勿忘草 ―わすれなぐさ―

 その少年は人間ではなかった。
 青い色の髪、蒼い瞳を持つ妖魔。
 妖魔に外見年齢は関係ない。少年の姿をしているとはいえ、彼はかなり力のある妖魔だった。

 その彼は、いまや瀕死の重傷を負っていた。
(こんなところで死ねるか……)
 人混みの中で少年はうつぶせになって倒れていた。夕暮れ時の忙しい最中、誰も彼に目を留めるものはいない。少年は人の目には映らないからだ。妖魔は、強い思いがその形を作る。人の目に映る程度に姿を作り出すことさえ今の彼には出来なかった。
 このまま消えてしまうのかもしれないと一瞬、諦めに似た感情がよぎる。
(死にたく、ない)
 少年はたった今、ひとりの妖魔を屠ってきたばかりだった。勝ったといえるのは生き残ってこそ。共倒れになってしまえば引き分けだ。
(オレは死なない。だれが、こんなところで……)
 歯を食いしばる。必死になって自分の生を念じる。だが少年の思いとは裏腹に力は抜けていく一方だった。力のある餌がいる。だがその餌をとることも今の少年には出来ない。
 気を失いかけていたところに、突然、頬に水の感触を感じた。
(……?)
 薄目を開ける。
 翠の瞳の輝きが飛び込んできた。子供が覗き込んでいたのだ。大きな目でこちらをみやり、その手は濡れている。
 妖魔である彼には人間の子の年など検討もつかない。が、夜ひとりで出歩くには幼すぎる年齢だということは分かった。
 子供は振り分け髪をゆらして立ち去ると、手に水をすくってまた舞い戻ってきた。おずおずと手にしたそれを少年に注ぐ。おそらくは口元に水を運ぼうとしてくれているのであろう。が、水は少年の口には入らず頬を濡らすのみであった。
 餌だ。
 少年はまずそう思った。ほとんど身動きがとれない状態でも、この近距離なら逃すことはない。やれる。
 跳ね起きると彼はその子供の首筋に噛みついた。
 子供……女の幼子はその場に立ちつくした。

 通りは相変わらずごった返している。仕事を終えて家に帰るもの、これから夜の仕事に向かうもの、様々に入り乱れて。そこに"いなかった"はずの少年が突如、姿を現しても誰も気づかなかった。気にとめることさえしなかった。少年は特徴的な青い髪を大衆の面前にさらさず、どこにでもあるような黒い髪をして現れた。

「お前……?」
 妖魔の少年は、そこで初めて手にした獲物を見た。子供は大粒の宝石のような翠の瞳を少年に向けている。痛がるそぶりや逃げるそぶりはない。子供の柔らかな首筋に血は流れていなかった。ただ牙を立てた小さな跡がふたつ、わずかに赤くなっているだけだ。
 黒い髪という擬態をほどこして、すっかり復活した少年は子供を見下ろす。
「何者だ?」
 少年は先ほどまで確かに消えていた。普通の人間には見えないはずだった。なのにこの子供はその彼を見つけて水を運んだ……。
 その異常に気づいたのは不覚にも噛みついた後だ。少年は普段、血を吸って精を得る妖魔ではない。妖魔の餌は人間。それには変わりないけれど、少年が万全の状態であれば夢を媒体に精を吸い取る。噛みついたのは、血肉を得ることは精を得るもっとも簡単な方法だったから。弱っていた彼にはそうすることでしか餌をとることができなかった。
 なのに、だ。その皮膚に触れ、精を得たいと望んだだけで、この子供から力が流れ込んできた。瀕死になるほどまで枯渇した妖力を一気に満たし、傷のすべてを治し、なおかつ子供自身は死ぬこともない。それどころか蚊に刺された程度の痛みしか感じていないようだった。子供はじっと少年を見つめている。
「だいじょうぶ?」
 たどたどしい発音が子供から発される。
 彼女は全てを見通すような透明な目で少年を見つめた。少年の正体を知っているぞといわんばかりのまっすぐな視線だ。
 気づいた。
 この子供は、最初から少年を助ける気であったこと。
 だからほとんど抵抗なく精を得ることが出来たのだ。子供自身が……そうと知らなくても、彼に力を与えることを望んだから。
 だとしたら恐ろしいほどの力の持ち主だった。どうみても子供は人間にしか見えない。が、その身の内には力のある妖魔を満たしてなおあまりある力が眠っている。
 ぞっとした。
「お前、化け物か……?」
 妖魔は人間から化け物と呼ばれる。その妖魔から化け物扱いされた人間の子供は、きょとんと首を傾げるだけだ。よく見れば身につけているのは簡素な形だが絹服である。こんな雑多な通りを歩いているはずもない高そうな身なりの子供。
「……関係ない」
 少年は立ち上がった。子供はまだ少年を見上げている。
 関係ない。心の中で繰り返して彼はきびすを返す。命を助けられた。それだけだ。こんな人間にしか見えない化け物を相手にしてなどいられない。足早にそこから立ち去った。
(関係ない)
 自分を納得させるようさらに繰り返す。なぜか瞼の裏には子供の目の色が焼き付いていた。
(関係ない……)
 もう一度繰り返して少年は肩越しに振り返る。
 通りの向こうで、子供は、見るからに怪しげな男に誘われて花を握っているところだった。
 向こうが何をする気か考えるまでもない。少年は気が付くと走り出していた。

