18. 砂糖菓子
甘くて綺麗なものだと思っていた。UP↑
砂糖菓子は少女の夢に似ている。
現実は厳しい。
＊
美幸は、大きく新聞に載った見だしに溜め息をついた。
「配偶者特別控除廃止、かぁ……」
これは痛い。
これからは月五千円ほど負担が大きくなる計算になる。
家族が全員が出払ったキッチンで、コーヒーを片手に新聞をめくっていた。今日はいい天気。洗濯も済ませたあとだ。
「なになに、『配偶者特別控除とは、１９８７年に導入され、世帯主本人の年間所得が１０００万円以下であれば、所得税上、最高３８万円の控除を配偶者控除に上乗せする形で受けられる制度』……『所得税の配偶者特別控除の廃止などを０４年１月から実施する方針を示した』……うちはその専業主婦なんだけどなぁ」
ほどほどの大学を出、ほどほどの会社に就職し、ほどほどの相手と結婚した。そしてほどほどの家庭を築いている。そのことに不満はない。肩書きは主婦。何か夢はなかったの、と先日娘に聞かれた。
夢があった。
憧れだってあった。
たとえ「今時古い」だの、「カビが生えた考え」だのいわれても、美幸の憧れは専業主婦だったのだ。
＊
「大きくなったらお嫁さんになりたい！」
今時の子供は絶対にこんなことはいわない。
それでも美幸は本気でそう思っていた。
母が、父と共に忙しく働いていたせいだったかもしれない。自分で鍵を開けて寒々しい家に入るのが嫌いだった。友達の家に行ってお母さんが「おかえり」といってくれるのが素敵だと思った。
世の中は変化する。
専業主婦はいつしか「気楽な仕事」とみなされるようになり、働く女性はどんどん増えて、働かない女性がまるで怠惰なように思われるようになった。
男性のように仕事をこなすことを求められ。
その一方では今までどおり妻として母としての仕事も求められ。
働く女性としての先人たちの苦労は並大抵ではなかっただろう。
世の中は働く女性がもう当たり前。けれど美幸は、専業主婦に「なりたくて」なったのだ。
「毎日毎日、１円単位で家計簿とにらめっこして、安い食材で美味しいごはんを作ることを工夫して、ちょっと掃除をさぼれば『一日中家にいて何をやってるんだ』っていわれて、ワイシャツの黄ばみは落ちないし、換気扇は油だらけだし、節約しても私のおこづかいになるわけじゃないし……専業主婦だって戦ってるわよ」
家に誰もいない時間が長く続くと自然、独り言が増える。
夢があった。
少女めいた綺麗で甘い夢。
毎日美味しい食事を作って、家の中はぴかぴかで、旦那様にはいつも糊のかかったワイシャツを渡して。家には可愛い子供達。そして絶対に子供をしからない、にこにこした顔でいるのだ、と。
……。
子供は親の夢の道具ではない。いうこと聞かない、勉強しない、当然成績は悪い、家の中を汚す。旦那様は最近、妻の目を恐れて自分からゴミ捨てに行ってくれるようになった。美味しい食材は独身時代には考えもしなかったほど高く感じる。最近ではワイシャツにアイロンを当てることも面倒だと思うようになってしまったのは、主婦失格だろうか。お父さんゴメン、と心の中で謝ってみる。
砂糖菓子のような綺麗な夢。
だが現実にしている人は、きっといる。
そう思うと自分のまわりにある現実は「夢が叶わなかったんだよ」といわれているようで、美幸は切なくなった。
＊
「少女の頃の夢なんて叶わないと決まってるだろ」
夜、帰宅した旦那様の一言は無情だった。
「……はっきり言うわね」
「でも、お母さんは夢を叶えた人だろ？」
夢は主婦なの、といった美幸の言葉を覚えていてくれたのかもしれない。しかし美幸は首を振った。自分がどれだけ現状に満足していないか、この際だから切々と聞いてもらおうではないか。
それでも旦那様はのほほんとした顔だ。
「僕から見たら、お母さんの不満は軽いものに見えるよ。それは覚えておいて」
旦那様は腹の立つ前置きをして、こういった。
「少女時代の夢は叶わないかもしれないけれど、これから新しい夢を見ることは出来るんじゃないか？ 最近ガーデニングに凝りはじめたろ。あれ、僕からみたらうらやましかったよ。嫁さんはまだ新しいことが出来る人なんだ、って」
冬のボーナスも出ない、給料も減らされた。一家の大黒柱でありながらいつポンと肩を叩かれるかもしれない、微妙な立場。
彼は彼でフラストレーションをためているのかもしれない。家族にはいわないだけで。
美幸の不満はどこかに消えてしまった。代わりに芽生えたのは昔のような甘い夢。
「……あなたも何か、新しいこと始める？」
「うーん」
＊
砂糖菓子は綺麗で甘い。
甘くて綺麗で、それでいて堅固な。
だけど忘れないで。熱を加えてやれば別の形に固まること。