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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第三節第六項(012)

 6.

 王妃の不貞。
 噂は真偽を確かめる前に飛ぶように広がった。箝口令を敷いても意味がなかった。

 男の浮気には寛大でも女の浮気は許されない。不公平だが事実だった。ホウは王として事の次第を問いつめる義務があった。
 ホウは、無理はないと思った。それどころか真実彼女を愛してくれる男がいるのなら、その人に嫁がせてやりたいとさえ思った。王妃はホウの元にいる限り幸せにはなれないのである。だがもう遅い。王妃の不貞は王に対する反逆罪と同様だ。ここまで広まってしまった以上何をどういっても王妃の罪は免れない。ホウは自分を責めていた。自分などに関わったばかりに彼女は不幸になった、と。

 王妃の離宮。月明かりの中、彼女は胸を張って王を待っていた。
「……お人払いをお願いいたします」
 そう言い放った彼女は最初に会ったときの可憐さのかけらもなかった。人が退けられた。結界を張って精霊達も立ち入れないようにする。
 なかなか切り出せないホウに対して、王妃の方が口を開いた。
「噂は真実ですわ。……お慕いする方がおりますの」
 彼女からそう告げられ、ホウは少し気が楽になった。いつものように優しい声音で語りかける。
「怒らないから、相手の人はだれか告げてくれるかい?」
 だが王妃は冷ややかな目をしたままだ。
「どうしてお叱りになりませんの?」
「……それは……王妃には幸せになってもらいたいから……」
「幸せ?」
 返ってきたのは冷笑だった。
「どうせやるなら、ばれないようにやって欲しかったとでも思っておられるのでしょう? 一国の王妃が不貞なんて醜聞ですものね。……あなたはいつだってそう。大切なのはこの国だけ。あなたは国のために私と結婚なさっただけですもの」
 目尻に涙が光っていた。
「あなたに私の幸せを語って欲しくなどありませんわね、私の夫はあの方だけです。裁かれるべきは私だけで十分ですわ。あの方まで死なせません!」
 激しい勢いだった。初めて会ったときは可憐な、本当に何も知らない姫だったのに。
 なおさら彼女に対して罪の意識が大きくなった。自分さえいなければ。
 ホウは首を横に振った。
「あなたを裁くことなどできない。悪いのは私なのだから……」
「……このまま生きろとおっしゃるの? あの方への思いを秘めたまま、あなたの妻を演じろとでも? 生殺しですわね……残酷な方!」
 王妃の言葉はそのまま今のホウの状態を指していた。……その辛さも想像ではなく知っていた。胸が痛んだ。張り裂けそうに痛かった。
 だが、どうしろという?

 形だけの夫婦が押し問答している最中、離宮に忍び寄る白い影があった。月明かりの下で白く輝く衣を身に纏った影は口元を歪めながら王妃の背後から現れた。ホウはすぐに彼の姿を認めた。どうしてここにいるのかを疑う前に、ほんのちょっと表情がゆるんだ。王妃はホウの表情が変わった一瞬に気が付いて振り返った。
 そこにいたのは白い衣を纏った神官の姿。
 王妃は花のように……ほころぶ花のように艶やかに微笑んだ。
「あなた」
 セツロは口元を歪めて微笑み返した。

 ホウの中で時間が止まった。

 王妃の不貞の相手はセツロだった。
 ホウの頭の中がごちゃごちゃになった。セツロが王妃を愛しているはずがない。それとも王妃を愛していてホウのことはどうでもよかったのか。どうでもいいならどうして今まで愛しているふりをしていたのか。逆だとしてもなぜ王妃と関係を持ったのか。ただひとつ分かっていることは、王妃は彼の言葉を真実と信じ、そして愛した。
 ホウの目の前で王妃はセツロに手を伸ばす。幸せに輝いた顔をして。手を……。
 だがその手が白い衣に触れることはなかった。
 月光の下でセツロの握りしめる物が冷たい光を跳ね返した。王妃は目を瞠った。彼女の手が衣に触れる前にセツロは剣で王妃の腹部を貫いた。微笑んだ顔はピクリとも表情を変えなかった。
「……ご苦労様」
 なぜ、と王妃の唇が震える。
 セツロは冷たい目をして微笑みながらそれを見下ろしていた。王妃は彼にすがりつくようにしてその場に崩れたが、彼は鬱陶しげにそれを振り払った。つうんと鉄臭い匂いが辺りに蔓延していく。血は最初じわじわと彼の白い衣を染め、そしてすぐに水が湧き出たように滑らかな早さで床の上に広がっていった。
 セツロは血溜まりの中の王妃には目もくれず、親しげにホウに笑いかけた。
「やあ、ホウ。相変わらず突発的事故には弱いのか?」
 仕方のない奴だと笑う。その微笑みだけを見ていると目の前に起きていることがまるで嘘のようだった。ホウはやっと金縛りから解けたように、がたがたと震えた。
 ……何故、この人は笑えるのだろう。
「どうして……」
 震えながら出した声。その意味をセツロはどう取ったのか。
「可愛い私の玩具、お前が私から逃げようとするからだよ」
 氷を映したような薄い水色の瞳が細められる。口元には薄ら笑い。心なしか辺りには冷気が漂い始めた。冴えざえとした月の光だけのせいではないはずだ。
「少しは思い知ったか? どうだ、愛した者に裏切られた気持ちは? お前に裏切られたときの私の気持ちはこんなものではなかったぞ。私の痛みのいくらかぐらいは感じたか?」
 可笑しくて堪らないとばかりに、喉を鳴らす。
「お前の大切なものはこれから先、何一つ手に入らないと思え」
 みんな私が壊してやる。

