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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第三節第四項(010)

 4.

 歯車は回り始めた。くるくる、くるくると。
 例えそれが間違った始まりだったとしてもホウは彼を愛していたし、その感情に嘘はなかった。それが決して許されない想いだったとしても。
 そして罪に向かって運命は加速する。
 愛してる、愛してた……。

 彼ら二人は人前では親友を演じきった。元々つがいの鳥のように二人一緒のことが多かったせいもあって、人間たちは誰一人、彼らの仲に気付く者はいなかった。真実を知る精霊達はホウの味方だった。
「僕はホウ様がお幸せならそれでいいんですけれどね」
 王宮の大回廊でホウの隣を歩く少年が小声で話かけた。明るい茶色の髪、琥珀色の瞳をした彼は大地の精霊。大人びた口を利くこの精霊の少年は、精霊にしては珍しく見た目の年齢と実年齢が一致していた。彼はまだ行儀見習いには早すぎるくらいの年齢に見えた。見習い神官の法衣を纏っているが、だぶだぶである。
「お前、滅多なことをいうものではないよ」
 憂い顔の王子を慰めるように少年は頷いた。
「分かってます。ホウ様のお幸せのためなら。……ところで、幸せに水を差すようで何ですが、お聞きになっていますか?」
「何を?」
 少年は少し困ったように答えるのをためらった。
「あの……将軍がおっしゃっていたのですが、近いうちにご婚礼をなさるとか……」
 少年のいう将軍とは王弟、つまりホウの実父のことである。
「父が?」
 実母は亡くなって久しい。
「いえ、そうではなく……ホウ様のことです。すでに話は重臣の方々も承知しておられます。そのご様子ですと王からは未だ聞かされておられないのですね?」
 寝耳に水だった。

 もっとも話自体は適齢期になってから少しずつあった。なにしろ王自身に子供がないため、ホウには何が何でも後継ぎを成してもらわなければならぬと重臣や側近たちは焦っていた。この国では他の国でいう王家にあたるものが全部で四つある。それぞれ火竜、地竜、風竜、水竜を祭る家で、この四つの家に生まれる者はなぜか精霊に好かれやすいというのがその理由であった。ここ百年ほどは火竜を祭る家の者が代々王になっていた。ホウに兄弟はなく彼に子供が生まれなければ今度こそ後継ぎになるような近い血族はいない。
 そうなれば家の代替わりである。
 炎の精霊の恩恵を受ける者たちにとっては面白くない。
 血を残し国を存続させることは王としての最大の義務であることをホウはよく分かっていた。分かっていたが、その一方で彼は自分が決して子供を望めないこともよく分かっていた。能力の問題ではない。ホウが愛しているのは同性である。そして彼は愛していない人との間に子供を設けられるほど割り切った考え方は出来なかった。

 ホウが議会に正式に呼ばれたのは話し合いがほぼ完全にまとまってからであった。すでにホウに拒否権はない。強引に話を進めたのはやはりというか何というか、王弟であった。
「何故、今になって急に話を進めるのですか」
 議会の席でホウは沈痛な面もちで発言した。
「次期殿、これはきわめて政治的な問題なのです」
 発言をしたのは外交を担当する者。人間達はホウを「王子」とは呼ばない。
「我が国は精霊達を保護するため、出来るだけ他国と交流を持たないようにして参りました。ですが現在の世界情勢を見ますとこのままどの国とも交流を持たないままでは我が国の経済や技術発展にも差し障りが出て参ります……」
 長々と発言をする大臣を制し、王弟が極めて端的にいった。
「次期殿には他国の王女と結婚していただく。他国との階(きざはし)となられよ」
「……その国との国交を結ぶことは、今現在必要なことなのですね?」
 だから急がせるのか。
「聡明な次期殿ならばご理解いただけると信じている」
 従うのが当然とばかりに彼はホウに迫った。
 ホウは目を瞑った。政略結婚。黙っていても、いずれは国内の有力貴族の娘と娶(めあわ)せられる運命だった。それが少し早くやってきただけのこと……。
「……承知、しました」
 一気に安堵の空気が流れた。
 だが次に予想もしえないことが起こった。王が小さく挙手した。
「儂(わし)はホウの婚礼を機に王座を譲ろうと思う」
 王の発言に会場が一斉にどよめいた。
「儂はもう年だ。皆で若き王と王妃を支えるよう努めるように」

 誰が何をいっても王の決意を変えることは出来なかった。
 この事は即日で国中に布令(ふれ)が出された。国民はこの知らせを好意的に受け止めた。国民は今の王も好きだったが、それ以上に優しくて美しい王子が好きだった。穏やかな性質の王子は炎の精霊だけでなく対極にある水や大地の精霊にも愛されていた。
 国中が沸き返る中でホウだけは沈んでいた。そして、セツロは怒っていた。
「王になれば私などもう要らないというのだな? 結婚だと? 私に対する裏切りには十分だ!」
「……セツロ、そうじゃない。私は今でも気持ちに嘘偽りはない……」
「聞きたくない!」
「セツロ!」
 セツロの心が凍てつき始めたことにホウ以外の誰が気付くことが出来ただろう。ホウの聞き分けの良さも災いした。彼は結局、周囲に流されるままに結婚することになった。それも、セツロに対して何一つ誤解が解けぬままに……。

 国として正式に縁組みが決まると、あとはびっくりするくらい早いように思われた。
 今まで「最後の聖域」と呼ばれ神秘に包まれていた国の王子の結婚である。世界中の国々がこの結婚に注目した。重臣達の思惑は成功したも同然だった。
 特にホウが花嫁を迎えるために初めて国を出たときの話は世界中で語りぐさになるほどであった。星を散りばめたような闇夜の髪、神秘の森を映す深い緑の瞳、精霊が現れたかのようなしっとりと落ち着いた美貌は誰よりも目を引いた。花嫁となる姫も近隣では美人と知られた人であったが、ホウの隣に並ぶのが気の毒なように思えた。あきらかに見劣りするのである。
 初めて会った姫は可憐な女性だった。まだ少女の域を出ていないように見えた。
「私はあなたの花嫁となるために育てられました」
 頬をばら色に染めてそう語る彼女はヒオウと名乗った。妃凰、つまり鳳の妃という意味の字を二重に付けられていた。一体いつから両国の間で二人を引き合わせる話がまとまっていたのか想像も付かなかった。
 せめてこの姫は大切にしようとホウは心に誓った。
 この姫は一生、真実の妻となることはないのだから。

 布令から約一年後。戴冠式とほぼ同時に国を挙げての結婚式が行われた。

 その夜のこと。
 王妃となった可憐な新妻は緊張して寝台の上で夫を待っていた。けれど夫となった美しい人は来なかった。待てども待てども来なかった。一睡もしないで待った。
 夫の結婚前の恋人が仲直りをエサに彼を引き留めていることなど知らずに、王妃は一人、冷たくなった寝台の上で待ち続けた……。


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翡翠抄 −ひすいしょう−
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