[←back][home][next→]

翡翠抄−ひすいしょう−

第一章第一節第一項(022)

第一章

 異世界への帰還

 「世界」は竜が作ったといわれている。
 この「世界」は生きていた。生きて、そしてたくさんの命を己の中に内包していた。ここはそういう「世界」だった。

   *

 少女は落ちていた。
 頭と背中を下にして落下していた。見えるのは青い空ばかり。全身を嬲(なぶ)る風は強く、随分高いところから落ちているらしい。
 少女はどうしてこんな事態になったのかと考えていた。それどころか非常事態に怯えた様子のかけらもない自分自身に首を捻る。かなり冷静のようだ。
 風に包まれ、そして彼女は声を聞いた。

 ――お帰り、翡翠――

 それがこの「世界」の声であったことは、ヒスイと呼ばれた彼女に知り得るはずもない。ただ彼女がその声によって理解したのは、自分がどこに還ってきたのかということ。「生まれて初めて触れる空気」は「帰還」を喜んでいた。
 一見矛盾するこの事実。
 たが、彼女を構成する細胞の半分は確かにこの世界のものだった――。

   *

 星が落ちた、と予言された。
 世界中の王族たちはお抱え占い師が皆、同じ言葉をいうのを聞いた。
 しかしその星についての解釈には各個人でかなり幅があったようである。

 ある国では背の曲がった老人が王にこう告げた。
「……恐ろしい……これは滅びの星でございます。とてつもなく大きく、強い力を持っております。この星が望めば我々の国はすぐに滅ぼされてしまうでしょう」
 聞いた王は青ざめ、震え戦(おのの)いた。
「すぐさま、その星の落ちた場所を占え……」
「は、なんと」
「決まっている! 滅びを招く前に……その芽を摘み取るのだ!」
 また別の国では盲目の女が
「この星は改革の星でございます」
 と告げた。
「大きな、とても強い力を持つ星です。従来の勢力図をひっくり返しかねないほどに」
 それを聞いた王は声を震わせ、問うた。
「その星があれば小さな我が国も列国の一員と肩を並べることができようか?」
 女は迷ったが、言葉を選び控えめにいった
「もしも、の話でございますが……列国の指導者となることさえ夢ではないかと……」
 王は歓喜した。
「何としてもその星を手に入れるのだ! 急ぎその星の場所を占え!」
 だが、どの国でも占い師は同じ事をいった。
 誰もこの星の場所は占えない、と。

 ある場所で。
 そこは王宮の一室と呼んでも不思議はないくらい豪奢な部屋だった。占い師が王の前に進み出てきたのではない。この部屋の主が占い師だった。
「星が落ちたわ」
 小さな女の子は愛らしい声でそう告げた。この子が占い師である。
 年の頃は六つ、七つほど。波打つ髪は淡い蜂蜜色。大きな吊り目がちの瞳は藤色。額飾りとして垂らされた紫水晶が揺れて本物の瞳のようにきらりと光った。
「大きな星。でもあの星は、自分はとても小さなものだって思ってる」
 女の子は一介の占い師にしては随分ぞんざいな口を利いた。が、彼女の占いを聞く若い男はそれを気にする様子もない。男は色の薄い瞳を細めて先を促した。
「……あのね、世界中の人たちがこれからあの星を探すの。でも誰もあの星だ、って気付かない。星が誰なのか見えないんだもの」
「お前でも?」
 くっくっく、とからかうような笑い方。女の子ははっきりと気分を害したというような顔をした。が、すぐに真摯な表情に戻る。
「駄目なの。……何かが邪魔してる。あの星を守るように」
 男は初めてその顔から笑みを消した。
「ねぇ、キドラ。今のあの星は何にもできないわ。お空に帰りたいと思ってる。でも皆があの星を追いかけていじめるの。キドラも、いじめる?」
 キドラと呼ばれた若い男は苦笑した。女の子の顔を覗き込んで微笑む。それは経験を重ねたものにはかなり含みのある笑みだったが、彼女は気付かない。
「私はその星に会ってみたいだけだよ」
 女の子は頷いた。それでもまだ彼女の表情は固い。
「大丈夫。キドラはあの星と巡り会う。でもあまり良くない出会い方をするわ」
 キドラは銀髪を通り越した白髪をかき上げた。薄い水色の瞳が物騒な輝きを帯びる。が、すぐにその気配を消し、微笑みの仮面の下に押しやった。
 女の子の脇の下に手をやって抱き上げた。薄布で作られた衣装は羽根のように軽い。
「私の小さなお姫様にして世界一の占い師。お前が側に付いていれば私には何も怖いことなどないのだよ」
 女の子は、きゃあ、と喜びの声を上げた。
 実は彼女は「見えた」全ての事象を彼に語ったわけではなかった。小さな占い師はキドラが立ち去った後、そっとつぶやいた。
「私は多分、あの星と深く関わることになる……そんな気がする……」

