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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第二節第五項(006)

 5.

 夜。今夜もサラは闇を抜けて麗しの罪人に会いに行く。
「また来たのか」
「来たとも」
 今日は金の髪を高い位置でひとつに束ねて、そして当たり前のような顔をして彼のベッドの端に腰掛ける。彼も不承不承といった様子でサラに茶を勧めた。性格ゆえか本心ゆえか、その手つきに乱暴なところは見当たらない。サラは笑って受け取る。
「ありがとう」
 誰かになにかをしてもらったら礼をいうのは当然。
 けれど顔をつき合わせて以来意地の張り合いをしていた相手にとっては新鮮だったらしい。彼がとまどったことなぞサラは気付かない。分かりやすい顔色は白い仮面に隠されて見えない。
「あー……、今日も銀の天使の導きとやら、か?」
 やはり今日も人一人分の空間を空けて王様は彼女の隣に腰を下ろした。
 サラは茶を口にしながらため息をつく。
「そう。あの女、今日は笑ってたぞ。最初は生気を感じさせない、お人形のようだったのに」
 捕まえてこの不思議な夢の背景を洗いざらい吐かそうと思っていたのに、いつのまにか逃げられていた。
「天使か……。私の世界では銀も天使も月を意味するものだが……」
「天使が、月?」
 銀が月を意味するものだという話はサラの世界にもある。
「月には天使が住んでいる、というんだ。まあ、お伽話だがね。月は病んだ者を癒しもするが狂わせもする。それらが天使の仕業だと、そういうのだよ」
「狂わせもするのか……」
 ひょっとして自分はあの天使に狂わされているのではないだろうか?
 自分と同じ顔をした、髪の色と瞳の光以外は全く同じあの天使に。
「対して、金は太陽を……ひいては光を意味する。闇を払うものだと教えている国もある。だが私の国では闇は単純に悪いものではない」
「ああ、単純な二元論だな。光と闇は対立するもので、光が正義で闇が悪だったりするんだ。うちの国も基本的にはそうだからな」
「宗教を信じていないのか?」
「苦しいときのなんとやら、というタイプでな」
 普段は神の名を唱えることもしないサラはそういうことにしておいた。
「……普通、太陽は男性神の姿で形容されることが多いのだが……お前を見たとき、太陽神というのは女神なのかもしれないと本気で思った」
 この台詞が彼の口から漏れたとき、サラが手にした茶碗を割らなかったことは奇跡に近かった。
「今日は結い上げているのだな」
 この王様は人を褒めることになんら抵抗を感じない人種らしい。サラはそばにある丸テーブルに茶碗を置いた。これ以上手にしていたら、いつ落とすか心臓に悪い。
 女神なんたらはおそらくサラの見事なまでの金の髪を例えていったものなのだろうが……それでも心臓に悪かった。気のせいか不整脈まで出てきている。
 サラは普段はポニーテールにしている。仕事のときはさらに丸めて束ねている。腰まで届く長い髪は馬の尻尾どころか黄金の滝のように背を流れていた。いつもは眠る前なので下ろしていたのだが、夢の中でも活動するとなれば下ろしたままの髪は邪魔だった。試しに夢の中で結い上げている自分を想像して眠ってみたらこの通りになったというわけである。
 サラは王様の長い黒髪に目をやった。自分のものよりさらに長い、足元まで届きそうな黒髪は束ねられておらず無造作に肩に、背に、流れていた。
 思わず手を伸ばしていた。
「邪魔にならないのか?」
 サラが一房手にとったそれは、しっとりとしたまっすぐな髪。同じ直毛でもサラは一本一本のコシが強すぎる剛毛である。なんてうらやましい髪質。それが感想だった。
 さて、当の王様は思わず逃げ腰になっていた。
「お前という女はいつもそうやって無防備に人に触るのかっ?」
「んー?」
 そんなわけがないだろう、と内心毒づきながら、案外抵抗も無く彼に触れた自分に驚いていた。どこまでも逃げ腰な彼に彼女本来の強気な性格が刺激された。いたずらを仕掛けてみたくなる。不整脈を起こしてくれたおかえしだ。そのままピンと髪をひっぱった。
「痛たっ」
 引き寄せた彼の目の前に、顔を近づける。
 挑戦的な目つきをして男の顔を―――仮面の奥にある瞳を―――覗き込んだ。
 かわいそうなくらい、うろたえた緑の瞳があった。サラは満足げに笑った。
「森の色だ」
 笑って、第一声はそれだった。男は大きく目を見開いた。
 手にした黒髪を放し、また二人の間に距離を置く。
「お前は私の金髪を褒めるけれど、お前の黒髪も綺麗だと思うぞ? それにその、深い森の色の瞳も。仮面で隠してしまうのがもったいないくらいにな」
 いいたいことをいって、ちょっとサラはすっきりした。
 うじうじと煮え切らない性格の優男だが始めて会ったときから綺麗だと思っていた。サラは男性の美醜など今まで関係ないと思っていたが、どうやら自分で思う以上に綺麗なものが好きらしい。
「綺麗だよ。私は詩的な言い回しは好きじゃないが、お前の黒髪は本当に綺麗だと思う。星を散りばめた夜空みたいだ」
「……なら、お前の……君の髪は太陽の光を紡いだようだ。今の私にはまぶしすぎる」
 男の声には影があった。そう、始めてあった夜の頃のように。

 彼は仮面に覆われていない唇に悲壮な微笑を浮かべた。
「どうして君はいつも私の一番痛いところを突くのだろうね」
 男は自分の罪を思い出していた。
 仮面の下で涙が流れた。それはサラには見えなかったけれど、空気は伝わってしまったようだ。
 男は身体を丸くして泣き、それをサラに隠そうともしなかった。
 こういうとき、どうやってなぐさめればいいのかサラには分からない。頭をなでてキスをするのもなんだか自分らしくなくて落ち着かない。
「初めて会ったときもそうやって泣いてたんだな」
 ぽつりとサラはつぶやいた。
「ずっと一年泣きつづけていたのか? そうして、私と会ったときはもう涙なんか涸れていたんだ」
 体をつめて、彼女は彼に寄り添った。
 彼は顔を上げて彼女を見た。
 彼女の瞳は強く輝いていた。燃えるような紫の瞳だった。けれど彼女は決して彼を責めているわけではなかった。
「話せ」
 サラはこの時ほど自分を傲慢だと思ったことはない。この男の罪をすべて受け入れる自信などない。けれど、誰でもいい、一人で耐えられない思いは吐き出してしまったほうがいい。聞き役が自分でもかまわないはずだ。
 男は薄ぼんやりとした目でこちらを向いている。
「すべて話したら……殺してくれるかい?」
 まだいうか、このバカはっ!
 サラは彼の胸倉をつかんで引き寄せた。
「いいから話せ! 私はっ!」
 威勢の良かったのは最初だけ。あとは、サラは蚊の鳴くような声になった。
「私は……まだお前の名前も知らないんだ……」
 そこでちょっと男は笑った。笑えるだけの元気はまだ残っていたようだ。すまない、と前置きして
「私の名はホウ。大きな鳥、という意味だ」
 と告げた。ゆっくりとサラの、胸倉をつかんでいた手を引き剥がし、彼は視線を落とした。
「ちょっと長くなるよ……」
 サラは頷く。彼はもうサラを見てはいなかった。
 彼女の手を握り締めたまま、彼の目はそこにない過去を見、その口からは彼の罪とやらが淡々と物語られていった―――。


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翡翠抄 −ひすいしょう−
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