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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第四節第四項(016)

 4.

 ホウは薄く目を開いた。……眠っていたらしい。彼の目に最初に飛び込んできたのは洪水のような金色の輝きだった。

 それは彼女の長い髪。闇に包まれた空間にそれは目映いくらいはっきりと浮かんでいた。その金の女神はというと彼の目の前で、ころん、と寝返りを打つ。かすかな呼吸音を立てて、これまた眠っていた。サラの顔を急に目の前で見ることになってしまい思わず赤面してしまう。サラは目鼻立ちのはっきりした顔を崩しもせずに眠り続けていた。紫電の瞳は閉ざされ薄い色の睫毛がその縁を飾っている。目尻に少し涙の跡がこびりついていた。……少し胸が痛んだ。こんなことをいえば彼女は「見当違いもいい加減にしろ」と、また怒鳴るだろうか。
 それでも安心しきった表情で彼の隣で眠る彼女に、まだこの空間にいてくれたのだとホウは安堵の息を付いた。その輝きが隣にあることが奇跡のようだった。当たり前の話だが眠っているときの彼女を見たことはなかったな、と思う。ほんの少し前まで顔を突き合わせれば喧嘩腰の口論をしていた相手とは思えなかった。
 彼はサラの肩に掛け布を掛けて、こびりついた涙の跡をそっと拭ってやる。起こすかと思ったが彼女は眠ったままだ。汗で肌に貼り付いた金の髪も注意深く取り除いてやる。ついでに自分の髪も――なにしろ彼の髪はサラのそれより遙かに長い――首筋に手を滑り込ませて払った。黒の絹糸はたやすく彼の肌から離れた。
 ホウはしばらく彼女の顔を見つめていた。そうしないとまたすぐに目の前から消えてしまうかも知れないと思ったから。先刻まであんなに近かった彼女が今はとても遠くに感じられた。