 深い闇で覆われた空間で。
 足下には黒硝子(くろガラス)を磨いて敷き詰めた床が燐光を映して深く暗い空間に彩りを添えていた。燐光の正体は青白い蝶だった。自然界の蝶ではない。
 その床に跪き頭を垂れている男がいた。彼の白い髪が闇に映えていた。
 彼が跪いている先には御簾が下ろされている一段高い場所があった。その御簾の裏に彼は望む人の気配を察し、うやうやしく口上を述べた。
「偉大なる闇の女王にして我が唯一の主(あるじ)よ、ご息災のようでなにより……」
 その口上を御簾の裏の主がやめさせた。
「キドラ、あの子供はなんといったの?」
 鈴を転がしたような、と形容されてもいい高く澄んだ声だった。
「星、でございますか。……敵対するようなことを」
「あら」
 大人の可愛らしさを持った声である。おかしくて笑いそうな響きを含んでいた。
「お星様は妖魔の味方はしてはくれないということかしらね?」
 とうとう我慢できなくなったのか笑った。
「キドラ。私がいいというまでその星に手出ししては駄目よ」
「どこにあるか分からぬものに手出しは出来ません」
「分かっても手出しするなといっているの」
 口調はどこまでも粘質的だ。まとわりつくような蠱惑的な響きを持っている。男に生まれついた者がその声に抗うのは難しかった。
「キドラ、お前。あの星が何であるか分かるかしら?」
「……」
 キドラにはただ大きな星としか分からなかったので沈黙していた。
「あれは私が待ち望んでいたもの、よ」
 だから手出しするな。
 言外に再び命じられ、キドラは更に深く頭を垂れた。
 御簾の裏で妖魔の女王は立ち上がる。そして、恋人でも思うような陶酔した声で、歌うように囁いた。
 おいで、早く私のところまでおいで。早く早く、早く……。

 とある石造りの祭壇で。
 四人の巫女が手を繋いで水盤を囲んでいた。水盤にはなみなみと水が張ってある。巫女は皆、背格好がよく似ていた。全員同じ服を纏い顔の隠れるベールを目深に被っていた。
「水よ……星の姿を映したまえ……」
 水が揺らめいた。
 水盤の中央から波紋が拡がった。だがいつまでたっても水面は落ち着かなかった。水の動きはさらに激しくなる。生き物であれば怯えて震えているような動き方だった。
「静まれ……静まりなさい……水の精霊よ……」
 水の中に緑の光が浮かんだ。だが実像を結ぶほどには水面が落ち着かない。
「もう少し……。皆さん、力を合わせて……」
 水盤は音をさせて上下し始め、更に水を揺らす。次の瞬間、大きな音を立てて割れた。
 水は四散し、巫女達を襲った。彼女たちは悲鳴を上げて我が身をかばう。繋いでいた手は離された。そして四人の巫女の手が離れた時に水は力を失って自然界にあるただの水に戻った。巫女達は皆、頭から水を被り濡れ鼠となった。
「あの光は何であったのでしょうか……」
「水盤が割れるなど……恐ろしいこと。凶星ではありませんでしょうか」
「我らにとっては良くないものであることは間違いないようですね……」
 怯え、海鳴りのようにさざめく他の巫女達の声を聞き、最後の巫女が口を開いた。
「皆さん……今ので多少、性質が分かるような気がいたしませんこと?」
「姫巫女?」
 どうやら最後の巫女はそれなりに地位のある女性であるようだった。
 ベールに隠され読めない表情で姫巫女は言い切った。
「あれは異端の星ですわ。我らは自然の円環に加わらぬものを嫌います。あれは……この『世界』のものではないような気がしますの……」
「……!」
 三人の巫女は息を呑んだ。姫巫女は自分の憶測が当を得ているはずだと信じて疑わなかった。だが、なぜ異端の星を「世界」が受け入れ、存在を隠そうとしているのか、それがどうしても分からなかった。

 世界中の精霊達はその日、落ち着かなかった。
 異物が混じったような、それでいて懐かしいような、矛盾する感覚を抱えていた。正体が分からぬので故郷の人間達に問うた。精霊達はかつてはこの世界全てが故郷だったのに、今では小さな人間の国だけが故郷と呼べる場所になった。
 人間達も事情は何も知らなかった。ただ精霊達には何も心配するなと繰り返すだけである。力のある精霊は長(おさ)に目通りを求めた。
 精霊達の長は人間だった。遠い昔にそう決まった。人間だから、精霊達にとってはあんまり好きではない者が長になることもたまにある。だが今上の長は他のどの人間よりも精霊達にとっては愛おしかった。
「心配いらないよ。皆にもそう伝えておくれ」
 長は精霊達をあやすように、他の人間と同じ事を言った。けれど違うのは彼が嘘を付いていないということだった。長は本当に心配してはいなかった。むしろ、心なしか嬉しそうにいった。風の精霊は長の言葉を広く伝え水の精霊たちもそれに倣(なら)う。そして大地の精霊たちは風や水の伝える言葉を染み渡らせた。大地の下に点在する炎の精霊にも伝わるように。
「本当に心配ないんですか?」
 側に仕えている大地の精霊がおそるおそる長に聞いた。
「もちろんだよ」
「そりゃ、長らくお側におりますから王が嘘を付いていないことは分かりますが……その根拠は何です? この訳の分からない感覚は、予言の星が落ちたせいなんでしょう?」
「……暦が同じならちょうど今日で十六になったはずだからね」
「は?」
 精霊の長にして「最後の聖域」の王は昔を懐かしみ、異世界の妻を想いながら微笑んだ。
「星は、私の娘だよ」
 哀れなり、忠実なる大地の精霊は長の言葉に石になった。

 星を探せ。
 滅びの星を、殺せ。
 改革の星を、手に入れろ。
 異端の星を、はじき出せ。

 精霊と妖魔と人間が均衡を保つこの「世界」。
 混乱の火種は落とされた。


+感想フォームを利用してくれる?+(作者が喜びます)
[<<前]
[次>>>]
[目次]
翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada.