十和田茅による30の戯言(29)  (03/11/03更新) [目次に戻る]

 29. おかえり

「結婚してください」
 男のプロポーズに、女は一瞬頬を染めた。が、すぐに狼狽する。
「……いえ……そんな……」
「私は真剣なんです」
「いけませんわ、そんな。私はあなたより二十も年上ですのに……」
 もしも、この会話を聞いている第三者が側にいれば彼らを見てどう思っただろうか。少なくとも当事者二人は真剣だった。そして、この場には誰もおらず、ただボケの花だけが彼らの側にたたずんでいるだけだった。
 男は諦めなかった。なおも食い下がる。
「親子ほどの年の差がなんだというのですか。いずれ私が、あなたを看取ります」
「……うちの猫も?」
 女の家には今年十五になる老猫がいる。
「もちろんです」
 男はしみだらけの手でしっかりと、しわだらけの華奢な女の手を取った。

 男、五十七才。女、七十七才。
 互いに子供を全員独立させ伴侶に先立たれ、穏やかに第二の人生を歩んでいた。
「……今すぐにはお返事できませんから」
 それでも七十七の女は握りしめられた手のぬくもりに、少女のように恥じらいながら悪い気はしていなかった。彼女はその瞬間、まぎれもなく「女」だった。妻でも母でも祖母でも、まして枯れきった老婆などでは決してなかった。
 今、第三の人生の春が始まる。

「おばあちゃんね、留三さんと再婚しようかと思ってるの」
 彼女の一言は、平和な息子一家を混乱の渦の中へと突き落とした。電話口での会話が終わった後、まず長男夫婦がすっとんできた。不況でなかなか休めない最中、有給をもぎとって田舎に駆けつけてきたらしい。
「お母さん、何を考えているんですか!」
「お義母さま!」
 もちろんこの二人は大反対だった。口々に反対意見を彼女に浴びせかける。
「年甲斐もなく再婚なんて!」
「お義父さまが亡くなられてずっとおひとりで暮らしてきたじゃないですか」
 次に次男が飛んできた。家庭内別居中の次男の嫁はどうやらこの騒ぎには無関心らしい。次男は次男でまた大反対だった。
「なぁ、おふくろ。俺達を捨てていくのか? 再婚するってのはそういうことなんだぜ。オレは留三さんを親父とは呼べないし、彼だって年の近い俺達を息子とは呼べないだろう?」
 子供達が留三さんと養子縁組をして彼の籍に入らない限り、親子関係はない。彼女はそう思っていたから、別に親子にならなくてもいいのよといったが次男が納得した様子はなかった。
 次に娘から電話がかかってきた。会いに来てもくれない。
 この娘が一番、直接的な物言いをした。
「お母さん、なにやってんのよ! いまさら再婚なんてされたら、私たちの遺産の取り分が減るじゃない!」
 ……これくらいずばりと本音をいわれるといっそ清々しい。
 それが分かっていたからこそ、素直に求婚を受けることができなかった。
 これがあるからみんな反対するだろうと。

 女は、ずずず、と音を立てて湯飲みから緑茶をすすった。
 膝の上には猫が寝そべっている。七十七の彼女の今を支えているのは、この一匹の老猫のみ。我が儘で、やんちゃで、それでも一緒に年老いてきた。子供達は側にいてくれなかった。子供らには子供らの生き方があるのだからと自分に言い聞かせ、独り寒さのしみる夜を猫のぬくもりで越えてきたのはもう幾晩のことか。
 たまたま短歌と絵手紙のサークルで彼と出会わなければずっと一人だったろう。同じサークルの人と何人かやりとりをしてきた。そのうち便りは届かなくなり、代わりに灰色のはがきが一通、正月前にやってくる。彼女はそれを文箱にいれて大事にとっておいた。中には故人になったとの便りさえこない知人もいた。ただ飽きて、手紙がとまったこともある。留三さんとはなぜかずっと続いた。月に一度、必ず季節の歌が届く。いつのまにかそれを楽しみにしている自分がいた。
 あるとき手紙に一筆添えてあった。
「そちらに向かう用があります。会えますか」
 もちろんだと返事を書いた。
 後日、はがきではなく封書が届き、そこには優しい言葉の数々が連ねられた手紙と写真が一葉。ショックを受けた。古めかしい名前だからてっきり自分と同い年くらいだと思ったのに写真の中にいたのは息子と同じくらいの若々しい――少なくとも鏡の中の自分よりは――男の人で。
 老いた自分が急に恥ずかしくて結局その封書にだけは返事を書けなかった。
 約束の場所に行くことは行った。精一杯のおめかしをして、けれど背中を丸めて待っていた。彼が自分を見つけないことをそっと祈る。彼は彼女の姿をしらない。写真を送ったことは一度もない。彼が見つけられなくても仕方のないことだと。
 やがて彼があらわれた。きょろきょろと周囲を見渡す。その様子を見ていたらますますいたたまれなくなって彼女は足早にその場を離れようとした。その背中から
「ヨシノさんですか?」
 声がかかった。
 一目で見つけてくれた。ゆっくりと振り返る。こんなしわだらけの老婆であきれられやしないかと、内心びくびくしながら。
 彼は笑顔になった。目尻にしわの出来る、穏やかな笑みだった。
「ヨシノさんでしょう? ボケの花がお好きだと聞いていましたから、まさかと思って」
 見ると近くにボケの花が咲いていた。緊張してそんなことも目に入っていなかったのだ。彼からはボケの花に見入り、歌を考えていたように見えたという。
 そのときから彼は特別な人になった。
 だけどそれは「お友達」の中での特別な人で。
 まさか彼からプロポーズされるとは思ってもおらず、ついでにいえばもっとびっくりしたのが、それを受ける方向で考え始めている自分自身だった。

