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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第三節第一項(007)

 罪

 小さい頃からおとなしい子だった。
 深い緑の瞳、夜を映したような黒髪という色彩がさらに彼を穏やかに見せたのかもしれない。
 穏やかで優しく、そして成績優秀な子供。普通ならばなんと出来のいい子供だろうと周囲から褒められただろう。だが、彼の周りの大人たちはそれで満足はしてくれなかった。もっと、もっと上を少年は求められた。なぜなら彼は生まれ落ちたときから次の王となることがほぼ確定していたからである。
 彼はそのため他の誰よりも厳しく教育された。誰よりも理想的な王となるように。

 ――あの子は大人しいのはいいが、もう少し覇気があってもよいのではないか?
 ――仮にも火竜を祭る家に生まれた子供が……いかに今の王の甥御とはいえ、あれではあまりにも情けなくはないか。生まれた家を間違えたとしか思えぬわ。
 ――滅多なことをいうな。あれはれっきとした火竜の祝福を受けた子供ぞ。
 ――しかし将来、あの少年が王となるには頼りなきことは否めぬ。
 ――せめて王にお子さまがお有りならばな。

 理想というものは追い求めればきりがない。大人達の身勝手な言葉は少年の耳にも入った。元々感受性の強い彼はそういった言葉のひとつひとつに傷ついていった。
 不幸なことに、彼は周囲の者たちの高い理想を押し付けるに当たって最適な人材だった。王の血筋に生まれた最初の男子、そして母親似の端正な顔立ち。血統と容姿という人をひきつける二大要素に恵まれてしまった上、彼は普通より少々頭のいい子供だった。最高の素材を目の前に若君の教育係たちは奮起した。
 彼は誰よりも努力した。生まれ持った性格は素直で、彼は出来る限り周囲の期待に応えようと努めた。よく学び、剣を手に取り、正しく魔法を操り。努力を惜しまない真摯な姿は精霊たちに愛された。精霊たちはいつも彼に優しかった。
 ……彼にとっては人間の方が冷たかった。

 周囲の過剰な期待を裏切ることなく、やがて理想的な王子様が出来上がっていった。

 ひずみが生まれていることに誰も気付かないままに。

   1.

 最初に出逢ったときはまだ二人とも子供だった。
 確か自分はまだ齢十を過ぎたばかりの頃。

「来なさい、ホウ」
 王弟たる父親が呼んだ。めずらしい、と思った。父親に疎まれていることは知っていた。
 父親は彼の物静かな性格を軟弱だと思っている。父親であるから、自分の子供が可愛いには違いないだろう。それなりに彼を愛していた。だが愛するがゆえに我が子の情けなさに失望しているのもまた事実だった。
 元々彼の家には活動家が多い。血の気が多いのが、と言い換えてもいい。そういう性質は火竜を祭り炎の精霊の加護を受ける家では必然的に多く出る。なにしろ炎の精霊はそういうのを好むのだ。そんな一族の中ではこの若君の穏やかな気性を不甲斐ないと思う者も少なくない。なにしろ父親がその筆頭なのだ。ホウは父親が苦手だった。どちらかといえば、王たる伯父の方とうまがあった。
 父親の側には見たことのない少年が控えていた。少年は彼を見ると微笑を浮かべた。
 父親は少年を彼に引き合わせた。
「私の息子、ホウだ。鳳、と書く。ホウ、この少年は雪鷺、セツロだ」
「はじめまして」
 鳳より少し年上であろうその少年は透き通るような水色の瞳をしていた。雪鷺というのは白鷺の別名である。雪という語感が少年の瞳に薄い氷を連想させた。
「しばらくお前の側に置く。彼は神官見習いだから、いずれはお前のよき片腕となるだろう」
 いずれホウが王となったあかつきには、セツロという少年に神官として彼を支えさせるつもりらしい。
 つまり。これまでの臣下候補たちとは違って本当の意味で学友ということだ。ホウの表情が明るくなった。
「はじめまして。これからよろしく」
 ホウは無邪気に少年と挨拶を交わした。生まれて初めての同年代の学友。ひょっとしたら本当の友達になれるかもしれないと彼は胸をときめかせた。

