19. 予定外の出来事
1927年。「アドリア海の真珠」亭はイタリア系移民たちでごった返していた。
マスターの前歴により、ついつい飛行機乗りばかりが集うのは致し方ない。今日も年若い飛行士が新聞を片手に店の中で大演説を行っている。日はまだ高いというのに。
「夜間飛行だよ! 大西洋無着陸横断飛行計画だ!」
それは、ここ最近の最も大きなニュース。大西洋を飛行機で渡ろうという無謀にして最後のロマンに男達は胸を躍らせていた。
はしゃぐ青年の後頭部は、ぱかんと小気味いい音をたててお盆で殴られる。お盆を持つのはこの店の看板娘。青年は振り返ると涙目になって彼女を怒鳴りつけた。
「何するんだ、ジニー!」
娘はそれにこたえて胸をそらす。彼女の瞳は今日の空より青い。
「馬鹿なことばっかりいってるんじゃないよ! あんたは参加するんじゃないよ、ウィル。どうせ落ちるのが関の山だからね!」
明朗闊達な娘の言葉にウィルは顔を真っ赤にする。しかしこれ以上娘にくってかかりはしない。彼は度胸のあるほうではなかった。カウンターに腰を下ろすとマスターにビールをねだるのが、それこそ「関の山」である。
口ひげをたくわえたマスターは口数すくなにビールをつぐ。
「ぶつぶつ……なんでぇ、ジニーのやつ……成功したら英雄だぜ、なぁマスター」
返事がかえってくるとは思わずにぼやくだけだったが、珍しくもマスターは口を開いた。
「てめぇはやめときな」
娘と同じ事をいう。
「なんでだよ!」
「……英雄でないと娘をくれてやらんといってるわけじゃない。が、死人に娘はくれてやれねぇ」
ぶっきらぼうな口調でいわれたそれに、青年の方が顔を真っ赤にした。
マスターは青年を見ずに手元のグラスをふく。
「命あっての物種って言葉を知ってるか」
「ぐ……知らねぇな」
ウィルは知らんふりを決め込むつもりでビールをあおる。マスターは顎で店の隅を指した。そこには古びたポートレート。当時新品のカーチス・ジェニーを真ん中に、そこに写るは複数人の飛行機野郎とただひとりの婦人。ジニーそっくりの婦人の隣にはマスターではない男。
先の戦争で死んだのだ、男は。彼はマスターの戦友だった。そして女は、一人娘を抱えてがんばって働いて働いて、死ぬ前にマスターと結婚して微笑んで逝った。ひとりぼっちの娘と、ひとりぼっちの昔の恋人に家族を残して。
「死んじまった男は女を幸せにはできねぇ。そして、女を泣かせて飛び続ける飛行機野郎はもっと馬鹿だ」
マスターはグラスから目を離さず磨き続ける。青年はセピア色のポートレートから目を離せなかった。
「てめえには――本当はやりたくもないが――俺のとっときの真珠をくれてやる」
大西洋無着陸横断飛行。成功すれば大きいが失敗も大きい。スポンサーをつけた最新精鋭の機体を抱えて一体何人の男達がアトランティスに散るのだろう。
夢がある。なにより、名誉と賞金がある。
マスターはそれら全部を捨てれば引き替えとして「真珠」をくれてやるといった。ジニーは二人の会話など聞こえておらず、忙しそうに働いてまわっている。
「……考えるよ」
ウィルはぽつんとそうこぼした。考えるまでもないことなのに。
*
5月21日、単葉機「スピリット・オブ・セントルイス」号は33時間29分という記録をつくってニューヨーク=パリ間を飛びきった。操縦士リンドバーグの吐いた「翼よ、あれがパリの灯だ」の名ぜりふは世界的に有名になる。
*
翌日。「アドリア海の真珠」亭には金縁の額にその新聞記事が飾られる。ただしポートレートは看板娘の結婚式の写真に変わっていた。
「マスター、おかわり!」
口ひげのマスターは今日も無口に、昼間から客にビールをつぐ。娘は今日も元気に看板娘。にぎわう店内にウィルの姿はない。
肝心の娘婿は、今日も元気に郵便飛行士としてアメリカ中を飛び回っている。ウィルは結局「もっと馬鹿」を選んだのだった。
「……あの、馬鹿め」
マスターがつぶやくと、娘はむしろ満足そうに笑った。
「あいつが空をあきらめられると思っていたの? 駄目よ、父さん。私には飛行機野郎しか愛さなかった母さんの血が流れてるんだから」
「……」
窓の外は青い空。それを切り裂くような白い飛行機雲。
おんぼろ飛行機カーチス・ジェニーは今日も元気にウィルを乗せて空を飛び立つ。
名誉なんかいらない。賞金だって捨ててやる。手元にあるのはこのカーチスと、マスターがくれた真珠ひとりでいい。それがなによりの宝。が、夢はそれと秤に掛けても捨てられなかった。
ミセス・ジニーはそんな亭主を満足そうにみやって、今日も空より青い目をむけるのだ。「アドリア海の真珠」亭は今日も平和である。
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