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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第四節第三項(015)

 3.

「不公平だ」
 サラはホウを指差した。人をむやみに指差してはいけないという礼儀はこの際、きれいさっぱり忘れる。
「私はお前の同情を買うような話なんか何一つ持ち合わせていない。お前の同情を買うことは出来ないんだから、どうやっても条件は五分五分にならないじゃないか」
 だから不公平だ。
 彼は、サラが自分に向けてくれる感情は同情ではないかといった。
 ホウは困ったように微笑んでいる。
「何を笑ってるんだ?」
「私の言葉を否定しなかった」
 安心した、と告げる。
「否定してほしけりゃ、するぞ。ただ、さっきもいったが五分の条件じゃない。同情話を聞いてしまったのは確かだしな。私の方が立場が弱いのに否定できた義理か。お前が信じなければ同じじゃないか」
「……どこが立場が弱いだと?」
 心の底から訝(いぶか)しがる。
「悪かったな!」
 それでも少し困ったような微笑みはそのままだった。サラも困ったような顔になる。
「……お前は一体、何を怖がってるんだ?」
 自分の口から出た言葉にサラ自身も驚いた。だが、なんとなく、そう思った。彼は弱い人だ。何かを恐れている気がした。
 ホウは益々困ったような顔をして、それでも慰めるように微笑んだ。
「そんな顔をしなくてもいい」
 そっとサラの頬に触れる。
「今、自分がどんな顔をしているかあなたは気付いているか? 今にも泣きだしそうな顔をしている」
 そしてサラを抱きしめた。その手がわずかに震えていた。彼の方こそ泣きそうに見えたので、益々サラは困惑する。
 彼の背中に腕を回す。衣服を掴んだ。
 普通は男性側の台詞かもしれないが、守ってやりたいと思った。この弱い人がいつも心から微笑んでいられるように。だが同時に、これも同情なのだろうかと自問した。ホウがもう過去に捕らわれずにいられるように――もう泣かずにすむように――自分が側にいたいと思うのは同情からきているのだろうか。違うと思いたかった。
 泣きそうなホウの声が上がった。
「何を怖がっているのかと聞いたな。……私はもう、裏切られたくないのだろうよ」
 声が小刻みに震えている。サラは思わず、彼の背中に回した手を強く握った。
「あの時も愛していると思っていた。愛されているとも。だが、今の私はそれが一番信用できない。もうたくさんだと考えてしまう。あの人とあなたは違う。理性では分かっているのに感情は否定する。あなたのいうように私は臆病だ。あなたは怒るかもしれない。けれど……その想いが同情でないと何故いえる? 愛情という名にすり替えているだけではないのか?」
 その疑問はサラの胸を突いた。
「違う!」
即座に否定した。ただし、その否定が図星を突かれたため咄嗟に虚勢を張ったのだということも気付かされた。サラは彼をきつく抱きしめ、その胸に顔を埋めた。歯を食いしばっていないと泣きそうだった。
 落ち着け、と何度も自分に言い聞かせる。頭の中は混乱していた。彼の言葉を否定するだけの材料がなかった。何とかしたい、何かいわなければ。それ以前に自分を立て直さなければならなかった。