   *

「お嬢ちゃん。さぁ、おじさんと行こうね」
 甘ったるい猫なで声の太った男が、子供の手をとる。子供はおとなしくそれに従った。
 が。
 別の手が素早く彼女をひったくった。
「何を……!」
「お前、こんなところにいたのか!」
 太った男の声と、それを遮るような少年の声があがったのは同時だった。
「うちの妹です! 探してくれてありがとうございました!」
 人買いの男は自分の声を遮ったその少年をまじまじと見た。かどわかそうとした子供と同じ、黒髪に翠の瞳の少年。彼もまた地味ではあるが身なりのいい服を着ている。
 カモだ。
 男の心の声が聞こえたのかどうか、
「じゃ!」
 突如現れた少年は女の子を抱いてすたこら立ち去っていった。
「え、おい、あの……お、お坊ちゃん!」
 ちょいとお待ちあれ、とばかりに男は慌てて後を追ったが辻をひとつ曲がったところで彼らの姿を見失ってしまった……。

   *

 少年は妖魔の空間に入ったのだ。
 子供は少年におとなしく抱かれて、きょとんとしている。
「あんな人買いに捕まるなんて! こら、聞いてるのか?」
 返事はない。子供はただ少年の顔を見つめるだけだ。穴が開きそうなくらい懸命に見つめてくる。手にはしっかりと青い花をつけた雑草を握って。
「お前……聞いてないだろ」
 子供はうなずきもしなかった。何を考えているのか分からない。
 少年はもう黒い髪をしていなかった。元の、自分が生まれたときに持っていた青い髪、蒼い瞳に戻していた。子供はまじまじと見つめてくる。そして手をのばされたかと思うと前髪を軽く引っ張られた。
「おい……」
「あおい、いろ」
 翠の瞳を輝かせて子供が見入っているのは自分の髪と瞳だと、そのときにやっと気づく。
「お花より、もっともっとあおい」
 青い花は自然界に少ない。彼女が握っている雑草も青というよりは水色に近い。自分は花扱いかと、少年はうんざりと鼻筋にしわをよせた。
「いいからさっさとその雑草、捨てろ! 邪魔になる!」
 間近で一喝した。
 子供は、びっくりしたのだろう。引っ張っていた少年の髪の毛を放した。それでも花は捨てない。翠の瞳は一瞬にして涙でうるみ「しまった、泣くか」と少年は覚悟した。が。
 彼女はぐっと口を横一文字に引っ張って涙をこらえると、ひたと少年をにらみつけた。次の瞬間。

