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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第二節第二項(003)

 2.

 仮面の男は長く艶やかな黒髪を肩口から滑らせサラを見た。形の良い唇からぽつりと言葉がこぼれた。
「お前は私を殺しに来たのか?」
 ぎょっとする。
 だが、この男からこぼれた言葉はとても優雅で、その言葉の持つ重みをリアルに感じさせなかった。典雅にして繊細。夢物語の主人公にはとても似つかわしい。だがサラは生きた生身の人間で、更に言えばこういう冗談は大嫌いだった。
「誰がお前なんかを殺したがるか。赤の他人のために殺人者の汚名を着るのはごめんだ」
 つん、と顎をそらして言い放つ。
 それはこの上なく偉そうな態度だった。悪いことに彼女は誰に対してもこういう物言いの仕方をした。サラが他人の誤解を招きやすいのはこの傲慢な態度と物言いのせいである。加えて本人は無自覚なのだがこういうとき彼女の紫の瞳はこの上なくきつい輝きを帯び、下目遣いに相手を見るものだから相手は非常に不快な思いをするのだ。
 もちろん目の前の男も同じ事を思ったに違いない。だが、彼はちょっと目を瞠った後、がっくりと頭を垂れた。誰の目にも明らかに落胆したのだ。さすがにこの反応にはサラも驚いた。
「……死にたかったのか?」
 男は静かに首を振った。……なら、なにもさっきのようなことをいわずともいいだろうに。男の言動が分からない。目の前の男はサラのことなど眼中にないかのようにまた、周囲の闇と一体化してうなだれた。
 男はよく見るとつくづく、おかしな格好をしていた。重そうな装身具の数々にたっぷりと布を使った白いローブはまるでお伽話の衣装のようである。加えて男の黒い髪は足下まで伸びていて、こんなに長い髪の男に出会うのは初めてだと彼女は思った。その長い髪が全身を覆い隠して周囲の闇に溶け込ませていた。いや、髪の色のせいばかりではないだろう。男はとても静かな気配しか発していなかった。
 男の繊細な声がまた細く声を紡いだ。
「私に死ぬことは許されない」
 その台詞が表している事実は実に端的で。
 そしてサラは、吐き捨てるようにいった。
「つまり死にたいんだろうが」
 こんな男は人間の屑である。死にたいけれど、なにか、死ねない理由がある。それを言い訳に誰かに殺して貰いたいのである。許されないというからには、本当は許して貰いたいのだから。いじけるだけいじけて自分ではなにもしない、そんな屑の典型だと判断したのだった。
「……お前に何が分かるというのだ」
 男の声は沈んでいた。だがサラは容赦しない。
「お前こそ。私の何が分かるというんだ。お前は勝手な妄想で私にお前を殺させるつもりか?」
「お前は今、嫌だといったではないか。それで話は終わりだろう」
「私はな、自分から死にたいという奴はろくでもないものだといってるんだ。馬鹿か、お前は!」
 今度こそ男は怒った。
 仮面の下の顔は真っ赤になっているのだろう、勢いよく立ち上がった。
「出て行きなさい。何の理由があって私の離宮にいるのかは知らないが、即刻出て行ってもらいたい!」
 ぴっ、と形のいい指が暗闇の中を指す。
「出て行けって……どこへ?」
 サラの目には相変わらず、周囲は闇ばかりなのに。
 男はふと周りを見回した。……かすかに男が動揺した。今まで自分がいた場所ではないことにやっと気付いた、そんな感じだった。
「今、お前は『私の離宮』といったな? ここはどこなんだ?」
 それこそサラが一番知りたかったことである。
 男は今度はまじまじと彼女を見つめた。
「ここは、私の幽閉されている離宮だ。……つい先ほどまでは確かにな。お前は一体何者なのだ? ここには誰も近づけないはずなのに……それこそ精霊や妖魔ですら。私は目を開けたまま夢でも見ているのか?」
 幽閉。夢。嫌なキーワードだ、とサラは眉間に思わず作ってしまったしわを人差し指でのばした。
「……あのな。私の方も『これは今、私の見ている夢の中の出来事だ』といったら……お前、信用するか?」
 沈黙が降りた。
 銀の天使のほほえみが瞼に浮かんだ気がした。あの女、今度会ったら洗いざらい全て吐かせてやる。サラが心の奥で呪いの言葉を吐いたとき、目の前の男はくたりと腰を下ろした。男が腰掛けたのは天蓋付きの寝台だった。あたりの闇がそこだけすうっと引いたようにはっきりと目にすることが出来た。
 寝台に腰掛け足を組んで、その上にひじを突き、まるで祈るように額ずいている姿はまるで懺悔である。
「いっそすべてが夢ならばよいのだがね。あいにくそうもいかないことは自分が一番よく知っている。……聞かせてくれないか、お前は一体何者なのだ?」
 人も目も見ないで仮面の男は溜め息まじりにいった。
 失礼な男だと思いながらも、ここが彼のフィールドであることが分かったので不承不承頷いた。何より今は現状を知ることだ。
「何者だといわれても……名前はサラ。夢の中で銀の天使に出会って、指差す方向に歩いてきたらここにお前がいたんだ」
「天使?」
「おかしいか?」
 自分でも自分で見たものが信じられないが、そうとしかいいようがないのである。例えこの世に天使などというものが存在しないと思っていても、だ。だが相手は別の意味で驚いたのだった。
「天使が導くのは人間と決まっているが……ではお前は人間なのか?」
「は!?」
 今度こそ本当にサラは「これは夢だ」と認識した。人間以外の何者に見えたというのだろう。夢だ、そうだ、そうに違いない。だが黒髪の仮面の男はそれこそ本当に、不躾なほどまじまじと彼女を見つめたのだった。


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