 セツロについての事情を聞かされたのは少年を下げさせてからだった。
「あれは生まれたときに氷竜の祝福を受けておる」
 告げられた事実の意味がわからず、彼はちょっとぽかんとした。
「あの……お言葉ですが、氷の竜というものが、存在するのですか?」
 よその国ではどうか知らないが、ここ、精霊の最後の聖域では子供が生まれると竜の祝福を受ける。精霊の種類は数あれど竜の属性は大きく四つ。火地風水、それぞれの竜が司る精霊たちを俗に四大精霊と呼ぶ。生まれた子供はたいてい祝福を受けた竜の―――あるいはその竜の司る精霊の好む―――性質に近い性格に育つ。ホウが火竜の祝福を受けたのは間違いではなかったかといわれるほどだ。
「それがおるのだ。火竜と水竜の混血にまれに生まれる」
「はあ……」
 だからそれがどういう意味なのか彼は父親の言葉を待っていた。父親は一を聞いて十を知るような態度を息子に期待していたため、いらいらと説明を始めた。
「氷は冷たい」
「はい」
 炎が人を焼き尽くせるくらい熱いのと対照的に、と彼は心の中で付け加えた。
「水はすべてを育む。炎は光と熱を与える。だが氷はすべてを凍てつかせる。氷竜の祝福は、その子の心まで凍らせてしまう。分かるか」
 ホウは黙って頷いた。ここで分かりません、などと答えれば父の怒りを買ってしまう。
「誤解なきよういっておくが、氷竜は……それそのものは決して悪いものではない。冬が来なければ春は来ないものだ。だが氷竜の祝福を受けた子供は別だ。いずれその心を凍らせ、悪の道に走るものが出る」
「彼がそうだというのですか?」
「馬鹿者! そうならぬようにと手元に引き取ったのだ!」
 首をすくめた。やはり父の雷を受ける運命であったらしい。
「氷竜自身は数も少ない。祝福を受ける者なぞさらに少ないわ。ここ十数年現れていなかったというに……そろいもそろって、氷竜の祝福を受けた者は不幸をまぬがれぬと見た。あれも早くに両親を亡くし、つい最近面倒を見てくれていた親戚を亡くした。なにしろ我が国の民は迷信深い。呪いだ、とかなんとか、誰もあれの面倒を見たがらぬ」
 父は溜め息をついた。そこには一人の父親というよりは一介の政治家としての顔がのぞいていた。
 父親が語らぬ部分が見えてきた。つまり、件(くだん)の少年を手元において正しい方向に導く、という建前で彼を監視したいのだ。よからぬことを考えないように。行動に移す前に彼をなんとかできるように。そのこじつけに自分を利用するつもりらしい。
「僕は何をすればよいのでしょう」
「側にいてやれ」
 この父親にしては曖昧な命令である。それとも自分が監視しろという意味だろうか。
「炎は氷を溶かす。お前の側におれば、あれに良い影響があるやも知れぬ。それに……年も近いし公私に渡ってお前のよき友となろう。兄王にも了承いただいておる」
 ホウは頭を下げた。父がそこまで自分のことを考えてくれていたと知り、胸が熱くなった。あの少年の水色の瞳はいたずらっぽく笑っていた。きっといい友達になれるに違いない。

 さて、頭を下げて感謝している息子を見る男の胸中は、「よき父親」としてはなかなかに最低なものだった。
 炎と氷は相反するもの。あれを側におけばこの子の内に反発するものが生まれるかもしれない、と打算を働かせていた。この父親は件の少年を利用して軟弱な息子に憎しみを植え付けるつもりだったのである。


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翡翠抄 −ひすいしょう−
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