 二人はそれからもデートを重ねた。
 彼の車でドライブにもいった。
「今年の春には梅を見に行きましょう」
「素敵ですね。鶯がいれば一句できるかもしれませんね」
 二人とも互いの家庭の事情はこれといって話さない。が、おそらくは相手も同じくらい家族の反対に遭っているんだろうと予想は付く。デートに遅れたり、直前になって出かけられなくなったりと、今までになかったことが起き始めていたからだ。
「出かけても、おかえりといってくれる人がいません」
 彼はいつだったか寂しそうにいったことがある。
 長年連れ添った奥様を長い闘病生活の末に看取った後、ぽっかりと自分の中に空洞ができたのだという。子供達はやはりそれぞれの生活が忙しい。一人暮らしをしながらめったに帰ってこない娘、やはり仕事の都合で海外を飛び回り帰ってこない息子。引きこもってばかりではいられないと出かけても、誰もいない冷やりとした家に帰った瞬間がとてつもなく寂しいともらした。そんなとき、女の描いたあたたかさのある絵手紙に支えられたという。
 この人に温かい家を与えたいと思った。いずれこの人に看取ってもらいたいと思った。それは同情なのか感傷なのか愛なのか、もうそれすら分からないけれど。

 ついに彼女は切り出した。
「留三さん」
「はい」
「わたくしね……お式はうぇでぃんぐどれす、というものがよろしいわ。神様に誓うでしょう。死が二人を分かつまで、って」
 それははっきりしたプロポーズの承諾の台詞だった。
「……ご家族は?」
「ええ……反対されました。ですけれど、あの子たちももうよい大人なのに、いつまでもお母さん、お母さんと甘えてばかりにはいきませんでしょう」
 男はじっと熱っぽい視線で女を見つめる。女は「何かついてます?」とベタな言い訳をしながら頬に手をやった。
「やっぱりヨシノさんはすごい」
 率直なほめ言葉に、彼女は女学生に戻ったかのように頬を染める。若い娘なら薔薇色にというその色は、黄ばんだ肌が邪魔をしてボケの花の色に染まっていた。年輩ならではの美しさがあったことを女は気づいていない。

 男と女は書類を書き始めた。婚姻届ではない。まずは遺言状の作成である。子供達はその間も大反対。むろん両家共に、だ。しかし愛し合う二人に周囲の雑音は聞こえなかった。遺産の取り決めは面倒なのでさらりと一筆、「慈善団体に寄付」。ブーイングの嵐はまるでライスシャワーのように降り注ぐ。幸福なふたりの間でにゃあと一声、老猫が祝福してくれた。
 今、第三の人生の春が始まる。
「病めるときも健やかなるときも、富めるときも貧しきときも、変わらず伴侶を愛することを誓いますか?」
 男、五十七才。女、七十七才。
 死が二人を分かつまで。
 それは文字通りの意味で。

   *

「ただいま」
 と男が帰る。
「おかえりなさい」
 と女が答える。猫が妻より先に玄関先にでてきて夫を迎えるのがもう習慣だ。
 歳月がすべてを丸くしてくれた。いつも寄り添いあう二人に、いつのまにか家族の反対もなりを潜めていた。夫婦はいまでも月に一回、歌を作って相手に送っている。
「幸せだねぇ」
 男はときおり、そう呟く。そして女はそれに答える。
「たまにはあなたが『おかえりなさい』っていってちょうだいな。私にだってここが終(つい)の住みかです。私もここが帰る家ですもの」
 男はにっこり。女もにっこり。猫は無関心そうに体をなめる。
 そうして今晩のおかず、小松菜のおひたしとかれいの煮付けを二人でつついて晩酌を酌み交わすのだ。
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 モノカキさんに30のお題( 04.07.10 リンク切れ)----http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/8907/mono/index.htm