ぬばたまの記憶

 それは、もう遙かに遠くなった記憶。
 あれを何というのだろう。例えるなら、光放つ漆黒?
 闇があれほど優しく、あれほど清浄な、美しいものだとは思わなかった。

 もう二度と見ることもないと思っていたのに……それなのに。
 醜悪な類似物が、記憶を呼び覚ます。

   ***

「頼もう」
 カイマンが、シドの住まいを訪ねたのは日が暮れてすぐの頃だった。
 迎えてくれたのは美しいが無表情な女だった。
「お約束はされておりますでしょうか」
「そんなものはない」
「承知いたしました。少々お待ちくださいませ。主人に伺って参ります」
 抑揚のない声。
 扉は一度閉ざされる。そして、見えない扉の向こうを見るような目でカイマンは一人ごちた。
「……よく出来た人形だ」
 滑らかな動作、精巧な造形は人間以外の何者にも見えなかったが、かの女からは生きているものの匂いがしなかった。

 ここは妖魔の空間。妖魔がその力を持って空間をゆがめた、この世であってこの世でない場所。そこに庵を結んでシドは人形を作っている。彼はあの妖魔の女王さえも認める、すぐれた人形師だ。他人と関わるより人形に囲まれているほうが落ち着くと普段より豪語する彼なので、人形を従僕にしていてもなんの不思議もない。

 扉が開いた。
「お会いになるそうです。どうぞこちらへ」
 人形の女は、白い手で奥へと促した。
 ぐねぐねと曲がった廊下を歩かされ、その途中にはいくつもの分岐点。わざと人を迷わせるように作られたとしか思えない構造だ。そうして通された部屋には、小さな椅子に薄皮一枚張った骸骨のようなシドがちょこんと座っていた。
「なんじゃ。本物かい」
 開口一番、失礼なことを抜かす骸骨ジジイである。
 カイマンは無言で、シドの鼻先に持ってきた酒をぶらさげた。
「ほほう、手土産持参とな。一応礼儀を知っておるんじゃな。しかしワシはたしなむ程度しか飲めんのでな〜。お前達に下げよう。持っておいき」
 シドは台詞の後半を先ほどの女に向けた。女は丁寧に一礼する。そして、横から近づいてカイマンの手から酒の器を受け取った。間近で見ると、何も映さない硝子玉のような瞳をしていることに気づく。予想通り、その瞳には何の感情も浮かんではいなかった。
 女は酒を手にさがっていった。
「悪趣味な。あれも人形か」
「ん? む……そう見えたか」
 カイマンは歯と歯をあわせて小さくカタカタと鳴らした。笑っている、のかもしれない。
「そうじゃ、今はな。だが元は生きていたモノよ。うまく出来ておるじゃろう?」
 カイマンは一気に胸が悪くなるのを感じた。
 そりがあわないのはこういう部分だ。この男は死体をおもちゃにして人形を作る。
 顔に出ていたのだろう。シドが台詞を重ねる。
「分かっておるなら来なけりゃええんじゃ。一体何の用じゃ?」

 思わず言葉に詰まった。

 理由ははっきりしている。が、それをはっきり口に出すのは、かなりの勇気がいった。
 認めたくない。けれど、もう一度見たい。
「……を……」
「なんじゃあ?」
 骸骨ジジイは嫌味たらしく、耳元で大きく手を広げた。
「あの、人形を、見せてもらいに、来た」
 一語ずつ区切って、やっとの思いで口にする。
 嫌味なシドはそれだけでは済ませてくれなかった。
「あの人形? さぁての。どの人形じゃろうなぁ?」
「分かっているだろうが、この因業骸骨ジジイめが!」
「さぁての〜。儂のところにある人形は、百はくだらんでの〜」
 ここまで綺麗にすっとぼけられては、はっきりといわざるを得なくなる。
 が。
「だから……つまり、あの……滅王に頼まれた、あれだ!」
 最後までちゃんと名を呼ぶことはできなかった。

   *

 シドは「例の」人形を部屋に呼んだ。
「またえらく執着しておるんじゃな?」
 カタカタと歯を鳴らす。どう思われようと、もう一度「あれ」を見たかった。
 立ったまま眠っているような「人形」。
 長衣の頭巾ははらわれ、首から上だけがあらわになっている。
 改めて「人形」を見てカイマンは息を呑んだ。

 この世で最も美しい者が誰かと聞かれたら、闇の精霊を知る者なら全員が全員、かのひとのことを連想するだろう。
 長い黒髪はくせもなく艶やかで、室内を照らすわずかなろうそくの明かりを跳ね返して、まるで星を映した夜空のよう。伏せられた瞳は長いまつげに縁取られ、その奥には森の色をした泉を隠している。きめ細かく滑らかな肌は磁器のように白く、黒髪と深緑色の瞳をさらに際だたせていた。すっきりと通った鼻梁、結ばれた唇ひとつとっても完璧な美貌。
 この人形は外見だけだが、本物はもっと「美しい」存在だった。内側からにじみでる魂の善良さがその美しさをさらに際だたせていた。