 ぱちん。

 小気味いい音を立てて少年は殴られた。
「……な?」
 それまで誰かに殴られたことなどない少年は、ただあっけにとられる。
 彼女は涙をこらえて相変わらずこちらをにらんでいた。
「駄目なの!」
 それまで生気を感じさせることもない、ぼんやりした子供だと思っていたのが、今やあふれんばかりの生命力を感じさせて少年の目の前にいる。翠の瞳はほとばしる炎のようだ。
「雑草なんて名前のお花はないの、お花にも全部名前があるの! おにいちゃんにだってあるでしょう!?」
 子供らしい、他愛もない理由。
 だが彼女は本気で怒っていた。
 少年は目をまるくしたあと……ごめんなさい、とつぶやいた。子供はやっと溜飲を下げてくれたようだ。つり上がった目が穏やかになる。
「……おにいちゃんの名前、なんていうの?」
 草の名前から人の名前に興味が移ったらしい。
 少年は名乗るのをためらった。
 力のある妖魔ほど簡単には名を名乗らない。この「世界」には言霊が生きている。言霊に縛られるために、他者に名を知られることをいやがるからだ。人間よりも妖魔のほうが特にその傾向が強い。
 いつもなら普段使う隠し名を名乗る。が、このとき少年はそれさえもためらった。
 少し考えた後、
「お前の名は?」
 と逆に聞いた。子供はためらいもせず答える。
「ヒスイ」
 彼女の名は翡翠と書くそれか。あっさりと真名の分かるような名を妖魔はつけない。少年はヒスイを片手で抱きかかえたまま、黒髪を撫でた。
「分かった。じゃあ、ヒスイ。ひとまずその……花を捨てろ」
 雑草、といいかけて直前でその呼び方を変える。ヒスイの手には先ほどの花がまだ握られていた。それは手の熱にやられたか、すでにしおれて、くたびれてしまっている。ヒスイはいやいやをするように首をふった。よほど気に入ったとみえる。だが少年の目にはただの雑草、それも水につけてももう元気にはならないだろうと思われる、ゴミにしか見えなかった。
「……わかった。新しい奴をオレがやる。あのおっさんからもらったやつと、オレからもらったやつ、どっちがいい?」
「……」
 ヒスイの手から花が落ちた。
 案外、聞き分けがよかったことに少年は安堵する。
 それからすぐに妖魔の空間がゆがんだ。

