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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第五節第一項(018)

 出産

 1.

 電話の音が鳴り響く。
 サラが受話器を取り上げると懐かしい友人の声がしたので、彼女は素直に返答した。
「やあ。久しぶりだな。生きてたか?」
 まあね。そっちこそ元気かい、サラ?
「ああ、母子ともにな」
 ……母子、ね。……君が母親になるなんて、友人達の間じゃ今年一番のニュースだよ。
「ああ、それは会社でもいわれた」
 だろうねぇ……。俺は聞いたとき、にわかに信じられなかった。
「なんだ、もしかして今頃知ったのか?」
 無茶いうなよ。こっちはブラジルの奥地で仕事してるんだぜ。リオに着いて君の噂を聞いて、早々に電話したってのに。
「リオデジャネイロがどうした。産休を取った瞬間、パークタウンからすっとんできた友人もいるぞ」
 ……確かに。ブラジルより南アフリカの方が遠いわな。
「まあ、生まれたらこっちから知らせるさ。そう遠い日じゃない、なにしろもう九ヶ月だからな。いつ生まれてもおかしくないと医者にはいわれた」
 九ヶ月! じゃ、何か? 君の腹は今、風船のように膨れ上がっているわけか!
「風船? 冗談じゃない。石でも詰めたように重いぞ。腰痛はひどいし、足はむくむし、大きな声じゃいえないが便秘も……」
 わ、分かった、もういい。君、本当に子供、生むんだなぁ。……ところでさ。こっちじゃ色んな噂が飛び交ってるんだけど、処女受胎って本当?
「……何だって?」
 だって告知天使、見たんだろ?
「どこからそんな話になったんだ。確かに天使は見たが、それは夢の中の話! それに告知したのは妊娠検査薬だ!」
 ダイレクトだなぁ。そういう話は男の前では控えて欲しいよ。……サラ、こんな話、知ってる? 君のお父上はどうしても君の相手が知りたくて興信所に依頼したんだってさ。なのに彼らはどうしても君の子の父親を捜し当てることが出来なかったときた。処女受胎の噂も仕方ないと思うよ。なあ、相手は一体どこのどいつだい? 我らの女王陛下をかっさらっていった、その幸せな男は?
「さてね。他に用がないなら切るぞ」
 あっ、ちょっと、サラ。サ……

 回線の切れる音。有言実行したサラだった。

「世の中、馬鹿が多すぎる」
 サラは受話器を下ろした電話をしみじみと見つめた。大きな腹を抱え、そのままソファへ腰を落とした。腰を下ろしたというより高い位置から落としたという様子である。その勢いでソファがきしむのが日常茶飯事となりつつあった。なにしろ腹が重いのだ。中身は三キロくらいの重さがある筈だ。いつもの衝撃に思わず息を吐く。
「あんたの妊娠はそれだけ衝撃的だったのよ」
 サラの目の前で女友達がコーヒーをすすっていた。
 産休を取って実家に引っ込んでから、家には常に誰か来客があった。その客の中でサラの子供の父親について聞かなかった人間は一人もいない。よくもまあ全員揃って同じ事ばかり繰り返すもんだとサラとしては苦笑するしかなかった。
「だから。一緒にはなれなかった、子供が出来ていた、だから一人で生む。その三段論法の他に説明する事なんて何もないのに、何がそんなに問題なんだ」
「その相手の男こそが問題なのよっ!」
 空っぽのコーヒーカップが勢いよく下ろされ、ソーサーとの間で悲鳴を上げた。相手の形相にサラの方が吃驚(びっくり)する。
「……いっておきますけれどね。私たち友人一同ほどよく、あんたの周りに男がいなかった事を知る人間はいないのよ。傍目には男友達は多くて、その中の誰かと……って想像されても仕方ないかもしれないわ。でもね、ぜえったい、そんな事はありえないのよっ!」
 その評価は正しい、とサラは思わず頷いていた。
 男女問わず友人は多かったが恋人は一人もいなかった。男友達が口を揃えていうには、サラにはどうしても性欲というものが湧(わ)かないのだそうだ。単にサラが女であるという事実だけしか見えていない馬鹿がいくら言い寄っても彼女の首を縦に振らせることなどありえないということも友人達はよく知っていた。
 その友人の一人がこんなことをいった。「いくら美人で頭が良くて尊敬できる対象だとしても僕は男や幼児には性欲を覚えない。それと同じにしては失礼かも知れないが何故かサラに対する感情もそれに近い。もし彼女を一介の女性に還元できるような、そんな男がいたら是非見てみたいよ」と。どうやらこの意見は友人一同を代表していたようで、サラに……友人達の言葉を借りるなら、あの、サラに、妊娠・出産などという離れ業を可能にさせた相手とやらを一目見ずにはいられるか、というのが彼らの言い分だった。
「お前達の知らない人間だ、ともいってあるだろう?」
「私がいってるのはね、水臭いってことなの! どうして教えてくれなかったのよ。態度は横柄、傍若無人、口を開けば悪口雑言。そんなあんたの友人なんかを進んでやってる変人を少しは信用したらどうなのって話!」
「自分を変人に貶(おとし)めることはなかろうに」
「いいえ、充分よっ」
 サラはやれやれと大きく溜め息をつくしかなかった。

