3.
ピィン。
琴の弦を弾(はじ)く。掻き鳴らす。
闇の中にそれはけだるく広がっていった。
たったひとかけらの礫(つぶて)で水面に波紋が拡がるように。
琴を掻き鳴らしているのはセツロ。柔らかな髪が顔の上にかかっていた。いつもは肩口より少し伸びた髪を左肩の辺りでひとつに束ねているのだが、今は解いてくつろいでいた。
口元に微笑みを浮かべて彼は流行りの恋歌を口ずさむ。辺りには冷気が漂い始めた。水色の目が細められ妖しく光った……。間が悪かったのだと、それは後に思った。
進む道を違えてからホウはほとんどセツロと会ってはいなかった。セツロの部屋から琴の音が聞こえたので部屋にいるのだと思い、久しぶりに訪れた。
女性の声で小さな悲鳴。入り口にたったホウを押しのけるようにして半裸の女性が転げまろびつ出て行った。
一瞬、動けなかった。思考は回転している。子供ではないのだ。それがどういう意味だかよく分かってしまう。石化の魔法をかけられてしまったかのように固まってしまった。
「……お前……どうしてこんなタイミングでやってくるかなぁ」
寝台の上で――そしてやはり半裸で――セツロが溜め息をついた。
ホウの喉になにか絡んでしまったかのように、目の前の男の名前が紡ぎ出せない。腹の底が焼け付くように熱くなり、顔は火を吐きそうにほてった。こみ上げてくるものを無理矢理下に押しやるように大きく喉を上下させる。
セツロは間違いなく適齢期の、健康な、男で。
そういうことがあってもおかしくはなくて。
それでも今までそんなことを思ってもみなかったものだから、どう対応していいのか分からなくて。ともかくホウは心底驚いていた。
「し、神官がなにをやって……!」
「ホウ……。お前、いうに事欠いて、それか?」
しょうがない奴だとばかりにセツロは苦笑混じりの溜め息をついた。
神官であれども現在は妻を娶る者もある。場違いなことをいったとも思うが、なにしろ混乱していた。
ホウとて適齢期の健康な男であるのだが、いかんせん周りがそういうことに縁がなかった。彼は大事に大事に育てられた王子様なのである。加えて幼少期より対人恐怖が染み付いていたものだから誰かと積極的に交流を持とうとはしなかった。否が応でも人は寄って来るのだから。いや、ひょっとするとどこかの女性はさりげなくホウに近づき、さりげなくそれらしいことをほのめかしたのかもしれないが、全然気付かないばかりか相手の真意を測りかね、却って自分から逃げ出したに違いない。
ホウが自分から接触を持つ相手はいつもセツロしかいなかった。「と、とにかく邪魔をしたみたいだからっ。今日はもう……」
釘付けになっていた足をなんとか動かして立ち去ろうとする。それを、セツロが止めた。
「……セツロ?」
セツロの目がいたずらそうに笑った。
「まだ顔が赤い」
「だっ、誰のせいだと……!」
「私のせいか?」
耳元で内緒事をするようにささやかれる。かかる吐息がくすぐったくて身をよじった。
セツロは逃げ道を塞いだ。
「お前の瞳は森の色をしているのだな」
引き寄せられる。ホウの力なら逃れるのは簡単だった。それをしなかった。なぜだか出来なかった……。花が落ちた。
……後から思えば、当時のホウが一番心を許していたのはセツロだったのだ。だからホウは、セツロだけには嫌われたくはなかった。その一夜の出来事を知る者は人間では誰もいなかったが、さすがに精霊達には隠せなかった。だが誰も何もいわなかった。精霊達はホウが好きだったし彼の幸せを望んでいた。彼が幸せで、それを隠しておきたいというならその意向に添いたかった。精霊には善悪の概念がない。
その後も他人の目を盗んで行為は繰り返され、いつしか心まで支配した。ホウはセツロを愛した。二人は恋人同士ということになった。
たったひとかけらの礫(つぶて)で水面に波紋が拡がるように……。