君だけに許していること、僕だけに許されていること
 トーラがさらわれた。
 妖魔とはいえヒスイにとって妹同然の娘である。しかもどうやらヒスイと間違えられて誘拐されたらしい。
 それを知っていて黙っていられる性格ではない。
 当然というかなんというか、ヒスイは周囲の制止も聞かずトーラを救いにと向かった。

「まあ、そういうところがヒスイらしいといえばらしいんだけどね」
「ついてこなくていいといったぞ、私は」
 夜。捕まっているらしい館の城壁が見える茂みの影でヒスイはロープを握っていた。わずかな星明かりに照らされて緑の瞳が煌めいていた。いつもヒスイにくっついている青い目の男は首をすくめ溜め息をついた。
「で、どうやってこの城壁を越えるのか聞かせてもらえる?」
「そりゃあ、このロープで……」
「そのロープはどうやって固定すんの?」
「………」
 ヒスイの口角が下がった。
「お……重りをつけて……」
「そんなものがどこにあるの? 重りをつけたとして、どうやって向こう側に固定する気? いっておくけど、いかにも忍び込んでくださいとばかりの枝振りのよさげな木なんて普通は城壁の側に植えないよ?」
 立て続けの理論攻撃にヒスイが段々うつむいていく。上目遣いにセイを睨み付けた。
「……お前、ここに来るまでわざと黙っていただろう」
「えー? だーってヒスイってばなんにも聞かなかったしぃ」
 首を傾げて無邪気な笑顔。彼の首の後ろで一束にまとめた長い赤毛が猫のしっぽのように踊っていた。
 ヒスイは力の限りロープを真一文字に引っ張った。手の甲には静脈が浮いている。
「こういうときはね。あらかじめ手引きしてくれる人間を城内に作っておくとか、ロープの先に鉤爪を結んでおくとか……ああ、ヒスイの場合は鉤爪を作るところから始めなきゃね。根回しはちゃあんとやっておかなくっちゃあ」
 さすがに元・盗賊だけあってこういうことの手順には詳しい。
 先走って何も準備をしてこなかったヒスイは歯軋りした。
「だからって、私はトーラを見殺しにはしたくない……!」
 まっすぐにセイを見つめる。噛みつきかねない勢いだ。
 綺麗だなあ。
 のんきな感想をセイは心の中でつぶやいた。
 怒っているときが一番ヒスイは綺麗。それにまっすぐに見つめてくる瞳が綺麗。ヒスイの容姿に「綺麗」という形容詞を使われることはまずない。美人には違いないが「綺麗」といわれるよりも可愛いとか格好いいという形容詞を使われる方が多い。それでもセイは彼女を綺麗だと思った。
 セイの両手がヒスイの頬を包む。額に軽くキスをした。
「おまっ……!」
「静かに。大きい声出すとその口、唇で塞いじゃうよ?」
 ヒスイは口をつぐんだ。
 おとなしくなった彼女にセイは優しい声音で囁く。
「ここから先はオレの役目。ヒスイはここで待っていて。絶対見つからないようにね」 
「駄目だ。私も行く……」
「でもヒスイにあの城壁は越えられないでしょう? だからオレが行く。大丈夫だよ。ちゃんとトーラは連れて帰るから」
 たまには頼ってよ、と、ちょっと情けない顔でセイは笑った。その間、頬にあった手は小さい子供をあやすかのようにヒスイの黒髪をなでていた。なでられて彼女は目を細めた。
 彼女の手にあったロープを優しい手つきで取り上げる。彼は城壁へと歩みをすすめた。城壁は先ほど彼自身がいったようにロープだけでは登れない。
「割と低い城壁でよかったってことだな。ま、なんとかなるでしょ」
 自分の背丈の三倍半はありそうな壁を見上げる。
 彼はナイフを取り出し、城壁の石の継ぎ目を丹念になぞって自分の肩の高さあたりに突き立てた。
 助走をつけるために後退する。茂みの中に隠れているヒスイに振り向いた。
「ヒスイ、手伝ってくれない。オレが壁に近づいたら下から突風を起こしてほしいんだ」
 ヒスイは風を操る力がある。
 セイが走った。風がざわつく。思いっきり壁近くまで走りよって地面を蹴った。突風が真下から吹き荒れた。セイは城壁に突き立てたナイフを足がかりにさらに跳躍した。
 突風のおかげか実力か、城壁のてっぺんに両手をかけると鮮やかに壁を越え向こう側へ消えた。なんとも身軽な男である。
 ヒスイは茂みに隠れながら見届けた。
 たまには頼れといった。たまにはどころかいつもヒスイは彼に面倒をかけていた。彼にだけは頼りたくないと思っているのに。
 だからついてこなくていいといったのに。
 だからなにも聞かなかったのに。
 聞けば教えてくれるだろうことは分かっていたはずなのに。
 結局いつも彼がいなければ自分はなにもできない、それがヒスイの神経を苛立たせていた。
 祈るように名を呼んだ。……額にはまだ唇の感触が残っていた。