 ホウはようやく理解した。
 セツロはホウに復讐したのだ。裏切りには裏切りを持って。セツロは、ホウが結婚したことを自分に対する裏切りだと思っていた。そして彼は待った。セツロの裏切りがホウを一番大きく傷つける絶好の機会を。ホウが王妃を大切にすればするほどその好機が近づいていった。
 愛されていないと嘆く王妃を落とすことは簡単だったろう。愛した男と、生涯連れ添うはずだった王妃、二重の裏切り。王妃はそのために選ばれた復讐の道具に過ぎなかった。
「王妃……」
 ふらりとホウが足を進めた。セツロはあからさまに不機嫌になる。王妃はまだ息があった。可哀想な人。国のために道具になり、そしてまた道具にされた。それも全てホウのせいで。それでもホウは彼女を愛することは出来なかった……。
 王妃の傍らにしゃがみこむ。だが差し伸べた手は拒絶された。彼女は残った力で激しくホウの手を打ち、払いのけた。
「お、王妃?」
「……さ……」
 呼吸が荒い。血走った目がホウを睨み付けた。その表情に浮かぶは嫌悪の色。美しいはずの顔は醜く歪んで、口元からは血の混じった泡を吐いていた。
「さ、わ……ら、ないで……。あ……あんたなんか、汚い……っ!」
 憎々しげな呪いの言葉。それが彼女の臨終の言葉だった。

「その女はお前のことなど愛していなかったぞ。愛されるのは当然だと思っていたようだがな」
 ホウの頭の上に声が降った。
 涙に濡れた面でセツロを見上げる。冷ややかな目が薄笑いを浮かべて見下ろしていた。
「……どうして、あなたはいつもと変わらぬままでいられる?」
 何もなかったかのように振る舞えるのか。
「お前さえあればいい。どのみち処刑されるはずだった女が一人消えただけだ」
 本当に何でもないことのようにセツロはいった。ホウは涙を流しながら、どうして、と繰り返した。そして王妃の腹部に刺さっていた剣の柄を握りしめ、一気に引き抜いた。
 血の付いた剣を手にするとセツロから離れて構えた。
「ホウ、何を!?」
 ホウは泣きながら剣を繰り出した。王を継いでから触れていなかったがホウは元々武人である。セツロに魔法を唱える隙も与えず、血糊の付いた切れ味の鈍い剣でセツロの体の中心を破壊した。肋骨が折れた感触が伝わった。それのせいで肺を傷つけたのかセツロが血を吐いた。
「罪状、王妃との姦通罪。国王の権限を持ってここに極刑とする……」
 ホウが呟いた台詞は、もうセツロには聞こえなかった。
 死に顔は憎しみだけを浮かべていた。

 生温かい血を流すセツロの遺体を抱いてホウは再び「何故」と繰り返して泣き続けた。
「なぜだ? 私はあなたを裁きたくなかったのに。仮にも一国の王妃に手を出せば罪になると知らないあなたではなかったはずなのに……」
 それともホウなら見逃してくれると思ったのだろうか。それはありえないことぐらい、なぜ気付かなかったのか。王妃にしても最終的には極刑にせざるを得ないことぐらい分かっていた。ホウはためらいつつも王としての決断を下しただろう。
 セツロは、欲しいものは何が何でも手に入れなければ気がすまない子供のようにホウを欲した。それひとつしか目に入っていなかった。そしてホウにも同じように自分を欲っすることを望んだ。だがホウはそうではなかった。奇しくも王妃がいった通り、彼の優先事項はセツロでもなければ自分自身でもない、この国だったのだから。
 だからこその王。
 精霊達に愛され、国民に愛され、そして彼自身もそれらを全て愛し慈しんでいた。先王はそのことを見抜いてさっさと王座を譲った。
 それは多少なりともそう教育されたせいもあるだろうが、元々の彼の愛情と責任感によるものでもあった。セツロは最後までそんなホウの性格が分かっていなかった。
 セツロの裏切りは本人の狙い通り、深くホウを傷つけた。

 本当は愛されてなどいなかったのだろうか。
 愛していたのに。

 血溜まりの中、若き王は一人嘆きの声を上げていた。

   *

 しばらく国内は大騒ぎになった。王の親友と王妃の不倫劇は王に対しての同情を誘った。王妃の祖国と戦にならぬようホウの実父は責任を取って自害した。元はといえばこの話を進めてきた張本人は彼である。その命は無駄にはならなかったようだ。
 すべての後始末を終えた後、ホウは王として自分自身を投獄した。同性と交わった罪、王妃を謀った罪、結果的に二人を死に追いやった罪。全てを告白し償いを求めたが、それらは周囲の者によって隠匿され何一つ公にされることはなかった。何しろとびきりの醜聞である。彼の処遇は重臣たちの相談によって一年間の幽閉ということになった。表向きの醜聞は全て王妃に被せられた。
「王よ。真実、罪とお思いならば一年の後再び我らの王として国のために努められよ」
 それが幽閉される前に言われた言葉。
 死ぬことすら出来なくなった。


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