−序−終了4.
「ありがとう」
「ホウ?」
「生んでくれて、ありがとう……」
「……うん」
感謝の言葉。それだけで生むときの苦労が一度にどこかにいってしまった。サラの目からも涙がこぼれそうだった。
「どっちなのだ、男か、女か? この子の名前は?」
と、聞かれてサラは我に返る。
「そういや、まだ名前を決めてなかった」
「……サラ……」
「無茶いうな。産み立てなんだぞ。名付けるヒマなんか……」
「今日、生まれたのか」
「ああ。女の子だ。……そうだ。お前が名前をつけてやってくれないか?」
「わ、私が?」
「そりゃ、そっちの世界の名前をそのまま付けるわけにはいかないかもしれないが、お前の子供なんだからそっちの世界の名前がいるだろう」
ホウはまじまじと手元の赤ん坊を見つめる。
「……瞳の色はどっちに似ただろうか」
「私はお前に似たと思うんだけどなぁ?」
しばらくホウは子供を見つめていたが、やがて妙案が浮かんだのか柔らかな微笑みを浮かべた。
「ヒスイ。……翡翠と名付けよう」
赤ん坊がふにゃっと笑った。サラは母親になり、ホウは父親になった。他人だった二人は子供を挟んで家族になった。しばらく二人はそのまま子供を見つめていた。自分たちを繋いだ小さな命を。
二人の頭の中に声が聞こえたのはその時だ。
……時間がない、急いで……
「銀の天使の声だ」
「あれが?」
サラは彼女の声を聞いたことは一度もない。とたんに、暴風が空間に吹き荒れた。
「うわっ。なんだ? 何なんだ?」
「サラ!」
子供がサラの手に押しつけられる。風は二人の間でより強く吹いた。ホウを向こう側へ、サラをその反対側へと押し戻していっているようだった。
「サラ……これを……」
ホウは服の隠しから金色の何かを取り出した。激しい風から子供を守るように抱えていたサラの手首にホウはそれをはめる。金属音が鳴った。
「いつかあなたに会える日があるなら渡そうと思っていた。それは私の妃に贈るための品。あなたのものだ。例え双方の神々が許さなくても、私の妻はあなただけだ!」
「ホウ!」
吹き荒れる風が更に強くホウに襲いかかる。サラは、ごめん、と子供に詫びながら片手で支え、左手から指輪を外して投げた。
「ホウ、これを。こっちの世界で左手の薬指にある指輪は既婚者の証だ。サイズ直しはそっちで勝手にやってくれ!」
小さな銀色の指輪はなんと暴風にも負けずホウの手に届いた。それをホウが苦もなく左手の薬指にはめるのを見て、サイズは一緒かと思わず舌打ちをもらした。風はどんどんホウを押しやる。それに紛れて気付かなかったが足下の地面までが急速に遠ざかっていた。二つの世界が離れていっているのだと理解せざるを得なかった。
何度も何度も名前を呼んだ。そうして、闇が互いの目から最愛の人を隠しきるまで二人は名前を呼び続けた。*
朝の光で目を醒ます。そこは病室のベッドの上だった。新生児室からの赤ん坊の泣き声がここまで聞こえてきた。連鎖反応で赤ん坊達は次から次へ泣いている。
朝の光がこんなに眩しく感じたことはなかった。
「また……夢……」
サラにしては珍しく、のろのろと体を起こす。
涼やかな金属音がした。
緩慢な動作で左手を見ると、そこにプラチナの指輪はなく、代わりに金の台に赤い石と真珠を散りばめた腕輪があった。例え双方の神々が許さなくても、私の夫(つま)はあなただけ……。
***
天井の瓦解した石造りの廃屋は斜めに射し込んだ朝の光によって白く輝いていた。
あたりは清浄な空気に満ちていた。そこが神殿であった頃の名残のように。
そのさらに奥、祭壇のあったであろう場所に、二人の少女が跪き祈りを捧げていた。
全く同じ顔をした二人の少女は、ただ髪の色だけが異なっていた。金と銀。だがそれがさらに二人を一対に見せていた。
二人は熱心に何を祈っているのだろうか。
この時点で、それは誰も知らなかった。時は巡り……彼女たちの祈りは遠い異世界にて産声を上げた。
翡翠と名付けられたその子供は、今はまだ何も知らず健やかな寝息を立てていた……。