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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第四節第二項(014)

 2.

 誰よりも綺麗な人。愛してる。自分はどうしたいのだろう。よく分からない。愛してる。
……愛して?
 愛してる? あの人を?

   *

 今日も夢は闇から始まった。
 ところが、いつもはすぐ側に銀の天使が出現するのに今日は遠くにぼんやりと銀の光が現れただけだった。光の中心からゆっくりと現れる銀の髪をなびかせた天使。その顔に微笑みは浮かべていなかった。最初に現れたときのような無表情だった。何故だろうと思う間に、天使は背を向けて徐々に消えていった。
「ちょっと待て!」
 サラは走り出していた。力無い銀の光は消えてしまった。目印になるものが消えて辺りは完全に闇に包まれた。それでも足下に不安も感じず走っていた。走って走って、自分がどこに向かって走っているのかそれすらも分からなくなりながら、ひたすら走っていた。
 彼女が求めていたのは銀の天使その人ではない。天使が導いて会わせてくれたあの人である。
「ホウ!」
 初めて名を呼んだ。
 会えなくなるには早すぎる。銀の天使は意地悪だ。昨日は中途半端な所で引き戻して、今日は会わせてもくれない気なのか。
 必死になって名前を叫んだ。何度も繰り返して。
 全力で走ったせいか息が切れてきた。それでも、もう一度名前を呼んだ。
「ホウ!」
「サラ!?」
 闇が切れる。振り向いた人物がいた。闇の一部のような長い黒髪に縁取られた、見慣れた白い仮面が目に飛び込んできた。サラが駆け寄る。ホウも走り出した。まっすぐサラ目指して走り寄り、両腕を広げた。サラは迷わずその中に飛び込んでいった。
 二人は相手をこれでもかというくらいしっかり抱きしめた。
「会えないかと思った」
 それはサラの台詞ではなかった。サラがいう前に先にホウにいわれてしまった。どうやら向こうの世界でもいつもと違うことが起こっていたと見える。サラは首を横に振った。そして彼の背に回した腕に力を込めた。全力疾走のあとだ。肩で息をする。そうしてゆっくりと呼吸を整え、上体を離した。ホウはそれまで待っていてくれた。互いの背に腕を回しているような状態で顔を突き合わせた。……こういう姿勢で向き合うのは初めてである。
「会いたいと思ったから会いに来た」
 と、サラ。
「はい」
 と大人しく頷くホウ。
 そして、どちらからともなく口づけを交わしたのは自然の成り行きに思えた。思春期の子供がするような可愛いキスだった。
「いいのか?」
 おそるおそるホウが訊ねた。
「あなたのご夫君、あるいは婚約者殿に申し訳が立たないのではないか?」
 その疑問を最後まで言い切らないうちにサラは拳を作って目の前の男を殴った。ホウが避けきれないくらいの、まさに電光石火の早業といってよかった。
 だがサラの力は一般の成人女性のそれでしかなく、かたやホウは見てくれとは反比例して一級の武人である。大きな痛手を負う訳でもなく、だがそれでもホウは、いきなり暴力を振るうとは何事かと非難の声を上げた……否、上げかけたが呑み込んだ。
 サラは口元だけには微笑みを浮かべていた。
 凶暴な笑みだった。目は笑っていない。猫科の肉食獣が牙を研いでいた。
「……お前は、私に夫ないし婚約者がいて、その上でお前に懸想(けそう)しているとでも思っているのか……?」
 声を荒らげたわけではなかった。抑制された低い声はこれ以上なく物騒な響きを内包している。言外に「見損なうな」といっていた。精霊か妖魔であれば金の髪は怒りに震え、炎のように踊っていたかも知れない。
 初めて彼は自分が彼女をひどく侮辱する言葉を吐いたのだと気付いた。
「あの……もしかして初めて、とか……」
「そういう言葉は思っていても口にするんじゃない!」
 一喝した。照れだとか恥じらいだとかは一切含まない、純粋な怒りだけをぶつけた。
 ホウが青くなる。実際の顔色は白い仮面によって隠されているが、どう見ても青ざめたと分かるうろたえぶりだった。
「その、私の世界ではあなたくらいの年齢の人はすでに結婚しているのが普通で……つまり、その……未亡人とか、それでなかったら決まった相手が待たせているとか……」
 一言喋る度に墓穴を掘っているような言い訳である。
「悪かったな。こっちの世界では年々晩婚化が進んでいるような現状だ」
 小兎を目の前にした獰猛な獅子の笑みだった。ホウは更に小さくなった。
「……私の世界では女性は十六で成人だ。十七、八あたりが結婚適齢期で、どこの親でも娘が二十歳になる前に嫁に出そうと考える。貴族階級の女性は十五で嫁に行かされる者も少なくない」
「とんでもないな」
 眉をひそめた。彼の台詞から知り得たのは単純に女性の結婚適齢期だけではなかった。いかに彼の世界では女性の地位が低いかをも言葉の中に読み取った。
 ホウは一度大きく息を吸い込む。
「もうひとつ、あなたを怒らせるようなことをいう」
 お叱り確定の覚悟を決めた顔だった。
「何だ」
 と、サラは偉そうにふんぞり返りながら頷く。聞いてやろうという態度である。
「……私に投げかけてくれるその感情は、同情ではないのか?」
 サラは殴りそうになった右腕を抑えるのにかなりの努力を要した。
 握りしめる拳はわなわなと震え、それを一生懸命抑制しているのだから更に震えは激しくなった。それでも彼女は懸命に耐えた。歯ぎしりの音まで聞こえかねなかった。髪の一本一本の先まで十分に怒りが浸透していった。呼吸を整えにかかる。
 ホウは、それはそれは恐ろしい物を見たような気がしたが、それでも胸を張ってサラを見つめていた。
 ようやく落ち着いた――無理矢理落ち着かせたのだが――サラは、
「怒らせると分かってるならいうな」
 と脱力した声を発した。


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翡翠抄 −ひすいしょう−
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