 城内に忍び込んだセイは本領発揮とばかりに闇にまぎれて目的のトーラのところまで近づいていた。
 城をうろつく警備兵には背後から手刀を浴びせかけ眠ってもらった。
 トーラが捕らえられている館の一角、入り口の両側には当然警備兵。
 セイは口の中で小さく謝罪した。
「ごめんね、ヒスイ。ヒスイがあんまり殺生するなっていうからここまで、それ、守ってきたけど、さすがにここは無理なんだ。怒らないでね」
 闇の中に風切り音が二つ。
 二人の警備兵は一言も発することなくその場に崩れ落ちた。彼らの咽には細い刃物が突き刺さっていた。細い刀身に麻糸を巻きつけただけの簡素な柄を持つそれはセイの作った投げナイフ。手の平に隠せるサイズのそれは暗殺にうってつけ。
 二つの死体の側をゆうゆうと通り抜けセイは扉をくぐった。

「よお、足手まとい。迎えにきてやったぞ」
 ぞんざいな台詞である。
 館の中にしつらえた豪奢な牢獄。波打つ蜂蜜色の髪を肩口で切りそろえた少女が檻にいた。
「来てくれたのね!」
 明るい声である。明るい藤色の瞳がさらに明るく輝いた。
「ヒスイがお前がいないと嫌なんだってさ」
 罠が仕掛けていないか辺りを警戒しながら檻に近づいていく。かなり凝った造りの鍵がかけられていた。やはりセイが赴いて正解だ。針金と蝋を使って彼は器用に鍵を開けた。
 檻から出るとトーラは嬉しそうにセイに抱きついた。それを力技でひっぺがす。
「さあて、とっとと逃げるぞ」
「ヒスイは?」
「外。置いてきた」
 ふうん、とトーラは疑り深い目で彼を見上げた。セイがヒスイの側を離れるなど、トーラの知っている常識では考えられない。
 入り口を出て、二つの死体にトーラは悲鳴をあげた。声は出なかった。声が空気を震わせる前にセイの手で口を塞がれていた。
「大声を出すな」
「……だって……」
 青ざめている少女の顔した妖魔にセイは鼻白んだ。
「ちょうどいい。証拠隠滅を忘れてた」
 咽に刺さった投げナイフを抜く。生暖かい赤が噴き出した。
 人を殺すのに罪悪感のかけらもない。昔は盗賊というより暗殺者としての需要が高かった男はヒスイのために裏家業を放り出した。ただし完全に捨てたとは言い切れないのは目の前の一場面でも分かることだった。

 闇の中、音もなく疾走する影。それにちょこまかとついていく影。
「どうして殺したのよ」
「必要だったからに決まってるじゃん」
 ふざけた口調だった。
「『あなた』なら傷つけずに眠らせるくらいできたでしょう? 私には見えてるんだから! あなただって妖魔じゃないの!」