 闇の中、小さな明かりがともる。ひとつ、ふたつと。蛍火のようなそれが少年を中心に広がっていく。
 次に二人が目にしたのは一面の青い花だった。
「うわぁっ」
 ヒスイは嬌声を上げる。花を見つめて今にも走り出しそうにはしゃぐ子供に、少年は注意を忘れなかった。
「こら、駄目だ。むやみに走り回るんじゃない」
「なんでー」
「この花は水が多いところに咲くんだ。どこに深いところがあるか分からないから、あまり走り回るな」
 ヒスイが握っていたのはありふれた花だったので、少年にはその花の咲いている場所の検討くらいたやすくついた。ヒスイを連れてその場所まで移動したのだ。あたりはもう暗い。蛍火の明かりがなければ花の色が分からない程度に。
 少年の腕の中で、子供はおとなしくなった。
「……おりる。おろして」
「オレがいったこと聞いてたか?」
 子供は黒髪を振ってこっくりと頷く。
 そうして見ていると本当にただの人間の子供。その驚異の力の恩恵を受けた立場としてはやや複雑だった。親はどうしているのだろう。誰もこの子供を捜していないのだろうか。だとしたら……。
「オレがもらってもいいかなぁ……」
 少年はぽつりとつぶやいた。ヒスイは首を傾げるだけだ。
 妖魔は自分の楽しいことが第一。この子供を側に置きたかった。
 彼はヒスイを一度おろすと、しゃがみこんで彼女と視線を同じくする。それから、足下にある花を摘んだ。
「ほら」
 ヒスイは瞳を明るく輝かせる。
 薄い水色したものからやや紫みを帯びたものまで、多種多様の青い花。五弁の花びらに中央の黄色がよくめだつ。
 やる、と押しつけられた花を彼女は手に取った。
 吹けば飛ぶような弱々しい花だ。それでも野の花特有の丈夫さは伺い知れる。誰もを一目で魅了する薔薇には遙か及ばないけれど、たった一人にとって必要とされる花。その一人にとっては誰よりも何よりも必要な、美しい花。それは目の前の小さな子供にもいえること。……少年はまじまじと幼い彼女を見つめた。
「でもお前は、きっと美人に育つだろうねぇ」
 今は誰も振り向かないだろうけれど。
「『お前』じゃなくて、ヒスイだよ?」
 うん、と少年は頷いた。
 そっと彼女の髪に触れ、頬ずりをする。
(やっぱりこのまま、連れていっちゃおうかな……)
 彼女の親は悲しむかもしれない、友達が泣くのかもしれない。それでも、他の全てから引き離しても手元に置きたい。
 が。
 そんな邪な腹のうちを敏感に察したか、彼女はするりと少年の手の中からすり抜けた。
「……って、おい!」
 ヒスイは聞いていなかった。とことこと青い花の中をかき分け、何もない暗闇に手を伸ばす。
 少年は身構えた。
(誰かいる?)
 幼い彼女はその暗闇に親しげに話しかけた。何もない空間に、何か見えているように。
「おばちゃーん」
 小さな手を伸ばす。闇の中から、それに応えるように成人女性のそれが伸ばしかえされた。ヒスイは少年から逃げたのではない。知り合いの姿を見つけて駆け寄っただけだったのだ。
 少年はとっさにそちらに明かりを集約させる。妖魔である少年に気配すら感じさせなかった人影に興味があったし、なによりヒスイが連れていかれそうになっている。制止の声をあげようとして……だが少年は言葉を失った。
 銀色の光がヒスイを抱き上げた。
 否、それは長い銀色の髪をした女性。
 柔らかな表情で腕に抱いた子供を見つめるその女性の顔は、驚くほどにヒスイによく似ていた。最初にヒスイが「おばちゃん」と呼んでいなければ親子かと思うほどに。特筆すべきは、その背中には純白の鳥の翼が生えていたことだ。
「またこちらの『世界』に落ちていたのですね……本当に目の離せない子……」
 楚々とした笑みを唇に浮かべる。分かっているのかいないのか、ヒスイは無言で銀の髪した天使を見つめるだけだ。
「帰りましょう。お母様が心配しています」
「マム?」
 さすがの無表情娘も、母親のことは気にかかるらしい。声の表情が変わった。それと同時に少年の表情も変わる。とっさに制止の声を上げた。
「連れていかれてたまるかよ」
 銀の天使は、その声でようやくヒスイ以外の第三者がそこにいたことに気づいたようだ。少年の顔を向けて、そして彼が青い髪を……人間にはあらわれない、一目で妖魔だと分かる色を見ると露骨に顔をしかめた。
 少年は笑顔を貼り付かせて――それはもう、人間なら裸足で逃げ出すような凶悪な笑みを。
「それ、オレのなんだけどなぁ」
 しかし銀色に輝く天使は冷ややかな一瞥をくれただけだった。
 少年は、今度は天使に抱かれた子供のほうに向かう。
「ヒスイ」
 子供は少年の青い目を見た。まっすぐに人の目を見てくるのは性格か、それともしつけの成果か。
「そっちは駄目だ。ここに戻っておいでよ」
 子供は、今度は銀の天使を見る。
「いけません。帰りましょう。……いいえ、帰らなくてはいけません」
「おいでよ、ヒスイ。オレの側に」
 おそらくは、彼女にとってどちらもが信用のできる存在なのだろう。困ったように少年と天使を代わる代わる見比べていた。始めから知り合いであるらしい銀の天使に比べ少年の方がはなはだ分が悪い。ヒスイが迷ってくれただけでも、まだよかったというべきなのかもしれない。
「いけません。お母様があちらで待っています」
「……」
 銀の天使には切り札があった。母親というそれが。案の定、幼いヒスイは母親恋しさに天使の顔をじっと見つめる。
 幼子の心をこちらに向けなければならない。少年の蒼い瞳がきらりと光った。
 少年の妖魔としての能力は「夢見」である。暗示というのも能力の一環にあった。ヒスイに暗示をかければいい。行かない、と。ここにいる、と。
「……ヒスイ」
 呪を声にのせて歌うように呼びかける。
 こっちへ来い。
 こっちへおいで。
「卑怯者。ヒスイに暗示などかけないでください!」
 ぴしゃりと叱りつける声が少年の力を霧散させた。
 銀の天使はしっかりとヒスイを抱きしめる。まるで我が子を抱くように。
「使い魔風情の暗示が通じると思わないことです。……私にも、この子にも」
「使い魔風情、だと?」
 少年の矜持を傷つける台詞だった。
 妖魔はたとえどれほど幼く見えても自分の力に自負をもっている。まして、彼は妖魔の長の側近さえ勤めるほどの力のある妖魔だった。それなのに暗示をかける前から弾かれ、使い魔とあなどられた。これは少年にとって許せることではない。
