天井の瓦解した石造りの廃屋は斜めに射し込んだ朝の光によって白く輝いていた。
あたりは清浄な空気に満ちていた。そこが神殿であった頃の名残のように。
そのさらに奥、祭壇のあったであろう場所に、二人の少女が跪き祈りを捧げていた。
全く同じ顔をした二人の少女は、ただ髪の色だけが異なっていた。金と銀。だがそれがさらに二人を一対に見せていた。
二人は熱心に何を祈っているのだろうか。
この時点で、それは誰も知らなかった。時は巡り……彼女たちの祈りは、遠い異世界の女性の胎内に結実した……。
***
妊娠検査薬は陽性を示していた。
トクン。
心臓の音がひときわ高く鳴った。
サラはおもわず下腹部に手を当てる。子供? この中に?
呆然と、彼女は下腹部を眺めた。人間予想もしなかったことにいきなり遭遇すると頭の中は真っ白になるものである。思わず固くなった体だが一瞬きごとに肩の力が抜けていく。そしてじわじわと広がってくる笑顔。
私の子供……!
「会社、休まなくちゃな……」
ぽつりと、夢うつつで口に出した言葉にはっとサラは我に返る。そうだ。子供を産むとなれば仕事を休まなければ。親が援助してくれるとは思わない。休職している間、完全に無収入になってしまう。
「参ったな……なにか、手を打たないと」
そういいつつ、その顔に悲壮感はまるでなかった。
サラは妊娠検査薬をダストボックスに放り込むと、気合いを入れてトイレを出た。
堕ろす気は全くない。ならば、どうやったら安心して産めるか考えればいい。カツカツカツカツ
小気味のいい靴音を鳴らし、サラはオフィスを直進していく。長い金髪は仕事の時、小さくまとめられている。さらりと落ちた髪の一房が濃紺のパンツスーツに映える。きっ、と前を見据えた瞳は紫。肩で風を切って歩く姿は女性社員のあこがれの的。仕事は有能、加えてこの会社の社長令嬢、名実共に次期社長候補。けれど今はまだ入社二年目のひよっこにすぎない。
「父さん」
軽いノックをして、社長室のドアを開ける。
「ここでは社長と呼べ」
「プライベートな話だよ」
男勝りな口調。苦々しげな父親の顔はこの際無視する。二言目には「お前の母さんはそれは女らしい人だった」と続くのは分かっている。
「用件は」
「休暇を取りたい。今すぐじゃない、だが長期で」
父親の顔はさらに苦々しくなった。
どこがプライベートだ、と口の中でぼやくのをサラはちゃんと聞いた。
「この前の十日間の自宅謹慎では足りないか」
「謹慎? 監禁の間違いでは?」
にっこり、と皮肉たっぷりに笑う。
二人とも企業人。親子であろうと腹のさぐり合いはしょっちゅうだ。とある日本人秘書は狐と狸の化かし合い、と表現した。だが、本人たちはお互いを尊敬し尊重しあっているといいはっている。
「父さん、私はあまり時間を割きたくないんだ。ただでさえ十日間の謹慎のせいで仕事が遅れてる。ここへは用件をいいに来ただけだ」
簡潔に言い切って立ち上がる。父親が制止の声をあげた。
「お前は事を急ぎすぎる。何のための謹慎だったか分かっているのか」
もちろん彼女にだって分かっている。成果を急ぐあまり少々強引すぎた仕事をした結果、直接の上司の命令で謹慎をくらった。それはとても反省している。もっともそれを監禁同然に強行したのはこの父であるが。
だが、それ以上に。
「ダッド……私はあの十日間を決して不必要だったとは思っていないよ? 例えあなたの思惑とは大きく外れていても。それどころか本当に大切な時間だったんだ」
振り返ってにこっと笑う。心からの笑み。
母親に似てきたな、と彼は思う。
今にもドアの外に出ようとする娘の姿に、彼はあわてて椅子から立ち上がった。
「ま、待て。一体何のための休暇だ!」
サラはそれには答えなかった。無言でドアを閉める。
今告げたら堕ろせといわれるかもしれない。ぎりぎりまで周囲を欺いて見せる。
サラは再び軽快な靴音をさせて歩いていった。サラに夫はいない。つき合っている恋人も……いない。
けれど大丈夫、一人でだって産んでみせるとサラは誓った。
何に?
生まれて初めて愛した男に。
夢のような十日間。いや、たった今までそれはサラの認識の上であくまで「夢」だった。それが今、紛れもない現実だったとサラの胎内の命が主張している。こんな話は誰も信じないだろうが、……お腹の子の父親は夢の中で出会った「お伽話の王子様」だといってやったら、みんなどんな顔をするだろう……?
サラはそこまで思うとくすくすと小さく笑った。
もっとも彼女自身、己の身に起こった出来事でなくば、とうてい信じられなかっただろうが。