21. Cry for the moon.
月が欲しいと泣く子供。
無い物ねだりも大概に。
*
飲んでいる席で相手を怒らせ、お酒をかぶせられる光景をよく見ます。
ですが、まさか自分がかけられるとは思ってもおらず、私は呆然としてしまいました。
どの会社にも、黙々と仕事をこなすだけの無口で地味な女性社員はいるものです。
そして私などその代表格でしょう。
特に相手を怒らせるようなことをした覚えもなく、ただただ相手を見つめるしかありません。
相手は同僚の女の子。とても怒っているようです。
飄々としている私が気に入らないらしいのです。
言葉を使うのは苦手です。私にお酒をぶちまけたその相手の女に
「濡れなかった?」
と聞いたらさらに逆上させてしまいました。
私は頭からきれいにびしょぬれになってしまったというのに、詫びの言葉もありません。彼女は酔っぱらって前後不覚になっているのですから冷静な判断を求めても無駄でしょう。
飄々としているということはどういうことでしょう?
私はただ、怒りというのを無駄なエネルギーだと分析しているだけなのです。それなのに、そのことについて相手が怒りを覚えるということは私に何か怒りを覚えさせる原因があったのでしょうか。それが理不尽なことであれば対処の仕様がありません。
私は日本酒が嫌いだったので、ぶちまけられたのがスコッチの香りであったことに少しのなぐさめを見いだしました。ここが居酒屋でなく、上品なバーでよかった。できるならもっと上質のモルトのほうが好みだったのに残念です。
壁の時計に目をやりました。もうすぐ終電です。
私は車を持っていません。アルコール臭を放つこのままで電車に乗ると他の乗客の迷惑になるでしょう。そんなことを考えつくこと自体が、目の前で怒っている彼女がいう「いつも冷静でむかつく」ということなのでしょうか。
彼女をなだめようと同僚の男たちが止めに入ります。私は席を立ちました。
「着替えてきます。ああ、ここの支払いは持ちますから」
どうぞ、立ち去りたかったら立ち去ってください。言外に匂わせて彼らを一瞥しました。
「えっ、でも……」
「ええと……とにかく店の人を呼ぶから」
酔っぱらいをなだめるかたわらで私を心配する彼らに、
「お気になさらず。ここは私の男の店ですから」
にっこり、と、わざと邪悪な笑みを浮かべてみたりして。
ああ、全員固まりましたね。どうやら私には真面目とか堅物とか、そういう印象がついて回っていたようですからちょうどよいでしょう。
*
「それはお前が悪いな」
くっくっと笑いながら、私の男……ここの店長は上質のスコッチをおごってくれました。
地味で目立たず控えめにしたい私。
それがどうしてこういう男にひっかかったのか自分でもわかりません。この店兼自宅に置いてある私の服は全部この男好みでとてもセクシーです。カウンターで飲む私に視線を投げかけてくる男もいましたが、目の前の彼の一にらみで、みんな視線をあわさないようそっぽむいてしまいました。
「やっぱり私が悪いの?」
「そりゃそうさ。相手にしてみりゃ、怒りが返ってくることを期待して酒をぶっかけてるんだ。お前が熱くならないのは性分なんだろうがそういうときは怒ってやるのが礼儀だぜ」
「……悪いことしちゃったわね」
人付き合いは、まだまだ、まだまだ、難しい。
Cry for the moon
私にそういった感情を求める方が無理なのです。自分の中の「当たり前」を相手にも求めないでください。私には「当たり前」ではないのです。
自分がこうであれば他人もそうであると思いこむ人間の、なんと多いこと。
「ま、いいぜ。こんなイイ男の女だって分かったら、そのクソ女もちったあ見直すだろ」
「かえって敵視されそうな気もするけど?」
「気にすンな」
気にします。
彼は二杯目を私の前に注ぎます。壁の時計にちらりと目をやると、もうすぐ閉店時間でした。
彼は私に背を向けました。
「あー、なんだ。その。泊まっていけるんだろ……?」
この男、他の女を誘うときはもっと手練手管をかけて口説くのに、どうして私の前でだとこんなに可愛い態度をとるのでしょう?
私は壁の時計にもう一度目をやりました。終電はとっくに出ています。
今夜は苦い思いに苦い酒。苦い男の腕の中で、甘くとろけることでしょう。
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