 彼女の腕に抱かれ振り回されている幼子はよく分かっていないようだった。なぜ銀の天使と青い髪した少年が険悪になるのか、それさえ理解ができないようで心配そうに両者をみやっている。
「おばちゃん?」
「駄目です。あなたを妖魔などに渡しません。私は、あなたを必ずお母様のところに帰さなくてはいけない義務がある」
 少年は野次を飛ばす。
「冗談! 義務だとか責任だとか、そんなもん、何になるのさ。オレ達の知らないところで勝手に決められただけじゃないか」
 どこまでいっても平行線。
 どちらかが折れるしかない。
 その決定権は銀の天使と少年、どちらにもなかった。どちらを選ぶかは天使の腕に抱かれた年端もいかない幼子に決定権がある。
「……おにいちゃん。ヒスイは、マムのところに帰る」
 それが決定事項だった。
 銀の天使は胸をなで下ろして腕に抱いた幼い彼女をみた。
 少年は蒼い瞳を見開く。
「オレを、見捨てていくの?」
 銀の天使が柳眉を険しくした。そう、これは卑怯な問いかけだ。それくらい少年にも分かっている。憐憫につけこんで同情を誘って、そして自分の思うようにしたい我が儘だ。
 それでもヒスイはゆるがない。
「また、会えるよ」
 小さな白い、もみじの手を伸ばしてくる。
「また会おね」
 舌足らずな物言いで翠の瞳が微笑む。少年は手を伸ばした。銀の天使は警戒したがヒスイはそれを許す。伸ばし返された少年の指を嬉しそうにつかんでくる。反対側の手には先ほど渡した青い花を握って。
「……ああ、またな」
 そんな日が来るのなら。
 銀の天使はほんの少しだけ表情をゆるめた。それでも無表情に近い。
「……彼女は、いつか妖魔の長に命を狙われます」
「え?」
「この子がせめて成人を迎えるまで妖魔の長から隠す必要があります。お前も、この子の力の片鱗を見たのでしょう」
 抱きしめた子の黒髪をなでる。その手は本当に母親が子供にやるような仕草だった。違うのは、そこには通い合う温かな情がない。
 よく分からないけれど不思議な力を――それもおそらくは潜在的に――その身に宿す娘。つけねらうのは妖魔の長も同じということか。
「ははん。オレも妖魔だから、長に報告するんじゃないかって警戒されてるわけ?」
 少年は唇をゆがめて笑った。見た目の年齢に反して妙に年季の入った笑み。銀の天使はあいかわらず無表情だった。
「心配ないよ。長には報告しない」
 少年の言葉があまりに意外だったのだろう。銀の天使ははっきりと訝る顔になった。誰しも都合のよすぎる話はうかうかと飛びつかない。騙されているのではないかという不安がつきまとうからだ。
 だから少年は大人びた笑みをわざと作った。
「長なんかにはやらない。オレがもらうんだから」
 妖魔の長に協力しないのは、自分が利益を得るため。善意からではないことを印象づける。銀の天使はそれでもまだ警戒しているようだったが心の隅では納得してくれたようだ。損得勘定を見せたほうが相手は理解しやすい。
 誰も少年の心など知る必要はない。
 ただ愛しくて、側にいてほしいことなど。
 もっとも、誰にいっても信じやしないだろうけれど。
「おにいちゃん、ヒスイをもらいにくるの?」
 大きな翠の瞳がのぞき込んでくる。そうだよ、と答えてやると、子供はとんちんかんなことを口にした。
「じゃ、ヒスイはおにいちゃんのお嫁さんになるの?」
 少年は吹き出し、銀の天使は色を失った。
「ひ、ヒスイ!? 何をいうの。この少年は妖魔で、あなたは人間で……」
 誰かが教えたのだろう。もらいにくるといったらそれは求婚の文句で、そうしたらお嫁さんになるのだ、とかなんとか。少年は笑いをこらえながら頷いてやった。
「そうだなぁ、それでもいいな。ヒスイ、オレのところにお嫁にくる?」
「……わかんない」
「正直だねぇ!」
 少年はまた腹を抱えて笑った。こんな、頭が大きく腹がつきだした幼児体型を前にして情欲を覚えろというほうが無理だ。そういう趣味はない。相手が幼すぎて恋心さえ抱けない。他愛もない子供の「ごっこ遊び」だ。銀の天使はそれまで子供の「ごっこ遊び」に接したことがないのか本気でうろたえている。先ほどまでの取り澄ました顔とは随分な違いだ。からかい文句のひとつでもかけたくなる。
「いいじゃん。妖魔だろうと、人間と一緒になった奴らはそこそこいるんだからさ?」
「とんでもない!」
 銀の天使はきつい紫の目で少年を睨み、腕の中でヒスイは、まだよく分からないという顔をしていた。この子供もあまり表情が動かない。だから余計、銀の天使と血のつながりを疑ったのかも知れない。
「そうだね。いつかお前が大きくなって、うんと美人になってたらお嫁にしてあげるよ」
「……ヒスイはどっちでもいい」
「口説きがいのないガキだね、ホント」
 苦笑しながら、ぷくぷくした頬に口づける。抵抗しなかった。きっと親に愛されて、そのような愛情表現を受けているからとまどいもないのだろう。
「あ、ねぇ? このお花、なんて名前?」
 ヒスイは今頃思い出したように、青い花を持ち上げて問いかけた。
 これで最後だと、子供は子供なりに何かを感じたのだろう。少年は目を細めた。
「それはねぇ……ワスレナグサっていうんだよ」
 忘れないで。
 忘れないで。忘れないで。
「じゃあ、おにいちゃんのお名前は?」
 当然の問いかけ。銀の天使がためらいをみせる。妖魔に名前を名乗らせる危険を彼女は知っているのだろう。少年は深い海よりも青いその瞳を細めて、微笑みを浮かべる。耳を貸すようにいうと、ついぞ名乗った事のない真実の名を口にした。
「……あおい、お名前だね」
 ヒスイは微笑む。嬉しそうにまた少年の髪を引っ張って。
 もう誰にも名乗らない。真実を知るのはこの無邪気な子供だけでいい。
「また会おね」
 銀の天使に抱かれて幼子は手を振った。幼すぎてまだ少女とも呼べない、小さな娘。
 うん、と頷いて少年も手を振り返す。
 忘れないで、幼い子。
 どうか忘れないでいて。
 消える前に子供は、何かとびきり素敵なことを思いついたような顔で叫んだ。
「今度会ったら、おにいちゃんの側にいてあげるよ! ずっとずっと!」
 それは真実、少年の望んだこと。
 少年は相好を崩し、いつまでも手を振った。

