さなマンションの一室である。ちなみに「小さな」という比較対象は本国にあるサラの家とであり、世間一般のマンションとの比較ではない。

「帰りは今日の夕方になるはずじゃなかったのか」
「娘会いたさに早めに帰ってきたんだ。あ、コーヒーな」
「自分で淹れろ」
 ヒスイは包丁を持って台所に立った。あとトマトを切ってレタスを添えれば朝食ができあがるはずだったのだ。
「お母様に向かってなんて言いぐさだ。親は敬えといってあるだろうが」
「……もう少し待ってくれ」
 またもやヒスイは深く溜め息をついた。生まれたときからこの母には勝てないことが決定していたに違いない。
 せっかくの卵が冷めるのも構わずヒスイはコーヒーを淹れ始める。粉の豆をフィルターに入れてコーヒーメーカーに水を注いだ。それからやっと朝食である。冷めた卵とトーストがまずかった。ふと思い出したように
「サラ、朝食は?」
 と聞いてみた。サラは首を横に振る。機内食で簡単な物を食べたようだ。
「仕事はどうだった?」
「ん、厄介だった。お互いにかなり折れた末の商談でな。向こうのトップとは気があったけどな」
 サラと気が合うくらいだから相手は相当な頑固者だったのだろう。
 そのサラは手元の鞄の底を探っている。
「そうそう、土産があるんだ」
 宝石の箱らしいものが寄越される。
 蓋を開けると緑色の光が飛び込んできた。
「綺麗だろう? お前の名前と同じ石だ」
 翡翠の指輪だった。両側に四角くカットされたダイヤが一石ずつ配されているだけの簡素なデザインだったが、ヒスイの好みには合っていた。メインの石そのものもそれほど大きくはない。
「そうか、香港といえばこれが好まれるんだな」
 ヒスイは本気で興味なさそうに答えた。
「子供に宝石なんか買ってこなくてもよかったのに」
「何をいってるんだ。今日はお前の十六の誕生日だろうが」
 いわれた本人はきょとん、と目を丸くした。
「もう結婚も出来る年なんだぞ。立派な大人じゃないか」
「あ……そうか。誕生祝いと兼ねてるのか。毎年毎年、よく覚えているな?」
「当然だ。お前を生むのにどれだけ痛い思いをしたか。あれで安産とはよくいった」
 自分は偉かった、とサラは腕組みをして頷いた。傍らではコーヒーのドリップが終わったようだ。ヒスイは立ち上がりカップを二つ持ってきてコーヒーを注いだ。朝からインスタントではないコーヒーが飲めるとは思わなかった。少し母の我儘に感謝する。
 サラはコーヒーを飲みながらちょっと微笑んだ。
「もう十六か。早かったな」
「何をいきなり?」
「別に? 親ってのはそういうものだ。お父さんもきっとそう思ってる」
 当たり前のように父親の存在を口にする。
「いつかお父さんに会ったらよろしく伝えておいてくれ」
「……」
 これはサラの口癖のようなものだった。ヒスイは適当に合いの手を打つこともせずコーヒーを含んだ。「いつか」などあるものか。どうやったら異世界になどほいほい行けるというのだ。
「で、ヒスイ」
「何?」
「学校は?」
「あっ!」
 時計の針は定時より過ぎていた。
「今日はもう休んだらどうだ?」
「冗談! サラ、洗濯物と洗い物はやっておいてくれ!」
 ヒスイはエプロンを外すと鞄を持って飛び出した。やれやれ、と母は笑う。
「……果たして無事に帰ってくるかな?」
 そういった彼女の顔はすこし寂しそうだった。
 サラが買ってきた誕生祝いは転がされていた。東洋において「翡翠(ジェイド)」は魔よけのお守りである。

 ヒスイは走ってマンションの階段を幾つか下りた。エレベーターは使わない。あんなまだるっこしいものなど使っていられない。マンション五階の廊下部分で身を乗り出し、大通りに面さない人気のない路地を階下に見下ろす。人はいない。大丈夫。
 そして、胸の高さまである廊下に面した壁に手をつき、勢いをつけて体を持ち上げる。そのまま、ひらり、と飛びおりた。
 まっさかさまに。
 エレベーターを使うより落ちた方が早い、と判断したのだ。
 普通ならば骨を折る。悪くて死亡だろうか。
 だがヒスイは無傷で着地できる自信があった。子供の頃から高いところから飛び降りるのは平気だった。現に今日のように遅刻しそうなときは何度か同じ事をやっていた。セーラー服を翻してゆるやかに落下する。
 いつものことだった。この時までは。
 地上に近づいて来たときに異変が起こった。

   *

「あれ?」
 地上が空になった。足の着く筈の場所はただの空気に。周囲は青く澄んだ色、眼下に広がるは一面の森。
 風がヒスイの体を反転させる。そしてそのまま、彼女は背中から、頭を下に落ちていった。見る間に青く澄んだ空が遠くなっていく。
 どうして今日に限ってこんな事になったんだ?
 首を捻る。随分冷静な自分自身に驚いてもいた。

 ――お帰り、翡翠――

 耳元で風がそう唸った。


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