 二人以外に誰もいるはずのない空間。そこに、何かの気配が生じた。誰かがいる。感覚を研ぎ澄まして何もない空間の一点を凝視した。
「誰だ?」
 声を低めているが固い声音で誰何する。気のせいではないはずだと確信していた。左腕にサラを抱き、右腕は寝台の下をまさぐる。一年前ならその下にはいつも固い金属の感触があるはずだった。が、謹慎中の身ではさすがに帯剣までは許されていない。手に何も触れるものが何もないことに気付き、ホウは舌打ちしたい気分だった。表面上はそんなことなどおくびにも出さない。相手に侮られるなかれ、である。
 闇の中に柔らかな銀の光が現れた。
 その光はだんだんと人の形をとり、光の色は長い髪になった。その光はホウが親しい人の血に濡れて泣いた、あの月の光を連想させた。
 人の姿をとった銀の光はサラと同じ顔になった。その瞳が開かれる。サラと同じ色の紫。だがその瞳に浮かぶ光はサラのものよりずっと穏やかだった。サラの瞳が邪を焼き尽くす太陽のような光とするなら彼女のものは月の光だった。穏やかで儚(はかな)げで、そしてどこかしら冷たい。
 彼女の存在に彼は、これがサラのいっていた銀の天使か、と考える。息を詰めて見つめていると天使はサラと同じ色の瞳で彼を見つめ、小さく溜め息をついた。
「そういえばあなたには私の力が及ばないんでしたね」
 それが最初の言葉だった。サラと同じ声。だが響きが随分違う。双子でもここまで似るかと思うほどそっくりな顔、声でありながら決してサラではない存在。サラをそのまま優しく穏やかにしたらきっと銀の天使になる、それくらいに二人はよく似ていた。髪の色の違いがそのまま彼女たち二人の性質の違いに直結しているようにも見えた。
 その銀の天使の白い腕が二本、手首を上向けてホウに伸ばされた。
「その人を返して下さい」
 その人、といわれ、ホウはサラを抱きしめる手に力を込めた。サラは一向に目覚めない。それは銀の天使の力が働いているせいかもしれなかった。
 サラの話では銀の天使とは無表情か微笑んでいるだけで口も利かなかった筈だ。それでなんとなくもっとふわふわした幻想の生き物を想像していたのだが随分印象が違った。今、目の前の天使は理知的な表情をしていて口も利く。
 ホウはお伽話を思い浮かべていた。
 月から来る天の使いにはたくさんの顔がある。それは月が満ち欠けをするように、全部違うように見えて実は同じものなのだ。彼女たちは人を癒し、人を狂わせ、時に人を導く。すべては月の気まぐれゆえに。
「夜が明けます。彼女をあちらの世界に返さなくては。離していただけますか」
 さあ、と促すように更に両腕を伸ばす。その手にサラを委ねることは出来なかった。眠るがままのサラの体をしっかりと抱きしめる。それだけで銀の天使には分かる筈だ。やっと自分のものになった愛しい人と別れたいなど、誰がそんなことを望むだろうか。まして相手は得体の知れない存在である。これは人間ではない。妖魔・精霊と近く過ごしてきた彼にはよく分かった。そして妖魔でも精霊でもないことも分かってしまったのだ。銀の光纏(まと)う「これ」は彼が知っているどんな生き物でもなかった。
「朝になればふたつの世界を繋ぐ道はなくなってしまう。私の力は夜しか及ばない。その人を返して下さい。でなければ彼女は帰れなくなってしまう」
 ホウの綺麗な顔が歪んだ。その言葉の中に織り込まれた真実に思わず問い掛けた。
「あなたの……力、だと?」
 銀の天使は可愛らしい仕草で小首を傾げる。
「じゃあ、二つの世界を繋いで私たちを会わせたのはあなた、なのか?」
「簡単にできるとは思わないでくださいね。私の力ではこの十日間を維持するので精一杯だったのですから。それも夜の間だけ」
 銀の天使はあっさりとホウの言葉を肯定した。
「そんな、ことが……。そんなことが出来るのか? いや、その前に、何故だ? 何故、異世界を繋いでまで私達を会わせた? 十日間といったな。では、やはり蟄居を終えるともう会えないのか? どうなのだ!?」
 悲壮な叫び声だった。
「……答えられる質問にだけはお答えしましょうか。異世界を渡る事は通常、出来ません。けれど私には出来る。私にしか出来ないともいいますが。もちろん、かなりの制約がつきますけれどね。あとのふたつについては……今は何もいえません」
「どうして……」
 呪わしげな声が思わず漏れた。それは何に対しての呪詛だったのか。
「その人を返してください」
 途端に、サラの体がホウの手を離れた。
 サラの目はまだ固く閉ざされたままだ。捕まえようとする彼の手をすり抜けて体は宙を滑り、銀の天使の腕の真上に位置するところまで飛んでいった。銀の天使の細腕ではサラの体重を支えきれないことは見てとれた。ホウは顔色を変えたが、天使は元々自分の力で支えるつもりはないらしい。サラの体は腕の上でかすかに浮いている。
 銀色の光に照らし出されてサラの裸体が白く浮かび上がった。次の瞬間、もとから彼女が着ていた服に包まれる。どんな魔法が作用したのか、魔法の発動は感じられなかった。
「まだあと二日あります。……明日の夜にはちゃんと届けますから」
「何のために」
 投げやりな口調だった。本音とは違う。やっと愛せると思った人と会えるのはもちろん嬉しい。だがいずれ引き離される。それは避けられないと分かってしまったから。
 ホウにとってサラは色んなものを具現した存在だった。愛してくれた、信じてくれた、許してくれた、叱ってくれた、強さをくれた。今まで何かをしろと要求をされることは多かったが自分が本当に欲しいものを与えてくれた人は少なかった。しかも、それだけでは彼女は嫌だという。対等の存在がいいといった。そして自分の弱さを欲してくれた。……彼女に足りないものを自分は埋めてあげられた。お互い一部を欠いた魂を抱えて、足りない部分を補いあえることを今夜知った。
 それなのにずっと一緒にはいられない。
 銀の天使はサラを抱え、背を向けた。顔だけ彼に振り返る。
「では会わない方がよかった?」
 ホウが顔を上げた。……ゆるりと首を横に振る。会えなければこんな感情は知らなかった。このまま一生自分の心の闇に押し潰されていただろう。
 銀の天使はほんの少し微笑んだ気がした。
「……お前はサラの……何なのだ?」
 サラとよく似た天使。全く関係がないとは思えない。銀の天使はそのとき初めて幸せそうな笑顔をホウに向けたのである。
「太陽と月に見えませんか?」
 サラと同じ顔でそれはそれは幸せそうに笑った。


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