09. 冷たい手
握りしめた手は冷たかった。
人間はこんなに冷たくなるものかと驚いた。
手首には傷。
リストカッターの手。
昴は僕の友人。受験生の僕が図書館通いをするとき知り合った。あっちは図書館裏でぼんやりしているだけだったが。趣味、リストカット。
「お前、それ、やめろよ」
いつも左手の手首には包帯が巻かれていた。
「……でも、死ねないから」
ぼんやりとした目で自分の包帯を見つめる昴の目は、腐った魚に似ていた。手首を切るほど辛いことがあるんだろうか。なにがそんなに苦痛なのだろう。聞いてみたが、具体的な答えは返ってこなかった。
「苦痛とか、そういうのじゃないんだ。ただなんとなく」
どうしてそんな理由で手首が切れるのか分からなかった。
分からなかったので、ある日僕は、自分の左手首にカッターナイフの刃を這わせてみた。
皮膚一枚さえ切れなかった。
そっと、刃先で皮膚をなぞってみる。白い痕がいった。そして、そのうちに傷は赤くみみず腫れになっていった。……昴はこれが面白いのか?
後日、その手首を昴に見せた。
「お前はそんなことしちゃいけない」
と、真剣な目で昴は僕にいった。何故? 昴は、同じ事をしているのに。
本当は昴も切りたくて切っているのではないんだと思った。それが、やめなければならないことだとも分かっているのだと。けれど麻薬患者のように昴はリストカットから逃れられない。
「いつか死ぬぞ」
僕の言葉を
「……いつだろ」
と笑って受け止めていた。
受験勉強のための図書館通いは昴に会うためという目的にすりかわり、夏からこの冬にかけて僕は随分と真面目に図書館に通ったが、それは全部昴のおかげだった。
昴。僕の友達。冷たい手を握りしめて僕は病院でしばらく呆然としていた。
死にたいわけじゃなかったんだろ? ただ、言葉に出来ない真っ黒な自分の中の感情を持て余して、吐き出したくなっただけなんだろ?
血を流す昴はどこかさっぱりした顔をしていた。
痛みと傷によって何かを洗い流したような顔。
それ、お前の心が傷ついてたからだろ? だからどこかでバランスとりたかったんだろ? 本当は死ぬ気なんかさらっさらなかったろ?
一緒に笑ってたじゃん。好きな漫画の話、好きなゲームの話、好きなテレビの話。お前、僕の前で笑ってたじゃんか。
「すばる……」
僕は、傷だらけの昴の左手をしっかりと握りしめた。
「なんで僕が、血だらけのお前を発見しなきゃならないのさ」
ぎゅっと強く手を握りしめる。僕の目からは涙が溢れて止まらなかった。
*
次の年の春、僕は無事第一志望に合格した。
合格発表を見た後、僕はその足でまっすぐいつもの図書館に向かった。慣れた図書館裏、そこに座って。
受験の間、内申書のためにずっと我慢していたマルボロに火を付けた。
肺の中いっぱいに充足感が広がる。
僕はそれを吐き出した。
なぁ、昴。受験、終わったよ。これで義理ってやつは果たしたよな。
いまからお前に会いに行くよ。
突然、僕の手からタバコをひったくる手が現れた。
「タバコ吸うなよな、未成年」
僕はその人物を見上げる。見知った顔。今日は制服を着ていることだけがいつもと違う。
「……退院、おめでと。それやるから、もうリストカットすんなよな」
昴はにっこりと笑った。手首には古い傷跡。新しい傷はもう、ない。
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