十和田茅による30の戯言(28)  (03/02/24更新) [目次に戻る]

 28. 記憶

「ここも随分変わったねぇえ」
 市街を見下ろしながら、私の前を歩く彼女はしみじみとした声をあげる。私はそんな彼女に向かって
「そりゃ、おばさんがこの町を出てから何年たってると思ってんの?」
と言い返した。
 いきなりげんこつが飛んでくる。
「あたしはまだ二十代だ。いきなり老け込ませる呼び方するなっての」
「おばさんは『叔母さん』じゃない!」
 もう一度いうとまた殴られたので、私はしぶしぶ黙った。
 叔母……母の末の妹は私と六歳しか変わらない。たしかに「おばさん」という呼び方はふさわしくないけれど、そこは私なりの精一杯の嫌味だ。

 その叔母はというとパーマのかかった長い髪を風になびかせ、自動車がせわしなく通る広い道路を飽きずに見ていた。
「……あんた、いくつになった?」
 叔母が聞く。
「可愛い姪っ子の年まで忘れたの。やだやだ、もうろくは……」
「いくつ?」
 めずらしく叔母は乗ってこないので、私は正直に答えるしかない。
「ハタチよ。この間成人式に行ったって、かーさんが写真見せたじゃない」
「うん。見た」
 叔母は気乗りしない声で答える。
 やっぱりちゃんと知ってた。じゃあ、どうしてわざわざいわせるようなことをするのだろう。

 相変わらず視線を道路に固定したまま、叔母はさらに言葉を続ける。
「あたしは、この街で成人式なんかしなかった。帰ってこなかったもの」
「ふうん?」
「高校を出て、東京の大学に行って、そのままあっちで就職したし」
「おじいちゃん、怒ってたよ? おばさ……アヤちゃん、どうせなら大阪のがっこに行けばよかったのに、って」
 叔母は何も言い返さなかった。
 ぶらりと歩いてそのまま歩道橋を渡る。
「……ここは、もっとぼろっちかったよ。新しい建物がたくさん建って、まるであたしの知ってる故郷じゃないみたい。あたしの育ったところはなくなったって感じがする」
 叔母は、この街を出てから長い間ここに帰ってこなかった。
 帰りたくないといって、帰ってこなかった。
 私はその間ずっとここで育ったから、ここが私の暮らす故郷だと胸を張っていえる。でも、叔母にとっての故郷はその間にすっかりなくなってしまったのかもしれない。
 彼女は八年、ここに帰ってこなかった。
 今回帰省したのだって、彼女が結婚することになったからその挨拶に来ただけで。
 その八年の間に古い町はどんどん新しい街に変化してしまった。

「このまま歩いて元町商店街まで行く? あそこも綺麗になったよ」
「いや、もういい」
 叔母は三宮本通の入り口で足を止めて、向かい側のビルをみた。
「……なんかね。もう、記憶にないのよ。昔がどんなだったか、なんて。あんたの知っている神戸はこの姿なんでしょ?」
 私は頷いた。
 叔母がここを出ていったとき。『あのとき』、彼女は高校三年生。私は小学六年生だった。
 俗に言う阪神大震災。1995年1月17日午前5時46分に起こった悲劇。お向かいの淡路島を震源地としながら、被害がひどかったのは神戸の東のほうだった。
 そう、まだ小学生だった私は、震災以前の町並みの記憶はほとんどない。
 あのときは、と彼女は苦笑する。
「学校は数ヶ月休みになっちゃうし、勉強どころかガスも水道もこないし、あんときはマジで受験、落ちるかと思ったわよ。震災の町を出たらなんてことはない。大阪なんかじゃ人はごく普通に生活してたのよね。目と鼻の先でよ? まったく……あんな嘘みたいな話、一生に一度あるもんじゃないわ」
 嘘みたいな、というのは叔母特有の言い回し。
 現実はそれどころではなかったはずだ。
 人間、どうしようもなくなったら笑うのだと、それだけが私があの地震の時に学んだこと。普段は思い出すことさえしない。もう終わったことだから。思い出すとしたらどこかで地震がおきたときと、一月十七日だけ。
 でも叔母にとっては違うらしい。長い間この地を離れていた叔母にとっては。

「でも、ここはアヤちゃんの生まれて育った場所よ?」
「そんなもの全部なくなったのよ」
 くすっ、と笑った。
 この街は海に近い。北を向いて山を臨みながら、一方では南風が潮の香りを運んでくる。山と海と都会がごたまぜになった、私の故郷。
「帰ってきたくなかったぁ……。だってもう、ここは私の居場所じゃないもの」
 でも懐かしいね、と潮風の中で叔母は笑った。
「小学生だった子がもうハタチなんだもんね。そりゃあ街だって生き物なんだから変わるよね。でもね、なんか、全部忘れてしまいそうでイヤなのよ」
 叔母の髪が風でゆれる。今では珍しい、黒い髪。
 十八の彼女はどんな思いで、くずれたコンクリートの町をあとにしたのだろう。
 きっと私には永遠にわからない。
「ま、しけた話はこれくらいにして。あんたもハタチならとっとと彼氏の一人くらい作りなさいな。あたしがあんたくらいのときはもてまくってたっていうのにねーッ」
「う、うるさいなぁッ!!」

   *

 数ヶ月後。
 私は叔母に、結婚式にとった写真を送った。
 神戸港をモチーフにした絵はがきを添える。

 お元気ですか、アヤちゃん。
 神戸は元気です。
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