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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第二節第四項(005)

 4.

 今日はベッドの側に一人用だろうと思われる丸テーブルがあった。なんとその上には茶の支度までされていた。
 温かな湯気を放つ茶がふるまわれた。
 木製の茶托に把手のない茶碗、その中にある薄いオレンジ色の茶。
 はい、と手渡されたそれはサラには馴染みのない物で、壊さないよう丁寧に受け取る。
「茶が出てくるとは思わなかったな」
「ご婦人が来るのが分かっているのにもてなしの準備をしないわけにはいかない」
「分かっていたのか?」
 自分がここに来ることを。
「……そんな気がしただけだ」
 それなら「分かっている」のとは違う気がするが、サラは追求しなかった。
 きっと自分も同じだ。分かっていた。
 かなり高い確率でもう一度ここを訪れることを「知って」いた。どうしてかは分からない。まるでその理由だけを忘れてしまったかのようだった。それでも確かに分かっていたのだ。また会える、と。
 行儀が悪いと思いつつもサラはベッドの端に腰掛ける。他に椅子になるようなものがなかったからだ。そして茶を一口含む。清々しい花の香りがした。茶碗は多分白磁。透かし模様の入った、凝ったものだった。茶托にも精巧な彫刻が施されている。
「……?」
 サラはあることに気付いて、不思議そうにぐるっとベッドを見渡した。固くて艶のある木で作られた天蓋付きのベッドである。見えにくい所にもびっしりと彫刻が施されており、色鮮やかな彩色までされている。紗(うすぎぬ)には綾織り模様が入っておりベッドに掛けられたシーツも掛け布団も一目で上質の物と分かる。つまり、なにもかも上質すぎるのだ。
「お前、昨日とらわれの身の上だといっていなかったか? それなのに……お茶とか、自由にできるものなのか? それに調度品もえらく上等なものだ」
 男はサラに背を向けていた。
 首だけをこちらに向け、
「私は特別だから」
 と、口元に微笑を浮かべ、笑った。
 サラはこの時ばかりは彼の仮面を邪魔だと思った。目の表情が読めない。人間は笑いたくなくとも笑うときがある。初めて彼を怖いと思った。読めない表情の下で彼は何を考えているのか分からない。
 サラは手にした茶を飲み干した。
 茶碗をテーブルの上に置く。
「詮索されたくなかったら、そう言って欲しい。私は……私は知りたいんだ。どうして私は二晩続けてこんな夢を見るのか、ここはどこなのか、あの銀の天使は何者なのか……」
「そして」
 男はサラの言葉の後を続けるように言った。
 サラが顔を上げると目の前に白い仮面があった。腰掛けているサラの顔をのぞき込むかのようにやや腰をかがめて男は続ける。
「私が何者なのか……」
 闇に溶けそうな黒髪に縁取られて白い仮面が浮かんで見えた。のしかかられているような圧迫感。重く見える黒髪と、仮面ですら隠し切れない美貌が一種の迫力を持ってサラの目の前にあった。並の人間なら有無を言わさず圧倒される。
 だが彼女はそこらにいるような並の神経を持った人間ではなかった。その圧迫感をはねつけるかのようにサラは静かに彼を見つめ返す……否、睨み返した。サラの纏(まと)う空気がいっそう強い気配に変わる。
 視線が絡み合う。男はサラのきつい紫の瞳を見、サラは仮面の奥に隠された深い森の色した瞳を見た。目に見えない一瞬の攻防。先に引いたのは彼のほうだった。視線を外し背を伸ばして姿勢を正した。
「お前はやはり太陽のように苛烈な性格をしているな」
 ぽつりともらす。
「隣に座っても?」
 紳士的な態度で今度は本当に穏やかに問う。ただし微笑みを浮かべてはいなかった。サラがうなずくと、彼はサラと身体ひとつ分の空間を空けて隣に腰掛けた。
「知りたいというのなら私の知る限りのことは答えよう。……ここは私の離宮、私の生まれた国、私の生まれた世界。そしておそらく、お前の生まれたところとは全く違う世界」
 そこで彼は一呼吸置いた。
「つまり異世界だ」
 サラはちょっと目を見開いた。
「私の国は外の国とは少々事情が違っていてね。私たちの世界では精霊はすべての自然に宿り世界の輪を動かし、妖魔は人の心の闇に住み人を惑わす。だが人と密接な関わりを持つ妖魔と違って精霊は滅多に人前に姿を現すことはない……普通はね。だが私の国では精霊は人の姿をとって人の隣で笑い、幻獣たちは道端で昼寝をしている。人間と精霊の関係が密接なのだ。だから私の国は精霊の最後の聖域と呼ばれている。そして、この国の王は国王である前に精霊たちの長であることが求められる」
 彼は、馬鹿馬鹿しい、と吐き捨てるように言った。
「人が精霊を統べるのだと、そんなことがあってたまるものか。精霊の長と呼ばれるのは精霊を支配しているからではない、精霊たちが、その人間を無条件に好きでいてくれるからだ。だから王の願いを聞いてくれるのだ。決して命令を聞くのではない。命令などしていい相手ではない。人は……彼らの前では遥かに矮小な存在なのに」
 それはまるで懺悔だった。仮面の男は泣いているように見えた。
「では……お前は精霊なのか?」
 サラは昨日から聞いてみたかったことを聞いた。それならうなずけると思ったのだ。彼は普通の人間とは思えないほど綺麗なのだから。美しいという基準はそれぞれだ。その時代、場所によっても、さらに言えば見る人が変わればその評価は変わってくる。だが「美しい」と評価される者は他者に無条件に好意を寄せさせる。たとえその好意が本人にとって迷惑以外のなにものでもなかったとしても、だ。そして過ぎた美しさは容易に現実感のなさに繋がる。
 サラは彼を美しいと思った。
 彼がサラを美しいと思ったことなど知らない。
「私は人間だ」
 それが男の答えだったとき、サラはちょっとがっかりした。こんなに綺麗なのだから精霊でもよかったのに、と心のどこかで期待していたらしい。
「私は……この国の王だ」
「王様!?」
 それは、先ほど言っていた精霊の長を兼ねるという王様のことだろうか。彼は否定しなかった。それなら調度品の見事さも分かる。例え彼自身が必要ないと思っていても最高権力者にみすぼらしいものを持たせる国民はまずいない。愛されている王様ならなおさらだ。
「だから私はこんなになっても生かされている。私に死なれては困るのだ。なにより精霊たちが私を死なせてはくれない……私は死ねないのだ。お前に会ったとき、天が私に裁きを下しに来たのかと嬉しかった。だがそれも思い違いのようだ」
 裁き、と。
「こんなになっても、とは、どういう意味だ」
 自然とサラの口調は強いものになっていた。詰問口調、というものである。男は顔にある白い仮面に手をやった。
「これは罪人(つみびと)の証。さすがに今、王座にあるものを投獄するわけにはいかなかったらしい。牢屋の代わりにこの離宮に一年間の蟄居を命じられた。……あと九日もすれば私は再び光の元へ出なくてはならない」
 あと九日。またキーワードが重なった。サラの謹慎期間とそれはぴったり一致する。


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翡翠抄 −ひすいしょう−
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