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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第三節第五項(011)

 5.

 戴冠式を済ませた後ホウは実質の王となった。年若い王ではあったが年長者に実権を握られることなく、また年長者をないがしろにすることもなく、なにより精霊達は率先してこの若き王に協力した。
 先の王は目を細めてその様子を喜び、ホウの実父は自分が後見として采配を振るえることが出来ずに苦々しく思っていた。
 ホウもセツロも周囲に何も気取らせることなく忙しい日々をこなしていたが、王妃の気鬱が進んでいくのは誰の目にも明らかだった。
「王妃はまだ新しい環境に馴染めずにいるのだろう」
 ホウはそういって王妃のために離宮を用意した。皆は王の優しさだと信じて疑わなかった。その真意が彼女と閨(ねや)を別にする口実だと、気付いたのは影でほくそ笑んでいる水色の瞳の神官だけである。

 嵐は一度に襲ってくるもののようである。
 戴冠式後でごたついている最中、先の王が倒れた。

「義父上!」
 ホウが駆け込んできた時、その人は寝台の上に臥していた。医師や癒しの精霊たちを下げ、手招きをしてホウを呼ぶ。
「すまんな……」
「何もおっしゃらないでください。倒れたからといって……そのように気弱になられるのは早すぎます。義父上にはまだまだお元気でいてもらわねば困るのですから」
「いや、お前ならもう大丈夫だ……」
にこやかに微笑んで、枕元のホウの頭をなでた。小さい子供にするように。
「義父上……」
「儂はとうとう子宝には恵まれなんだが、変わりにそなたを得た。そなたは儂の自慢の息子であった」
 息子、と。ホウは目を見開いた。つん、と鼻の奥が痛くなる。思わず本音がこぼれた。
「……私にとっては伯父上こそが父でした……」
 それを口にしたと同時にホウの目から涙が溢れる。
「ふ、泣き虫は変わらぬか。それもよい。いいか、これより儂の遺言を伝える、ようく聞け」
「遺言などと……!」
「正式な遺言はすでに残しておる。よいか、これはそなたにしかいわん。……弟を、そなたの父を遠ざけよ。あやつにはあやつなりの考えあっての事じゃが、今のそなたには害にしかならん」
 これには少々驚いた。確かにホウは実父が苦手であったが、わざわざ伯父が遠ざけろというほどのものでもないように思った。
「弟を恨むなよ」
「そのようなことは……」
「それに……お前の神官も、信用するな……」
 ホウは表情を曇らせた。返事をするかわりに強く彼の手を握りしめる。昔からよく心配されていたことだが、それでもまだホウは彼を信じていた。何より、もう引き返すことも出来ない……。
「……そうそう、よいことを教えてやろう。我が家は代々情熱家ぞろいでな、儂の場合は子を産まぬ女と影で誹(そし)られようとも妃以外を選ぶ気などなかったし、そなたの父も早くに亡くなったそなたの母のみを想っておる。そなたもいつか、たった一人の相手と出会うであろうよ……」
「……義父上? あの、私にはすでに……」
 妃がいる、といいかけたが先をいうことは出来なかった。
「奥方を大切にな。だが、いつかただ一人と出会った時には己の気持ちに正直に進めよ」
 ホウは言葉を失った。

 数日後、先王永眠。
 新しい王の結婚で浮かれ騒いでいた国内は一気に沈んだ。
 その葬儀の場に王妃の姿はなかった。体調がすぐれないというのが辞退の理由である。
それは表向きの理由。先代の王は火の属性を持っていた。古くからのしきたりに則って葬儀は火葬で行われるのだが、王妃はそれを嫌悪したのだ。
「嫌! 目の前で人が焼かれていくなんて、嫌です!」
 外の国を知る者は「やはりな」と陰口を叩いた。彼女の国では土葬が普通で、火に焼かれるのは罪を犯した者と決まっていた。それは生きながら火にあぶられる刑罰の一種であって、炎の精霊に包まれて送られることとは違うのだと周りの人間が幾ら説いても王妃は嫌だとつっぱねた。
 この件で国民の心は一気に王妃から離れた。
 少々青い顔をしながらもホウは葬儀の指揮をとった。若き王の憂い顔は更に涙を誘った。そして葬儀が終了した後、彼はその場に倒れた。
 王を抱きとめ、支えたのは旧友の神官であった。もちろん側に駆け寄ったのはセツロだけではなかったが、
「王はひどくお疲れのご様子。皆様のお手を煩わせるほどのことではございません。わたくしがお運びいたします」
 と、やんわりと退けられてしまった。

 寝所で、気を失ったホウの耳元にセツロが囁いた。
「……辛いかい、坊や?」
 くすくすくす。
「まだだよ。まだこの程度では済まさない。まだ私を飽きさせないでおくれ……」
 可愛い、可愛い、私の玩具。
 くすくすくす。
 ホウは夢現で彼のそんな声を聞いた気がした――。

   *

 ホウは悲しみを振り払うかのように政務に明け暮れた。必ず日に一度は王妃の離宮にも顔を出したし、夜通しセツロと話し合いを交わすことも多かった。交わしているのは話し合いではなかったりするのだが、それは当然ながら公にできることではない。
 ……一度、王妃との閨(ねや)を試みたこともあった。国を担う義務として子孫を残さねばならないのは確かなのだから。だが予想どおりというべきか……どうしても出来なかった。以来、夫婦仲は急速によそよそしくなった。それでも彼は出来るだけ王妃には誠実であるよう努めた。王妃が真実を誰にも口にしないことだけは安堵し、感謝していた。
 王妃にしてみれば自分の恥である。おいそれと見ず知らずの他人にもらせる話ではなかった。彼女は実家から侍女の一人も連れてくることを許されなかった。ただでさえ慣れない国、知らない人々の中で夫の愛だけを頼りに嫁いできた王妃は、すっかり心を閉ざしてしまった。
 周囲から見ると夫婦仲が上手くいかないのは王妃の我が儘のように思われた。そう思われていることも王妃の心を更に閉ざす原因になり、ホウの心労の元にもなった。

 子供の頃から、周囲の期待を裏切らずに自分の心を裏切り続けた。誰よりも孤独を厭い愛情に飢えているくせに傷つくのを恐れるあまり人を信じることができなくなっていた。孤独を癒してくれる相手が確実に自分を破滅に導くと気付いても、その手を離すことも出来ない。小さなゆがみは大きく成長しもはや修復不可能のところまできていた。
 そのままなにも起こらなければ永遠にその関係を続けていたはずだ。
 形だけの王妃を気遣い、愛する人との関係を隠して、自分に嫌悪して……そのまま死ぬまで。

 結婚して半年も経たない、ある時。
 王妃の不貞が発覚した。


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翡翠抄 −ひすいしょう−
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