 青い目が物騒な光を帯びた。
 次の瞬間、彼女の体は壁に叩きつけられた。衝撃が痛みとなり内臓まで走る。息を整える間もなく二度目の衝撃。咽を押さえつけられ後頭部を強く打った。それだけなら飽き足らないとばかりに彼女の細い首にナイフの刃が押し付けられる。
「見えすぎる目ってのも問題だな、え?」
 セイのいつもは陽気な青い目が今、永久氷壁の冷たさを持ってトーラを見下ろしていた。
 赤い髪がざわついた。髪の色が一本一本、青に変わっていく。人間には決して現れない色の髪をした男は少女の姿をした同類を目の高さまで持ち上げた。
「確かにお前のいうとおり、オレの力を使えば人間なんざ眠らせる……操ることなんて造作もないがな、それは妖魔のオレにできても人間のオレにはできないことなんだよ」
 咽元に当てられたナイフの刃が肉にめりこんだ。
 恐怖。ナイフよりトーラは目の前の男が怖かった。彼はその気になればナイフより強力な武器を使うことができる。……彼は人の精神を自在にできるのだから。
 見えすぎる目はトーラの望んだことではない。
 精神を操るのが妖魔としてのセイの力ならば、トーラは過去・現在・未来が見える力を持つ。その力は強大すぎてトーラは他の妖魔が一般的に使える力を全く使うことは出来なかった。今、この呪縛から逃げることも出来ない。
「いいか? ヒスイにはオレの正体、絶対にバラすんじゃないぞ。なんなら今すぐこの刃を真横に引いてやろうか」
 やめて!
 声は出ない。咽元を押さえつけられ、空気が通ることも許されそうになかった。息を呑むことさえ咽が切れそうで出来なかった。
「ふん」
 彼は乱暴にトーラを放り出した。
 精神を操る彼にとって心の中の叫び声を聞き取ることは簡単だった。
 急激に肺に空気が流れ込む。彼女はむせび、涙が溢れた。咽に当てた手の下ではうっすらと血がにじんでいた。
「城内が騒がしくなってきたな。死体を見つけられたか気絶させた兵士が目覚めたか……余分な時間をかけさせてくれたからな」
 いかにも面倒、といった風情で彼は指を鳴らす。小気味いい音がした。
 トーラの咽元を彩っていた血が消えた。それだけではなく、したたかに打ちつけた背中や後頭部の痛みもきれいに消えうせた。
「……どうして?」
「お前に怪我をさせたとあっちゃヒスイが怒るからだ」
 そしてその原因も追求されるだろう。さらに面倒になる。
 セイの髪の色がゆっくりと赤毛に戻った。セイのいうところの「人間のセイ」である。
「さっさとこんなところおさらばしたいね。トーラ、これからちょっと荒事になるから、ちっちゃくなって隠れていてほしいんだけど?」
 陽気ないつもの顔である。
 トーラが見る力以外でもうひとつ持っているのが小さくなる力である。これがあるから身を守る術を持たないトーラが荒事続きのヒスイの一行に加わっていられるのだ。
 トーラは羽の生えた妖精くらいのサイズになってセイの手の平の上に乗った。腰に結わえた皮の小袋に放り込まれる。
「そこに隠れてな」
「ねぇ、セイ。私、さっき小さくなればあなたから逃げられたのよね。どうして思いつかなかったのかしら。もしかして、あなた何か、した?」
「何のこと?」
 見下ろした顔は笑っていた。笑った瞳は極寒地獄。トーラは思いっきり力をこめて首を横に振った。この男ならば妖魔の力を出さなくても、奸智を総動員させてヒスイに恨まれることなく(ここが重要)抹殺することなど朝飯前だとはっきり分かってしまったから。
(よく「顔は笑っていても目は笑ってない」っていうけど、悪意の見え隠れしてる目が心から笑ってるほうが怖いに違いないわ)
 トーラは皮の小袋の中で今見たものを懸命に忘れようと努めた。

 城壁の内側が騒がしい。見つかったのだろうか、と一人隠れているヒスイはやきもきしながら二人の仲間を待っていた。
 城壁の上に人影。それは壁の内側で焚かれている火に照らし出されてヒスイの目にもはっきり見えた。彼は城壁の上にしゃがみこんで何かの作業をするとロープを垂らして下りてきた。
「おまたせっ」
 幸せそうな顔をして走りよってくる。
 抱きしめてきたらぶん殴ってやろう、と息巻いていたヒスイだが、セイは彼女の手をとると走る速さを緩めずに一気にその場から走り去った。

「ようやく巻いたかな」
 走って走って、山の中でセイは一息ついた。ついてくるのがやっとだったヒスイは一生懸命、呼吸を整えていた。
「トーラはっ!」
「ひどぉい。第一声がそれ? オレのこともちょっとは気にかけてよー」
 空々しく泣きまねをするが、愛しい女性が胸倉をつかんで無言の圧力をかけてくるのに降参して腰の皮袋からトーラを出した。可哀想に、目を回していた。
「よかった……」
 瞳を輝かせ安堵に胸をなでおろした。そのヒスイの上にセイがのしかかる。
「ヒスイ、だーいすき」
 語尾が弾んでいる。幼子が口にすれば可愛いで終わる台詞も大の男の口から発されるとちっとも可愛くない。
「……重いんだが」
 だからどいてくれ。
「だってヒスイと離れ離れって、とぉっても寂しかったんだもん」
 だから今はヒスイの迷惑は考えない。
 振り返り、きつい瞳でセイの方を見る。彼女の顔がセイの真正面に向いたとき彼はすばやく額にキスをした。
 額に施してあった目くらましの結界を解除して、セイは笑んだ。
「愛しているよ、ヒスイ」
 とろけそうな極上の笑顔。
「……お」
「お?」
「お前という奴はーーーーーー!!」
 一回目にいえなかったことを大声で叫ぶ。ヒスイの拳がまっすぐに繰り出され、目の前の標的にめり込んだ。

