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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第四節第五項(017)

 5.

 翌日、サラは軽い熱を出した。
 下腹部に痛みはなかった。夢の中では確かにあったものがないことにサラは一抹の不安を感じる。やはりあれは夢なのだという意識を強くした。……夢でもいいからあの長い黒髪の主に会いたかった。
 夜になるとまた夢に銀の天使が現れて、かすかに微笑んでホウの元に送り出してくれた。そして二人は抱きしめあってキスをした。
 今まで以上に時間が惜しまれた。時間が限られていることをサラも薄々気付いていた。あと一日を終えればホウは王様業に復職しサラも満足に眠れないくらい忙しい日々が始まるだろう。もし、まだ夢で会えるとしても相当の疲労を抱えている。夢など見る間もなくぐっすりと眠りたいとも思う。まして眠る前に十分なシャワーと手入れと化粧の時間を作るなど不可能だ。女にとってこれは重大な問題である。
 出会えたことだけでも奇跡。
 そう納得させた。

「太陽と、月?」
 昨日の夜、起こったことをサラはホウから聞かされた。
「そう。心当たりは?」
「太陽と月に心当たりはないが……うちの母が銀髪だったらしい。私はどうやら母親似らしいからな。最初に会ったときは母かと思ったのだが」
「あなたの母上? ……いいや、あれは母親が娘を見るような目ではなかった。銀の天使はあなたを差して『その人』と呼んだのだ。娘なら彼女は『その子』と呼ぶはずだ」
「……ああ。私も正直言って、あれは母というよりは妹のようだと思うよ」
 眉間にしわを作って、それを人差し指で伸ばす。その手をホウが取り眉間に口づけた。彼らにはあと一日しか残されていない。必然的に二人の距離は大急ぎで縮まっていく。
 ふと思いついたように彼は彼女の顔を覗き込んだ。
「妹君はおられるか?」
「いいや。父が外で作っていればいるかもしれないが、母が生んだのは私だけだ。どうして?」
「……私の国では太陽と月は兄妹だ」
「こっちの方にも同じような神話がある。やはり兄妹だったな。確か双子の。そうすると私が兄役か?」
「……」
 ホウはサラの冗談には乗ってこなかった。真面目な表情をして何かを考えている様子である。先ほど妹といったのが気にかかっているらしい。ホウはあの銀の天使にあまりいい印象を抱いてはいないようだ。サラはといえば胡散臭いとは思うが、どちらかといえば好印象を持った。彼女は銀の天使が対応を変えていることを知らない。ホウは思いつめる性格だからこの話はあまりしない方がいいと判断し、話題を変えた。
「私とあの天使が太陽と月なら、お前は夜の精あたりかな」
 からかうように笑う。彼のこめかみに手を滑り込ませて長い黒髪を梳く。油を塗ったような艶々とした光沢があるわけではないが天鵞絨(ビロード)のような落ち着いた光沢があって栄養が行き届いている髪だ。手触りもいい。
「毎日手入れが大変だろうに。枝毛とか探さないか?」
「……サラ」
「あ、そこで大きく溜め息をつくのはどうかと思うぞ。私など髪を洗うのも時間がかかるし、濡れると重いし、乾かすのも大変だし。まあ、髪質が丈夫に出来ているのかあまり枝毛は見ないけれどな」
「それはな、一人でやっているからだ……」
「ああ、そうか。お前は侍女とかお付きとかが大勢いるんだったな。この髪の長さじゃ、それでも大変だろうに」
「あれは……怖い」
「ん?」
「何故か侍女達が皆、殺気立っているのだ。互いが互いを牽制しあっているようにも見えるし、やたら髪をいじりたがるし……ひどいときは髪をひっぱられてしまう。かといって上の者が下の者を使わなければ彼女たちは失業してしまうわけだし……」
「お前も色々大変なんだな」
 と、抱きしめて背を叩いてキスをした。笑い事にしてしまったがサラにはその侍女達の心境が分かる気がした。これだけ綺麗な男、それも王冠付きで現在奥方なしの好条件が間近に拝めるのだ。湯殿に詰める侍女達はさながら戦場に向かう女戦士といったところか。そりゃあ同僚を牽制もするし、殺気立ちもするはずだ。髪を引っこ抜くのはせめてもの心の慰めか。いや、そういう迂闊なことをするのは新人かもしれない。抜け駆けは他の侍女達からそれなりの制裁を加えられてしかるべきだから……。仮にホウの目に留まらなくてもこれだけ美形の玉の肌を拝めたなら最大級の目の保養、なおかつ触れたりなどしちゃったら……こめかみの太い血管を浮き立たせながらサラはこの場にいないホウに色目を使う女すべてを威嚇してやりたい気分だった。
「ホウ」
 爆弾投下三秒前。
「何?」
 真面目な目をして名を呼ぶサラに優しく微笑んで先を促す。
「男の浮気は許しても、女の浮気は正妻以外、許さないからな」
「サラ!?」
 爆発。
 目を剥いて青くなったり赤くなったり、酸欠の魚のように口をぱくぱくと動かすホウを少し気の毒に思いながら――元凶が自分自身であるということはこの際、無視だ――落ち着け、と無理なことをいってみる。
「何か無茶なことをいったか?」
「……サラ……」
 ホウは今にも泣きそうな声でサラの体の上に崩れ落ちた。サラの方が驚いてしまって揺すったり髪を撫でたりして落ち着いてもらうように心掛けてみる。が、口から飛び出す台詞は更にホウを混乱の渦に突き落としていることに気付かない。
「……何に驚いているのかは知らんが、男の本能を我慢したら体に悪いだろうが。他の女に寝取られるのは私が嫌なんだ。だったら本能は同性で間に合わせてもらおうかな、と。ある意味でお前でよかった。正妻まで許さんとはさすがにいわないから……」
「……サラ、頼むから、……て、くれ」
「何だって?」
「黙ってくれとお願いしている」
 サラはお願いされたとおりに口をつぐむ。脱力したホウの体は思ったよりも重くてさっきから呼吸がしづらかった。
「あなたは、どうするのだ……」
 体の上で聞こえたホウの声はまだ泣きそうな響きだった。上擦っている。
「結婚?」
「そう」
「さあ。一生しないかもな。あっちじゃ女性が独身を通してもこちらほどうるさくはない」
 冷めた目をして多少誇張した言い訳をする。サラは一応は社長令嬢なので取引先云々の馬鹿息子共がこれからうるさくなるだろうことは予想できた。そんなものはいらないと今ならいえる。
「……ここを出た後のことなど考えもしなかった。もう、名ばかりの王妃はいらない……」
 彼の言葉に、サラは自分の心の中を読まれた気がした。
 サラはホウを抱きしめた。
 ホウもサラを抱きしめた。……泣いていた。
 彼が一番傷ついたのはまた愛してもいない女性を王妃にしなければいけない自分の立場だったのかな、とサラは思う。見当違いかも知れないが。
 彼女はホウの体の下からなんとか這い出して彼の涙を拭うように目元に口づけた。
 どうあっても二人は一緒になれない。住む世界が違うのだから。それを忘れるかのように彼らは互いの温度を求めあった。