 十日間の謹慎から数えて約一ヶ月半後、妊娠検査薬は陽性を示し産婦人科に検診に行った。三ヶ月目に入った所だといわれた。
 それからしばらく隠して働き続ける予定だったが職場には出産経験のあるご婦人方が当然ながら何人もいたのである。彼女らに敢えなく看破され事はあっという間に露見した。妊娠どころか浮いた話すら聞いたことのなかった周囲の者達は皆一様に驚愕した。それでもサラはせっせと仕事を続け、そのうちにお腹は膨らみ、妊娠五ヶ月目を迎えた頃、心臓に悪くなった上司が自己申告する前に産休を取らせてくれた。現実問題としてマタニティドレスで営業に回るわけにもいかなかったのでありがたく休ませてもらった。妊娠が発覚してから現在まで取引先や友人達の質問責めの電話、FAX、メールなどが途絶えたことがない。来客についても前述したとおりである。

「大体どうして毎度毎度、みんな妊娠に気付くのって三ヶ月なのよ? 一ヶ月目と二ヶ月目に気付かないものなのかしら」
「それは無理だな。……もっとも私も今回初めて知ったわけだが……私が妊娠検査薬を使ったのは心当たりから一ヶ月半後だっていったよな? その時、どうしてもう三ヶ月だと言われたと思う?」
「え? あら?」
「妊娠した日じゃなくて、最終月経から数えるんだそうだ。つまり妊娠した時点で計算は既に妊娠二週目となる」
「……はい?」
 きょとんとした友人を前に、サラは淡々と妊娠のレクチャーを続けた。
「最後の月経があって約二週間後に次の排卵がある。実はこれがまちまちで統計では月経一週間前……いいか、前、だ。その辺りが俗に言う危険日。だから予想しにくいし、ずれこむこともある。月経がきっちり二十八日周期で来る人の場合、妊娠四週目にそろそろ来るな、と予想し、五週目あたりで来るべき筈のものが来ない、と思うわけだ」
 友人はクエスチョンマークをたっぷり背負い込んだ顔になって、それでも茶々も入れず聞く。サラはというと疲れてきたのかソファに長々と寝そべり、枕代わりにクッションを抱え込んで体勢を整えた。
「ところで妊娠は通常の暦と違い四週間で一ヶ月、四週目から妊娠二ヶ月と数える。遅れてるかも、と思っているときは既に妊娠五週目。でも通常一週間くらい様子を見るだろう? 遅れてるんじゃなくて本格的におかしいと思うときにはもう七週目か八週目だ。八週目からは妊娠三ヶ月。これを一般の太陽暦に照らし合わせると、ちょうど心当たりから……」
「一ヶ月半後、ってことね」
「そう。いくらなんでも二月続けて来ないのはおかしいと思って病院に行くケースでも妊娠三ヶ月だ。これが生理不順であってみろ。つわりが来てようやく病院だ。このサイクル覚えておけよ。相手の男に『出来ちゃったわ、三ヶ月よ』と告げた瞬間、『計算が合わないから自分の子じゃない』と逃げられるぞ」
 あまり心からとは思えない笑みを浮かべてサラはだるそうに手を振った。
「……サラも逃げられたの……?」
 意外な言葉が返ってくる。
 サラは起きあがって座り直した。
「いいや。と、いうより、知らせることも出来なかった」
 あれから何度銀の天使に恨み言をいったか知れない。……多分、もう二度と会えない。

 母親の心理を敏感に察知したのか、腹の中の子供がきゅうっと小さく縮こまった。

「おや。娘を怯えさせてしまったな」
「あら、女の子なの?」
「そうなんだ。女の子は男親に似るというから今から楽しみなんだ」
「……そうねぇ。お父さんに似てくれれば私たちもちょっとは相手の人を想像できるのにねぇ」
 彼女の溜め息を余所に、サラは弾む声で
「父親に似たら美人になるぞ。体重もそんなに増えずにきたし、妊娠中毒症の心配も今のところないし、もういつ生んでも大丈夫だ」
 と、いって腹をさすった。

   *

 サラが産気づいたのはその夜のことだった。


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