   *

 愛しているよ。
 君を愛してる。
 優しくなれるのは君にだけ。君だけに許していること。

 だから君の望むことはなんだって叶えてあげたい。僕が望むのは君の側にいて君を愛することを許してもらうことだけ。愛してほしいとは望まない。
 だって僕が僕のままそれを望んでしまったら、君は僕を愛してしまうから。
 こんなときに僕の力は厄介。だから封じた。僕が愛したのは誰よりも自由な君だから。
 それに君は人殺しの僕はかろうじて許せても人の心を捻じ曲げて好き勝手に操る妖魔の僕は決して許しはしないだろう?
 だから教えない。
 いつか分かる日が来るかもしれないけれど。
 僕はそれまで君に嫌われたくない。

 愛してる。愛しているよ。
 そして、それは僕だけに許されていること。

   *

「だからね? トーラを見つけたのはいいけど思った以上に追っ手が早くかかって、当然捕まるわけにはいかなくって」
 一生懸命、ヒスイに事の顛末を話す。正確には言い訳だ。
「……で。何人殺したって?」
 ヒスイの声は不穏極まりない。
「そんなに多くないよ。どうしても静かにしてほしかった入り口の二人だけだから。逃げるときはね、ちゃんと殺さないように目をつぶしたり足の腱を切ったりしたから」
 だから褒めて。えっへん。
 ヒスイがくれたのは雷だった。
「あれほど殺生するなといったろうが!!」
「だからできるだけ殺さないようにしたじゃない〜」
 頭をかばうように手をかざして、セイは泣きそうな声をあげた。
「失明したら、その人は一生不自由なんだぞ! 足の腱は一度切ったら元に戻るのにとても時間がかかるんだ! しかも下手したらこれまた一生歩行障害を起こすかも知れない、そんなことも分からないのか!?」
 分かってるからやったんじゃない、と小さな声で弁解したらさらにヒスイの怒りは大きくなった。
 元の大きさに戻ったトーラは、馬鹿みたい、と二人のじゃれあいを見ていった。幸いにして血飛沫絶えない脱走劇の間、皮袋の中だった。妖魔であるくせにそういうことの嫌いなトーラは「見なくて良かった」と安堵していた。
 ふいにトーラの瞳に目の前で起こっている以外のヴィジョンが映った。
 未来の光景だ。
 過去のことや現在遠くで起こっている出来事を見るのとは違ってトーラに未来のヴィジョンはほとんど見えない。現在によってそれはいくらでも変わる可能性があるからだ。その代わり見えたものはかなり高い的中率を誇る。

  君だけに許してる。僕が愛することを。
  僕だけに許されてる。君を愛することを。

「……どうやら、セイだけの特権じゃなくなるみたい」
 二人が聞いてないことをいいことにぼそっとつぶやいた。
「なにかいったか?」
「いいえ、なんにも!」
 わざわざ伝えることはない。それはトーラの身の安全にも関わる。
(どうして見たくもないものばかり見えるのかしら)
 自分でコントロールできるものではないらしい。
 とにかく今は目の前で繰り広げられている平和な(?)二人の様子を傍観するだけに決めた。運命はどうとでも転がるものだ。
 ヒスイに怒鳴られ、ときには殴られながら、それでもセイはこのじゃれあいを心から楽しんでいた。これもまた、真実。

 愛しているよ。

<終>


<あとがき>
えー、記録によると約一年前、澪さんに差し上げたものです。
(その節はお世話になりまして……)
実はこのとき、本編ではまだサラが主人公でした。
読み返すと、色々本編と設定が違っていますね。ヒスイの目の色が翠ではなく緑になっているし、セイの正体もヒスイにはまだばれていないようです。なのにトーラがすでに仲間になっていますね。
パラレルワールドとしてお楽しみください。

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