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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第五節第二項(019)

 2.

 その夜、イブニングドレス姿の妊婦が産気づいて病院に運び込まれた。

 ちょうどその日、サラの友人の結婚式があった。新郎新婦共に友人ということもあって彼女はその二次会にだけ出席したのだ。友人を集めた内輪の集まりだが、夜の席、おまけに付き合いの層も金持ち関連ばかりとあって参列者の様相は実に華やかであった。特に女性達のイブニングドレスの渦は少々過度とも思えるほどに。
 サラは特注であつらえたマタニティのイブニングドレスで出席したのである。色は黒に近い紫、生地はビロード、胸元にドレープを集中させたデザインで腹を目立たなくし、手には白い正絹の長手袋。首にはドレスに合わせた色のアメジストを金で繋いだネックレス、耳にはそろいの大粒のイヤリング。明るい色の黄金の髪は高く結い上げられ、毛先だけをカールさせた一房が片側だけに垂らされていた。たいした美女ぶりの妊婦である。
 足下はヒールの高いミュールだったので女性陣は思わず青くなった。
 妊娠後期は大きなお腹で足下が全く見えない。だから、踵の高い靴などという足下が不安定きわまりない代物を履くといつ転ぶか分からない。転ぶとお腹の子供に差し支えるのは明白だ。
 周囲の人間が青くなるのもなんのその、サラはにこやかに新郎新婦に祝いを述べ、食べる物を食べ、あとは他の友人達と談笑した。またしても話題が彼女の妊娠とお腹の子の父親に集まったのは仕方ない。
 そこまではよかった。
 宴もたけなわ。やれ三次会に突入かと思われるときにサラは帰るといった。そして車でやってきた友人を捕まえると
「すまんが病院に連れていってもらえないだろうか。さっきから等間隔でお腹が張ってきてるんだ」
 とのたもうた。真っ青になったのは車の持ち主の彼である。

   *

 それから二日後、サラは無事、約二八〇〇グラムの女児を出産した。

「おめでとうございます、お嬢さん」
 お嬢さん、とサラを呼んだのは付き添いの中年の婦人だった。生んだ直後は体力を消耗し性も根も尽き果てていたが病院食を平らげた後はどうやら回復したらしい。元気な声で応える。
「もう赤ん坊は見たか?」
「ええ、お嬢さんによく似た女の子ですね」
 にっこりと婦人はほほえみ、サラは苦笑し、側では駆けつけてきたサラの友人が納得のいかない顔をしていた。彼女は産気づく前にサラの家を訪ねてきた、あの友人である。サラは友人の顔をきょとんと見上げた。
「なんて顔をしてるんだ?」
「……ごめんなさい、私ったらおめでとうもいわないで。あの、赤ちゃん見たわ。可愛い、黒髪の赤ちゃんね。……サラの近くで黒髪の人って知らないから、ちょっと驚いちゃって……」
「それは父親に似たんだ。お前達の知らない人だって何度もいったろう? 目の色も父親に似るといいな。綺麗な緑だったから」
「本当に処女受胎じゃなかったのね」
 さらりととんでもないことをいう。
「おい。……あの馬鹿らしい噂を鵜呑みにしたのか?」
「あんたなら自己分裂もありうると思って」
 真顔でいった彼女であった。どう言い返そうかと渋い顔で友人とにらめっこを始めるサラに、横から婦人があわてていった。
「お嬢さんの紫の瞳に似ても綺麗ですよ。大きくなったらきっとお嬢さんに似た美人さんになりますわ」
 にこにこと側で笑う婦人はサラの父親の秘書である。自身も二人の子供の母親でサラの父が忙しくて顔を出せない代わりにずっと付き添ってくれた。
「すまないな、仕事の範疇外だろうに」
「いいえ、遠慮なさる必要はありません。社長もすぐに参りますよ」
「来るのか? いつ連絡した?」
「お嬢さんが分娩待機室に入ってすぐです。連絡しましたら、生むまで時間がかかるから生まれたら知らせろとおっしゃいました」
「くそ親父が……」
 実際、陣痛が始まってから二日もかかったのだから父親のいう言葉は事実であったわけだ。さらには分娩室に入ってから四時間かかった。待機していた間に秘書に着替えを頼んで、今はゆったりした白いネグリジェを着て上からガウンを羽織っている。
 友人はそっとサラの手を取った。
「頑張ってね、サラ。これからが大変よ」
 最近ようやく世間から認められつつあるといっても未婚の母は既婚者に比べると迫害を受けることが圧倒的に多い。これから立ちはだかる苦労が目に見えるようで彼女はそう言葉をかけたのだが、サラは、手を強く握り返し、にっこりとバラの花のように艶(あで)やかに微笑み返した。
「ベビーシッターくらいはやってくれるのだろう?」
 にっこり、と。
 繰り返すが、それは、実に、華やかな微笑みで。
 側で見ていた秘書は美しい友情に涙腺がゆるみそうになりながら笑っていたが当の友人は口の中で小さく「悪魔の微笑み」と呟き、一歩後ろに下がった。もちろんサラは自分が彼女にとってどう見えているかなど承知の上だ。バラの花のごとき微笑みの後ろに三角に尖った黒い尻尾が見えていたこと等とてもよく自覚していた。それどころか説明の手間が省けて助かるとさえ考えていた。
「産休の半年、私が大人しく靴下でも編んでいたとでも思ったか? 育児と仕事の両立が大変なことくらい調べてあるさ。おまけに私には育児を代わりに請け負ってくれる母も夫も親戚もいないと来た。そういやお前、数日前に面白いことをいってたっけな? 態度は横柄、傍若無人、口を開けば悪口雑言、そんな私の友人なんかを進んでやってる変人を、今すぐ信用させてもらおうじゃないか。今、すぐに。もちろん自分でいった手前、断るなんていわないよな? 言動には責任を持たないとなぁ?」
 白バラの微笑みはだんだん棘を露わにしてくる。
 じりっ、と友人が後ずさるのをサラは逃がさなかった。