 銀の天使の白い翼が広がった。
 闇の中、それが消えるまで少年はずっと見つめ続けた。

 どうか、お前は忘れないで。
 ――オレは忘れてしまうから。

   ***

「嬉しそうね?」
 その日、御簾の向こうからうら若き女主人の声が飛んで、そう問われた。
「そうですか? ええ、そうですね。嬉しいことがあったんですよ」
「あら?」
 かの女主人は続きを促したが少年は笑顔で首を振る。
「すいません。忘れてしまいました」
 彼の能力は夢見。夢は無意識の集合体だ。記憶を司るともいっていい彼は人間と違って自然に「忘れる」ということがない。忘れたということは、意図的に自分の記憶から消したということである。
 女主人は御簾越しでもわかる、優雅な仕草で首を傾げた。
「どうして? 嬉しいことだったのでしょう?」
 嫌なこと、悲しいことを忘れるというのならわかる。楽しいこと、嬉しいことをどうして忘れなければならなかったのか。彼女の問いはもっともだ。少年もそう思う。が、その理由を説明しようにも、それさえ忘れてしまった。
「……何か、忘れた方がいいようなことがあったんでしょうね。けれどとても嬉しいことだったみたいですよ。それだけは覚えているんです」
 にっこりと笑いかえす。
「忘れてしまいました」

 忘れてしまえば、思い出は自分だけのもの。
 妖魔の中には人の心を読むことに長けるものも多い。麗しの女王と呼ばれる妖魔の長もまた、心をたぐる術(すべ)に長けた妖魔だった。側近である少年の心を読むことなど造作もないほどに。少年の記憶は即あの子の危険に繋がる。だから忘れた。
 忘れてしまえ。記憶の遙か彼方、誰の手の届かないところへ。妖魔の長さえも届かないところへと。
 もしかしてもう一度『  』に会うことがあれば、もう一度同じことを思うのだろうか。大切な大切なこの思い。

 ……会う? 誰に?

 大切な……?

   *

 それからずっと後、青い髪の妖魔と成長した彼女は幸か不幸か再会を果たす。
 彼女は彼を覚えていなかった。
 青年となった妖魔ももちろん彼女を覚えていなかった。

 だから、遙か昔の約束はもうなかったことになっている。遠い遠い、忘れられた記憶の話だ。
<終>


<あとがき>
この話は03年夏に企画された番外編競作企画「その花の名前は」に参加するため書き下ろしたものです。
本編未読で読めるものというのが条件なのですが……何もいいますまい。
さらにいうと既読の方に向けては言い訳満載の内容になっています。つまり本編と微妙につじつまがあわない箇所が何ヶ所か。
むしろパラレルワールドとしてお楽しみいただけるとよろしいかと思われます(苦笑)

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[本編既読向けのあとがき]
[目次]
Copyright (C) Chigaya Towada.