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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第五節第三項(020)

 3.

「子供が出来た。生む。相手はいない。それでどうやって育てて行くつもりだ。この際、未婚で生んでしまったことは目を瞑る」
「どうしてわざわざ目を瞑ってもらわなきゃならん!」
「お前の親だからだ! いいか、母さんもそうだった。記憶もない、右も左も分からない、一人で生活していける人でもなかったが子供だけは産むと言い張った。あの可憐な人がだ。だから、お前が同じ事をしても母さんなら責められんだろう」
 父の目は現実を映さず、うっとりと昔を見ていた。
「……さんざん生むのに反対したくせに、今頃それを持ち出してくるか」
「最後まで聞け!」
 だが聞く前にサラが反論する。
「そういう父さんはどうなんだ? それこそ記憶もない、右も左も分からない、一人で生活していける人でもないくせに子供だけは産むと言い張った女にベタ惚れして戸籍まで偽造して結婚したのは、一体どこの誰だというんだ?」
 今度は父の旗色が悪くなる番だった。
「……か、母さんはちゃんと父さんと結婚したからいいんだっ!」
「つまり? 母と同じ真似して子連れで結婚しろと? 娘を残して死ぬところまで似たらどうしてくれるんだ。責任を取るといわれても嫌だからな」
 父は言葉に詰まる。
 サラの目は厳しい。
「誰でもいいから結婚しろというなら自分こそ再婚してからいってもらいたいな。私の夫は娘をくれた男だけだ。ついでに、私は母ほど弱い女のつもりもない。育ててみせるさ。大事な人が残してくれた命だからな」
 と、父親を病室から追い出した。
 大事な人が残してくれた命。それは父自身も体験したことだ。妻に死なれ、血の繋がらない幼子を抱え、それでもその子供を手放せなかった。彼はすごすごと病室を後にした。

   *

 父親を追い出してからサラは一眠りした。
 夢を見た。久々に銀の天使が現れた。驚いた拍子にサラは目を醒ます。
「なんだ、ただの……夢」
 ……びっしょりと汗をかいていた。深呼吸をして、どうやら本当にただの夢だったらしいと自身を納得させた。
 時はすでに夜になっていた。手元も見えないくらい暗い。
「?」
 目の前に広がるのは闇だった。病室内を見渡すこともできない。非常灯くらいついていそうなものなのに、辺りは闇に飲み込まれたように真っ暗だった。こんなことは異常だ。
 その闇の中に子猫のような鳴き声が木霊した。
「娘?」
 子供を生んだばかりの母親が、その声に我が子の泣き声を連想しても誰も不思議には思わないだろう。ぐるりと周囲を見回す。一ヶ所だけぽつんと明かりが灯った。
 泣き声は間違いなく明かりの方向から聞こえる。明かりは、元の病院内でいう新生児室のある場所だった。
「娘!」
 サラはまだ体調の戻っていない体でベッドから下りる。よたよたと不安定な足取りながら一直線にその光に向かって走った。本来なら病室を隔てる壁が何重もあるはずなのに今は何の障害もなく最短ルートをとることが出来た。サラが離れてすぐにベッドは闇に飲み込まれて消える。
 明かりに照らされて泣いていたのは、やはりというべきか、サラの娘であった。サラは目を細めて壊さないようにそっと娘を抱き上げる。赤ん坊は抱き寄せられると泣きやんだ。
 産んだ直後は血と体液とに濡れ薄い膜に包まれて泣いていた子供が、今は随分はっきりした顔立ちになっている。しわくちゃだろうが赤ら顔だろうが目元がぼこっと膨らんでいようが、可愛いと思えるのは親の特権である。
「お前が呼んだのか? ん?」
 子供は返事をするようにふにゃっと笑った。新生児微笑。心から笑ったわけではなく単なる顔面筋肉の反射運動だと分かっていても嬉しい。初めて親になった女はみな例外なく思うというが、本当にこれがさっきまで自分の中に入っていたとはなんだか信じられないような話である。
 サラが子供を抱きしめ頬ずりしている目の前で今度はベビーベッドが闇の中に飲まれていった。いよいよ、何かがおかしい。
 自分のガウンで娘をくるみ胸にしっかりと抱きしめる。足下がしっかりしている以外は右も左も闇ばかり。何が起こっているのか分からなかったが、この風景には覚えがあった。あの時と違うのは銀の天使がいないことだ。
 まさか、と期待してしまう。
 闇の中で誰かが呼んだ。その声に心臓が大きく跳ね上がった。

 白い点が闇に浮かんだ。
 あれは裾を翻すゆったりした長衣。だんだんと近づいてくる。辺りの闇に溶け込むような夜の色した髪も見えてくる。
 この二五〇と数日の間、二度と会えないと覚悟していた人。
「サラ!」
 忘れたことのなかった声。近づいてくる白い影に向かって今まで誰の前でも口にしなかった名前を呼ぶ。
「ホウ!」
 こっちも駆け寄りたかったが、まだ上手く走れなかった。なにしろ狭い産道から腕に抱いている三キロ未満の固まりを体外に出して間もないのだ。足の間がまだ痛む。
 そして。
 喜びに目を輝かせているサラを前にしてホウも立ち止まった。
 再会の喜びを称えていた目は今やっとサラ以外のものを捉えたらしい。サラの手の内にある小さな命を、目を丸くして見つめた。立ちつくしているといった方がいいのか。
 その表情を見て、さてどうしようかな、と苦笑いをしながら
「あの時の子供だよ」
 と、伝えた。
「こども……?」
 オウム返しのように声を発して数秒たってから口元を押さえた。下から上へ、血が上って段々と赤くなっていく。目は子供から離していない。
「……その……」
「先にいっておくが誰の子かなんて聞いたらぶん殴る」
「……いや、それはさすがにいわない……」
 首を横に振った。頭の中を整理するまでに時間を必要としているのが手に取るように分かる。
「あの時の……」
 ホウの声は上擦り、かすれていた。涙声になっている。
「嬉しい?」
 サラは自身が嬉しくなってそう訊ねた。実のところ否定されたらどうしようとの不安がよぎる日もあった。だが、目の前のホウは予期せぬ嬉しさゆえの驚きが顔いっぱいに広がっていたので安心したのだ。目に見えているものを更に確かにするために言葉にして欲しかった。
 ホウは返事の代わりに首を縦に振った。充分だ。
「抱いてやって」
「え」
 疑問でもない、反射的に口から出たといった声だった。
「ほら、お父さんだぞ」
 サラは子供にそう語りかけて、そっとホウに手渡す。自分の台詞が少し気恥ずかしかった。サラはお腹で育てていた時から「お母さん」となっていったがホウはいきなり「お父さん」にされてしまったのである。戸惑いはサラより大きいだろう。生んだばかりで首のすわらない赤ん坊を、頭を支えるようにして抱かせた。意外に上手く抱く。彼の大きな手の中で赤ん坊はひどく小さく見えた。
「私の、子供」
 ホウの目に涙がにじんだ。


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翡翠抄 −ひすいしょう−
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