 さて、ちょうどそこで、ばたばたと病室に向かって駆けてくる足音が近づいて来ていた。
「生まれたか!」
 飛び込んできたのはサラの父である。
 彼の登場と同時に友人はサラの手を振りきって、挨拶もそこそこに立ち去っていった。
「お嬢さん、それじゃ、私も」
 秘書は秘書で気を利かしてくれているつもりである。忙しい主婦をこれ以上拘束もしていられない。サラと父は彼女に礼をいって帰ってもらった。
「もう少しでいいベビーシッターが手に入ったのに、厄介な所で邪魔してくれる」
 と父親をねめつけた。
「……何?」
「冗談だ」
 といっても友人達に子育てを任せようと考えているのは本気であるが。
 サラが未婚で身籠もってから父の態度はぎこちない。顔を合わせれば怒っていたが、やがて腹が膨らんでいくにつれ無口になった。今も、いつまで待っても父親が口を開かないのを見かねてサラから声を掛ける。
「何の用?」
 父親が父親なら娘も娘だ。つい、こっちの態度もそっけなくなる。
「お前、娘が子供を生んだんだぞ。親が駆けつけてきて何が悪い」
「子供なら新生児室。顔はどうやら私に似ているらしいが、髪の色は旦那に似たようだ」
 わざと相手の男を仄めかす言い方をする。みるみるうちに父親の態度が硬化していった。
「……相手の男は来たのか」
「来てない」
 来られるわけがない。知らせることさえできなかったのだから。せめて生まれたことだけでも教えてやりたかった。喜ぶだろうか、戸惑うだろうか。拒否だけはして欲しくないと願うばかりだ。
 ぼんやりと愛しい人を思い出し、心が飛んでいったサラを父親は現実に引き戻した。
「そんな何処の誰とも明らかに出来ない薄情者にもてあそばれおって……!」
「だから。不倫でも遊びでもないっていってるだろうが。誰に説明しても分かってもらえないような事情があるんだ、こっちには!」
「どうして分かってもらえないと頭から決めつけるんだ!」
「私なら聞いただけでは信じないからだ!」
 この手の言い合いが何度繰り返されてきたことだろう。サラはこっそり、左手を隠した。実は結婚式の二次会に自分で買ったプラチナの指輪を左手の薬指にはめていったのだ。半分は余興であるが半分は願望である。友人達はサラが未婚であることを知っているから余興だと思ってくれるが父親はおそらく直感的に後者の意味でとるだろう。こんなことならさっさと外しておくんだったと後悔した。
 父は父で、子供に戻ったかのようにごねていた。
「……もういいっ。生まれてしまったものは仕方ない。仕方ないから、子供ぐるみで愛してくれる相手を見つけてさっさと結婚しろ!」
「はぁ?」
 つまりそれは。だれでもいいから結婚しろといっているわけで。
「冗談じゃない!」


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Copyright (C) Chigaya Towada.