07. 携帯電話
アンティークの懐中時計が見たいのだと彼女がいったので、今日のデートはそういう店ばかりを回った。
その帰り道。電車は比較的すいていた。
もう数本遅れた電車だったらきっと帰りのラッシュに飲み込まれて車内はいっぱいだっただろう。幸いにして僕らは座ることが出来たが、少し駅を過ぎるとあっというまに座席は埋まってしまった。
「大丈夫、圭史?」
隣で彼女が気遣わしげに尋ねてくる。多分ね、と答えるしかない。思わず苦笑した。大丈夫かだって? そんなこと、自宅に帰り着くまで分からないのだから。
だが、僕の前に立つ男が若い男だということだけ少しひっかかるのだが。
突然、僕の体に電流が走るような衝撃が走った。
いわんことじゃない。
僕は、きゅっ、と拳を握りしめて前屈みになるしかなかった。
「圭史?」
小さな声。他の客に迷惑がかからないように。けれど鬼気迫った声。僕の前に立った男がごそごそと鞄を漁り始めた。
僕と同様、ピンときたのだろう。彼女はその男をにらみつけた。
「すいません、携帯電話を使うのをやめてください」
男は一瞬、うろたえた。
その間にも親指は小さな操作。
周りの客は何事かと思っただろう。僕らの方に注目した。男の携帯電話はバイブレーションにしてあって、間近にいないと音が聞こえなかったのだから。
「……メールなんですけど」
うろたえた男は不満げに反論する。
音を立てて迷惑をかけたわけでもないじゃないか、とその顔には書いてあった。確かに。だが。
「彼、ペースメーカーを使っているんです!」
彼女の責めるような口調に、若い男はやっと得心がいった顔になった。慌てて携帯電話の電源を切る。
それに合わせて他の客たちも鞄を探る。きっとそれぞれ携帯電話の電源を落としているのだろう。ありがたいと思う反面、彼らの顔つきが僕には怖かった。
僕は、僕の生きる権利を主張しているのだが。
彼らからいわせれば、僕一人のために自分が「携帯電話を使う自由」を侵害されたのだから。もしも彼らにそのつもりがないにしても、僕の被害妄想は止まることを知らない。
「降りよう」
僕は目的地の駅よりひとつ前で彼女に降りるよう促した。
何かを言いたげに……だが、頷いてくれる。
駅に足を降ろしたそのとき
「ペースメーカー使ってますって名札でもつけとけよ、ったく」
と、悪意に満ちたぼやきが僕の背中に小さくぶつかった。
「……!」
「いいよ、花音」
放っておくと僕の代わりにケンカを買って出そうな性格の彼女を引き留めて、僕はそのまま何事もなかったかのように改札口を出た。けれど傷つけられることに慣れる人間はいない。
僕の心臓は壊れている。
ペースメーカーのおかげで僕は生きていられる。しかしこの精密機械は電気信号で心臓を動かしているため、より強い電気を帯びたもの……携帯電話の電波などの影響を受けてしまう。互いの距離が接近する電車やバスなどの中では危険きわまりない。
「女性専用車両なんてものが出来るくらいなら、携帯電話禁止の専用車両があってもいいのにね。だってこっちは命に関わる問題じゃない」
「どうかな。それでも、満員の時は携帯電話を切るようにってアナウンスが流れるようになっただけでも僕は進歩だと思うけど」
でも、ちゃんと電源を切っている人はまだまだ少ない、と、花音はまだ憤慨している。
世の中の半分は女性だから、女性専用車両の需要はあるだろう。
けれど携帯電話は……早い話、携帯電話が「使えないこと」に不便を感じる人間は多くても、その逆は少数にしかならないと思う。
外見で判断できない障害者には、まだまだ社会は冷たい。
僕のようなペースメーカーを利用する者や聴覚障害者は、まずその障害に気付いてはもらえない。
足を折った人間はちやほやするくせに肋骨を折った人間には誰も気付いてくれないのと同様に。
友人は膝(ひざ)の靱帯を切ったときの通院中、外では絶対椅子には座らなかったそうだ。なぜなら、座っても膝が曲げられず、まっすぐに伸ばした足は他の人の邪魔にしかならないから。誰か一声でも「その足を引っ込めてください」といってくれれば説明もつけられよう。だが誰も何もいわずに、もの言いたげな視線を送ってくるだけだったという。あとになっていった。「マナーを知らない最近の若いもん」というひとくくりに入れられたくなかった、と。
その友人のジーンズの下には、遠赤外線のついたサポーターでがちがちに固められた膝がそっと隠れていた。その膝はいまも時折、後遺症が出ているという。
町を歩いていると、どこからともなく携帯電話の着信音。珍しい光景じゃない。
携帯電話はいまや爆発的に普及しており、町中には凶器が満ちあふれている。もはや僕は、どこで、誰の電話に殺されるかわからない。僕が安心していられるのは病院の中と自宅だけだ。
「でも私、圭史の心臓の音、好きよ」
気が付くと花音が僕の顔を心配そうに見上げていた。
「今日ね、懐中時計を買ったでしょう。すぐに気に入っちゃった。だって、あの音は圭史のペースメーカーの音に似てる」
そっと僕の胸に触れる。ほら、と嬉しそうに微笑んで。
「私の好きな圭史を生かしてくれる音。これに似てるから気に入ったの」
「……」
僕はペースメーカーに生かされている。
僕は、彼女の微笑みによって生きていられる。
好きだよと、言葉の代わりに抱きしめた。
UP↑