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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第二節第三項(004)

 3.

 ―――お前は人間なのか?
 それは問いかけ。
 そしてサラは問い返してみたかった。
 ―――じゃあ、お前は?

   ***

 そこでサラは目を覚ました。
「夢……」
 日は高かった。サラはゆっくりと身体を起こす。
 あくびをひとつ。
 あれは夢だったのだと理解するまで時間がかかった。
「やはり、夢、なのか?」
 我知らずそんな言葉を口走った。
 夢を見たのだ。長い髪をした仮面の男の夢。優雅で繊細で、自殺願望のある軟弱な……それでいてちょっと気の強そうな綺麗な人だった。目を瞑ると細部まで思い出すことが出来る。闇そのもののようだと思った黒髪は間近で見ると星を散りばめた夜空のように美しく輝いていた。白い仮面は彼の顔半分をぴったり覆い隠して、まるでわざわざあつらえたかのようだった。それは確かに精巧な細工が施してあった手の込んだものであったけれど白さが反射して剥き出しの骨を見るかのような無機質な憂鬱を漂わせていた。
 長い黒髪に縁取られた白い顔、仮面。布地をたっぷりとった服にきらびやかな装身具が良く似合っていた。そう、まるでお伽話の王子様のような。それもヨーロッパ系の王子様ではなくオリエンタルな情緒あふれた王子様である。
 王子様。自分にとっては聞き慣れない単語だ。あまりに馬鹿馬鹿しくてサラは思わず苦笑する。他でもない自分がそんな単語を思い出すとは思わなかった。
 その仮面の男はふたつの爆弾発言をしてくれた。
「私を殺しに来たのか」「お前は人間なのか」
 後者はまあいい。人間であることは間違いないのだから。前者は引っかかる。あの男は殺してもらいたかったのだ。どんな理由があって死にたがっていたのだろう。
 そこまで思い出してサラは心の底からふつふつと怒りが込み上げてくるのを感じた。
「バカか、あの優男は!?」
 思わず声に出して怒鳴っていた。夢の話なのに妙にリアルな記憶がある。こんな、一夜限りの夢なのに。勢いをつけてベッドから起き上がるとシャワールームに飛び込んだ。頭をすっきりさせて気分を変えるために。
 ―――そして食事を作って洗濯をして掃除をして、一日の大半を家事労働に費やした。
 いつもは仕事でホテル暮らしなので家事は久しぶりだった。生活の一部ではなかったからかえって楽しかった。これから九日、何をして過ごそうか。急に手に入ったゆったりした時間をサラはもはや持て余し始めていた。

 夜、早めの夕食を終えるとシャワーだけではすまさずにバスタブに湯を張り身を沈めた。念入りに体を磨き手入れをし、髪を洗った。ゆっくり湯に浸かるのも久しぶりだと思った。これから謹慎期間中、入浴とボディケアにはたっぷりと時間をかけられそうだ。
 誰もいないのをいいことにそのままの姿で寝室まで移動する。湯上がりの体はハーブの石鹸の香りに包まれていた。両手にオイルをとり、マッサージをしながら全身に擦り込む。暖められた肌の上でオイルはすぐに延びなじんでいく。オフホワイトのバスローブを羽織ると鏡台の前に座った。鏡の中の顔はつやつやとピンク色に輝いていた。肌の調子はすこぶる良好。いつものように化粧水をつけ、乳液をつける。普段はさらに、やれ保湿クリームだ、パックだ、美容液だ、あれやこれやと肌にすり込まねばならないが、十分に休息した今日の肌ならばこれだけでいい。長い金髪にドライヤーをあて、いつもより丁寧に梳(くしけず)った。髪にもオイルをわずかに加えている。金髪はいつもにまして艶やかに輝いた。
 サラは鏡を見て満足げに微笑む。
 サラは十分「美人」に分類される顔をしている。生来の気の強さがさらにその美しさに猛々しさを加えて人の目をひいた。すっくと立ち上がって全身を映す。背は高い方だ。体は痩せ形。あまりでこぼこのないプロポーションである。ようするに、胸が小さい。男の子のようだと子供の頃からいわれていたし自分でも女らしくありたいとは思わない。髪を長くのばしているのはそんな彼女の唯一女性らしいところかもしれない。人にそれをいわれるのが嫌で「切るのが面倒だから」と説明している。本当はなによりも気に入っている髪なのに。
 夜着の代わりに白いシルクのキャミソールと黒のスパッツを身に付ける。スパッツの下もシルクである。そして、いつもは眠る前には付けないピンクのリップを引いた。
 なんとなく予感があった。
 愛用の香水を枕元にちょっと吹き付ける。サラは明かりを消し、ベッドに潜り込んだ。

   ***

 ―――再び目を開けると、サラはやはり闇の中に立っていた。目の前には銀の天使が浮かんでいる。
「……またか」
 天使は今度はにっこりと笑っている。
 天使は人差し指をたてて唇にあて、そして背景の闇をカーテンでもひくようにすっとひいた。
 そこには、ほの暗い蝋燭の明かり。そして闇から生まれ出たような例の黒髪が立っていた。
「来たね」
「別に来たくて来たわけじゃないからな」
 憎まれ口をたたきながらもピンクのリップは正解だと思った。


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翡翠抄 −ひすいしょう−
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