25. 棘(とげ)
「旅行、行かないか」
と、思い切って切り出してみたところ
「は? 何ゆーてんねん、あんた?」
と、胡散くさげに同居人に返された、八月のとある暑い夏の日。
「盆の真っ最中にしか休みとれなかったくせに今頃そーいうこという? 芋洗い状態の海水浴場よろしく、ラッシュ時に乗車率120パーセントの新幹線で行って帰ってくるのか? 第一、今からだと予約とれないんじゃないの? そこまでしてこの時期旅行に行く価値が、果たしてあるんかい!」
先ほどまでフローリングの床でごろごろ寝そべっていた女は、急に起きあがったと思うと一気にまくしたてた。棘だらけの言葉にオレは白い目を返す。手にしていたさほど薄っぺらくもない旅行雑誌は、オレの手の中で気がつくと握りつぶされていた。
同居生活……今年で何年目だ?
毒舌マシンガントークはもはや日常。オレの繊細な神経はすでにずたぼろだ。
自然、強くならなくてはこの女と生きていけない。
「サラリーマンは忙しいんだよ。自称フリーライターとかほざいて毎日昼寝こいてるどっかの誰かに、偉そうに休みについて説教される筋合いはないんだがなぁ? え?」
「ぐ……云うてはならんことを……」
最近は十回に一回は口で勝てるようになった。勝率を上げるため、日夜研究中だ。
しかもこの毒舌の掛け合い漫才、仕事でのストレスを発散させる効果があるらしい。こいつの困った性格もたまには役に立つものだ。
勝った、とささやかな勝利に酔って胸を張る。これでやっと本題に入ることができるというものだ。
「正月もそういってただろ? 『正月の正しい過ごし方は寝正月〜』っていってさ。お前は自由業だからさ、他人の行かないシーズンばっか狙って春スキーやら桜の散り終わった京都やら、秋口にクラゲの出る海に行ったり色々……たまにはオレにあわせてサラリーマンの普通の休日に付き合えよ」
海に行こうといえば「混んでるからイヤ」といい、じゃあディズニーランドに行こうといえば「高いからイヤ」といい。こいつを外に連れ出すのは並大抵ではない。そしてオレの知らないうちにふらっと家を空けたかと思うと、おみやげを手にしながらある日突然帰ってくる。二人で一緒にどこか出かけたことなどオレが就職してからまったくなかった。今回はどうしても二人一緒に行きたい。
視線の棘がちくちくと刺す。
口を開けば、棘。
視線でも、棘。
棘だらけの茨で覆って武装した眠り姫。
ナマケモノのお姫様は仁王立ちになったあと、長い長いため息をついた。
「で? どこ行くん? 青春18きっぷの範囲だったら嬉しいんだけど」
彼女はなんとか格安であげようとする。おそらくはその青春18きっぷも金券ショップの獲得品となるだろう。
生まれてこのかた関東平野しか知らないオレと、大阪の水で育った彼女。彼女はオレを「見栄っ張り」と酷評し、オレは彼女を「恥を知らないケチ」と称す。この女、特技は値引き合戦だと胸を張って答え、実際リサイクルショップや金券ショップの常連。実際にその「値引き合戦」――しかも近所のスーパーで――を目の当たりにしたオレは恥ずかしさのあまり、二度とそのスーパーに足を向けられなくなってしまった。
そのケチっぷりを苦々しく思う反面、彼女が承諾してくれたことに気をよくしてオレは思わず大きな声でいった。
「大阪!」
「は!?」
女が固まった。大口あけて、惚けている。
「どーした。顎がはずれるほど驚いた面して」
「当たり前やッ。なんでわざわざ観光客でごった返しとる地元にこの季節、行かなならんねん? なんでや、こら。ゆうてみ! ホレ、ゆうてみィ!!」
激高するとヤクザ顔負けの口上で悪態つくのは昔から。
てっきり胸ぐらをつかみかかってくるかと思いきや、さすがにそこまではされなかった。本当にややこしい女。
こら、お前、分かってるか?
お前みたいな女、面倒みきれるのはオレくらいなもんだぞ?
「だから、オレの休みはこういうサイクルでしか取れないわけだからさ……お前んところのご両親に挨拶に行くのはこういう機会でもないと、さ」
女の顔が再び固まった。
してやったり、と勝利を覚える。ずっとずっと、そんな顔をさせてみたかった。
売れないフリーライターでもいいさ。
ケチでナマケモノで毒舌家で、言葉で武装するしか自分を守るすべを持たないお姫様。
お前みたいなややこしい女、オレが一生面倒みてやるしかねーだろ。
*
一年後。
「ほな、取材行ってくるさかいー」
「行ってらっしゃい、奥様。はい、お弁当」
結婚した。
どうやらその後、奥様のツキはめぐってきたらしい。雑誌投稿した節約生活術が大当たりして奥様は売れっ子ライターとなってしまった。かつてのナマケモノ姫は目の下にクマを作って原稿を書き、本まで作ってしまい、毒舌っぷりが受けてとうとうテレビにまで出るようになってしまった。いきなりオレの年収を遙かに超えた収入を叩き出し、そして、オレはというと不況の波をかぶってリストラされた。
今や稼ぎ頭は奥様。オレは専業主夫。……。一年前はだれがこんなことを予想しただろう?
雑誌やテレビの取材にでかける奥様のために、今日も安くておいしい手作り弁当を作る日々。ああ、眠り姫を起こした王子様よ。物語の後アナタも、妻の尻に敷かれて苦労したのでしょうか……。
語られなかった部分に思いをはせ、今日も台所でこっそりとため息を押し殺すオレであった。
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