 その混乱した記憶の海の中からひとつ、サラが間近に見てきて信じている事実が水泡(みなわ)のように浮かんできた。……自然にサラの手から力が抜ける。今、思い出す事の出来た偶然に感謝した。深呼吸をする。出来るだけゆっくりと噛んで含めるように言葉を選んだ。自分自身にも言い聞かせるために。
「だけどな、ホウ? ……お前は信じないかも知れないが、私は純愛というものを信じているんだがな?」
 それだけいうのにサラは掌に汗をかいた。ホウは、その台詞がよほど意外だったのかサラの顔を凝視した。彼の表情は仮面の下にあるため読めないが泣きそうになっていることは確信した。サラは彼を安心させるために大きく頷く。
「うちの父がそうでな。腹に何処の誰の胤(たね)とも分からない子を抱えた女と結婚して、その子を我が子として育てた。惚れた女は子供を産んでさっさと死んだのにな。今でもその女を……母を愛してる。再婚もせずにいる。男の人の方が純情だとは聞くが、筋金入りだろう?」
 サラは思わず苦笑していた。
「私は自分が何処から来たのかを知らない。母から生まれたのは確かだ。だが肝心の母が、父と出会ったときには全てを失っていたと聞く。自分の名前も年も、住んでいる所も覚えていなかった。彼女を知っていると名乗ってきた者も一人もいない。彼女が覚えていたのはお腹に子供が……私がいることだけだった。さすがに子供の父親のことまでは覚えていなかったけどな。……よくもまあ、そんな得体のしれない女と結婚したものだとは思わないか? その一点だけでも私は父を尊敬するぞ」
 まるで何でもない笑い事のように話す。
 笑い事に出来るまで紆余曲折があった。多かれ少なかれ出生の秘密というのは本人に取って重いものだ。まして親が分からないという話は自分の存在そのものまであやふやになったようで、自信をなくしていた時もあった。
 正直いえば父親と一緒に過ごした時間は少ない。それでも母を愛し続けている彼をサラはずっと見てきた。こんな綺麗な感情も世の中にはあるのだということを知っていた。特定の恋人を作らなかったのはこの純愛を身近に感じすぎていたからかも知れない。どうせなら一生に一度の恋に巡り会いたいと、それが水面下の希望だったのかも知れなかった。
 仮面の下では森の色した瞳がかすかに揺れていた。サラはからかうような声を上げた。
「同情してくれているのか?」
 微笑んで、ホウの頭をなでる。嘘の付けない男だと思った。たった一人の相手と今、決めた。
「じゃあ、これでおあいこだ。私はお前に同情したし、お前も私を可哀想だと思った。お前のいうように愛情ではないかもしれない。が、同情でもいいと思っては駄目か? 少なくとも私は浮気できるほど器用ではないのだがな」
 ……この言葉を聞いたときのホウは唇を引き結んでいた。さて、仮面の下では一体どんな顔をしているやら予想もつかなかった。
「愛してる。お前でないと嫌だ、といったら?」
 沈黙が下りる。それは長い間ではなかったが、本人達にとっては恐ろしく長い時間に思えた。ホウが小さく溜め息をついた。口元は微笑んでいる。
「負けました」
 茶化すような、それでいて嬉しそうな口調だった。
「私もあなたを愛している。もう一度誰かを信じたいと思ったのはあなたが初めてだ」
 そして彼は彼女を軽々と抱き上げた。
 片腕で彼女を支え、もう片方の手で自分の仮面の留め金を外しにかかった。小さく金属音が鳴る。
「やっと許されたような気がする」
「じゃあ、そうなのだろうよ。私はお前を裁くために来たんじゃない。許すために来たんだ」
 ホウの顔を見下ろす位置にサラの顔があった。彼女の手で留め金が外れた白い仮面を取り除く。その間、サラを支えている彼の腕は揺るぎもしなかった。
 仮面の下には端正な白い顔があった。一年、日の射さぬ場所にいたらしいことは仮面の下とそうでなかった場所の焼け具合に差がないことでも分かった。すっきりと顔の中心を通った鼻筋、整った眉、切れ長の瞳の色は仮面から覗き見たときより深く穏やかな緑。微笑みを浮かべている唇は薄く、全体の印象としては女性的な美貌だった。仮面を着けていた時から綺麗な顔立ちだろう事はある程度予想が付いたが、確かに男に生まれたのが勿体ない美人である。この顔で、この細身で、剣を振るうとは嘘のようだった。
「すごい美人だ」
 自然と笑みがこぼれる。
「あなたの方が美しい」
 お世辞でも何でもなく彼は賛辞した。サラは半分割り引いて聞いた。が、ホウの段々と薔薇色に変化していく頬の色を見ているとまんざら嘘でもなさそうで、むずかゆく落ち着かない気持ちを覚える。
 そのホウはといえば、もじもじと非常にいいにくいことを口にする機会を窺っていた。
「サラ。私は女性と……その、床を共にしたことはないけれど、受け身の立場なら一応……その……だから……」
 実に率直な口説き文句。さすがにサラの頬にも朱が走った。
「それはまあ、……まかせる」
 と、顔を合わせないようにして彼の首を抱いた。
 

 結っていた髪がほどかれた。
 寝台の上に金の糸が広がる。
 その上から黒の絹糸が覆い被さった。


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