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翡翠抄−ひすいしょう−

序章第二節第一項(002)

 出逢い

 サラは運命など信じない。
 だから、出会えたのは奇跡だと思う。奇跡のようなあの十日間。出会って別れるまで、わずか十日。

 1.

 今から約一ヶ月前、彼女は十日間の自宅謹慎を命じられた。
 ただの謹慎ならば、サラは厳粛に受け止め、大人しく反省しただろうに。
「くそ親父!」
 汚い台詞をはいてサラはガチャンと電話を乱暴に置いた。電話線は切られていた。
 携帯電話は取り上げられてしまった。電話線が切られてしまってはEメールも出来ない。彼女の父親は徹底的に彼女を仕事に参加させるつもりはないらしい。
 サラは今の仕事が好きだ。父親の跡目を継げと誰に強制されたわけでもない。仕事が楽しくて、だからつい周りが目に入っていなかった。少々やりすぎたかとは自分でも自覚している。
だが、そのための自宅謹慎にしては今回の処置は重かった。
「冗談じゃない……!」
 期限は十日。あと十日も自分は都会から離れたこの家で暮らさなくてはならない。母親は早くに亡く、父親は滅多にここには帰らずホテル住まい。そこそこ広い家にはサラ一人である。外出は禁じられていないが、車は取り上げられてしまった。歩いて行ける距離には何もない。腹立ち紛れにそのあたりのクッションを壁に叩きつける。そんなことをしたって腹立ちがまぎれるわけでもないのだが。
 彼女は気を落ち着けるため大きく一つ息を付くと、自室のベッドの上にごろりと横になった。
 ベッドの枕元には一枚の絵が飾られていた。長い銀髪の女性像が描かれている。母親がモデルなのだそうだ。母親の写真は一枚もない。サラが生まれて間もなく亡くなったという。だからサラは母親の顔を知らない。
 絵の中の女性の顔ははっきりと描かれていない。父親は事あるごとに「お前は母親とうり二つだ」というから、きっとこの絵の女性はサラと似た顔をしているのだろう。
 サラは絵に手を置いた。
「……ただいま、母さん。しばらくここにいるから」
 らしくない感傷だった。この家は彼女の母親のために父親が買ったものだ。母の思い出、というより父が母に向けた愛情がこの家にはあふれている。だがサラは母親を覚えていないし、サラ自身はこの家で育たなかった。自然、家から足が遠のいた。
 ……こんなことを考えている自体、らしくない。弱気になっているのかもしれない。
 今夜はもう眠ろう。眠ってしまうのだ。また仕事が始まれば眠りたくとも眠れない日々が始まるのだから。
 サラは瞼を閉じた。……明日から退屈な十日間を耐えねばならない。

 夢を見ていた。
「自分がはっきりと夢を見ていると自覚した夢は久しぶりだな」
 夢の中で一人ごちた。足下はしっかりしている。しかし右も左も、ただ闇だ。
 上から柔らかい光が降りてくるのはすぐに気付いた。辺りを照らすだけの力のない柔らかな銀色の光だった。見上げると、銀色の光を纏って天使が降りてきた。長い銀髪を翻した若い女性だった。
 おもわずぎょっとした声をあげる。
「母さん!?」
 そんなわけはもちろんない、と自分に言い聞かせる。だが銀色の髪の女性はサラと同じ顔をしていた。同じ目元、鼻筋、口元、双子でさえここまで似るかと思うようなそっくり同じ顔だった。広がった長い髪の中に大きな白い翼が見える。
 サラと違うのは穏やかな瞳だった。サラはきつい瞳をしている。同じ紫の瞳なのに印象が全く違った。
 すい、と銀の天使は暗闇の中を指した。
「なんだ? あっちへ行けって?」
 問い返したが天使は何も答えてはくれなかった。にこりともしない。けれど、なにかを訴えるようなすがる目をしていた。
「しゃべれないのか?」
 問いかけは無視されたようだ。先ほどから微動だにせず、目線よりやや上に浮かんだままだ。
 天使が指し示した先にぽつりと明かりが灯った。天使が纏った銀色の光とは違う、小さな光だった。ひどく弱々しい光に見える。
「……行けって?」
 気が進まなかった。だが、あの光も気になる。
 サラはしぶしぶといった様子でそっちに進んだ。本音をいえば誰とも分からぬもの(天使といえども、だ)に命令されて動くなんて真っ平だった。だが、銀の天使は命令したわけではないし、あの光は確かに気になるのだ。サラは自分の好奇心に素直に従うことにした。それが銀の天使の思惑にはまることになるのが非常に癪に触るのだが。
 明かりを頼りに進んでいく。はるか遠くに見えたそれはその実たいした距離ではなかった。そこには光など存在しなかった。
 そこには。
 暗がりの中にうなだれた闇があった。
 闇がゆっくりと動き出した。さらり、と肩口を滑り落ちる。それで初めて、それが人の長い黒髪であるのだと気付いた。黒髪を纏うその人物はサラの姿を目の端に捉え口を開いた。
「誰だ?」
 詰問口調ではないのに思わず背筋が伸びる。
 ……男の声だった。太くなく、どちらかといえば特徴のある繊細な声。闇と紛うばかりの黒髪の下には端正な白い顔……は、なかった。代わりにそこにあったのは顔の上半分を隠すような飾り気のない仮面。……息を呑んだ。
 これが二人の、出逢いだった。


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翡翠抄 −ひすいしょう−
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