   *

 運命の十日目。
 二人とも最初から泣きそうな顔をしていた。だが無理に笑顔を作る。……肌を重ねる。少しでも長く自分の体に相手を覚えておけるように。
 冗談をいいあった。結婚式はいつがいいだろう、とか。子供は早めに作ろうか、とか。男の子と女の子どっちがいいかな、とか。他愛のない冗談。絶対に本当になることはないのだから。
 サラは思う。愛したのはお伽話の王子様。誰よりも綺麗で、弱くて涙もろくて潔癖な、優しさをくれた人。
 ホウは思う。愛したのは太陽神の娘。愚かな自分の罪を許すために来てくれた烈しい女神。道を明るく照らし、強さをくれた人。
 ……だから決して自分の手には入らない。

   ***

 朝が来た。ベッドの上でサラは目覚める。電話が鳴った。この十日間、一度も聞くことのなかった音だった。
「……帰って、来た……」
 サラは電話には出なかった。窓から西の空を見る。朝日に追われて逃げていく夜の闇を見た。空は段々明るくなっていく。
 朝なんかこなければよかったのに。
 サラは泣かなかった。きつく歯を食いしばる。
 西の空で翼のはばたきを聞いた。何かの鳥だろう。……だがサラの耳にはそれが銀の天使のはばたきに聞こえた。
 

 彼女の体の中では小さな命が細胞分裂を起こしていた。
 だが彼女がそれを知るのはこれから約一ヶ月半後のことになる。


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