 記憶が蘇る。
 誰よりも美しかった。
 初めて見たとき、夜がそのまま具現化したと思った。
 闇が、ただ恐れるだけではないと知った。
 包み込むような優しさと安らぎ、穏やかさ。そこにいるだけで空気が澄んでいくような清浄な雰囲気。そして、同時に持つ厳しさ。あの存在を見かけるたびに何度自問自答しただろう。こんなに美しい闇があっていいのかと。
「――だが、『これ』は何も語らない」
 人形を見つめるカイマンの目は、いつのまにか険しくなっていった。
 何よりも美しい者の記憶を鮮やかに呼び覚ましてくれるのに、目の前にあるのはそれによく似た類似品。似すぎているからこそ、その差異が激しい。闇の精霊はもっと優しく暖かかった。敵対していてもその空気は伝わってきた。これは、顔のきれいな作り物の冷たさがあるだけだ。
 先ほどの召使いの女のように、人間のように動き、人間のように話し、人間のような姿をしていても何か感じる違和感。「これは違う」と。人形は人形でしかないのかもしれない。

 シドは、人形とカイマンを代わる代わる見て口を開いた。
「闇の精霊、か?」
「まあな」
「そなた、何やら思い入れがあるようじゃが、そんなに闇の精霊というのは美しかったのかの?」
「……お前は、あれを知らないからいえるのだ」
「そうじゃ。知らぬ。見てみたかったものよな。『これ』は儂の最高傑作じゃが、女王やお主は『本物と違う』という。儂は自分が作っておる人形が闇の精霊だとは、あの瞬間まで知らんかったんじゃから」
 シドは人形に触れ、愛おしそうに撫でた。
 そういう意味で、たしかにシドは人形作りの天才かもしれない。
 知らないのにここまで作り上げた。いや、あの滅王のことだ。わざと「知らない」シドに白羽の矢を立てたのかもしれない。知らないシドの、人形師としての情熱がここまでのものを作り上げた。
 始めから知っている存在に作らせたならおそらく、もっと醜悪なまがい物しかできあがらなかった。
「お前さんの不細工な面は本当は見たくなかったんじゃが、来た以上、儂も聞きたかったことがある。闇の精霊とはどういう存在だったんじゃ? むかーし敵対していた精霊の長だったとは聞いておるが?」
「そうだ。雷帝統治時代の、精霊の長。お前も知っての通り、俺は雷帝の隣にいたからな。たまに対峙するときに顔を合わせた程度だ。だが……そうだな。闇のいいところ、きれいなところを凝縮したような存在だった。優しく、穏やかで、許しを象徴しているような。対極にあったのが滅王だ。あれは同じく闇に属する者でも、闇に隠したい陰惨な部分や淫蕩な部分が凝り固まっている存在だったからな」
「なに。あれは悪の華というのよ。あれはあれゆえ、たいそう美しい」
 造形美をもっとも尊ぶシドはカタカタと歯を鳴らした。からっぽの眼窩の奥でなにを思うのか。もしもそこに眼球があったら、目はうっとりとした表情を作ったに違いないと思った。

 雷帝が統治していた、あの時代を知る妖魔は少ない。
 精神がそのまま器を形作る妖魔は、大きすぎる精神的衝撃を受けると器を支えきれない。雷帝が死んだという事実は多くの妖魔にあまりにも大きな衝撃を与えた。ほとんどの妖魔、特に雷帝に近ければ近い者ほど、器を維持することをやめた。あるいは維持できなくなった。
 目の前で友も消えた。人間は死ぬと魂の抜けた器を残す。しかし精神体である妖魔は死体を残すこともない。友も、存在した証ひとつ残さず霧散した。
 なぜ自分は生き残っているのか、カイマンは時々自問するが、その答えはとうに忘れてしまった。
 だから今、雷帝を知る妖魔は少ない。そして、それは同時に、かの人と同時期に死んだ闇の精霊を知る妖魔も少ないということだ。

 カイマンは人形を見つめる。闇の精霊の姿を映した『それ』はやはり、人形特有の冷たさを持ってそこに存るだけだった。

 沈黙を破るようにシドが口を開いた。
「儂は、闇の精霊は知らぬ。だが、あれと同じ顔をした人間を知っておる」
 カイマンは目を見開いた。
「『あれ』と!?」
「信じられぬ、という声音じゃな?」
 当たり前だった。いくら人間が神の姿を映すことの出来た唯一の動物でも、最初から神を模倣して作られた精霊や妖魔とは違う。あの美しさがそう簡単に現れるはずがない。あのサイハよりも美しい存在を、カイマンは闇の精霊しか知らなかった。
 だがシドはいう。
「正確にはその死体を知っていた。ある日、妖魔の女王がひとつの首を持ってやってきた。この首を元に、この世で最も美しく最も強い人形を作れ、と」

   *

 それは人間の男の首だった。
 長く美しい黒髪、閉ざされた瞳。
 どちらかというと女性的な美しさを持つ顔だったが、人体に精通しているシドだからこそ、その首の持ち主を男だと分かった。
 年の頃は三十代前半から後半。肌表面のきめは十分整っていたが究極のものよりは粗く、年齢相応の皮膚のたるみもある。死後硬直も始まっていて表情はこわばって見えた。シドは真っ先に、もったいないと思った。せめてあと十年若いときに出会っていたら。生きているうちにその姿を見られたら。
「これの体は?」
「いらないわ」
 サイハは赤い唇に冷たい笑みを浮かべていた。
「この存在に性別なんていらないの。両性具有ではなく、無性に。それから顔はこれを元にして欲しいのだけれど、もう少し若く作ってもらえる?」
 シドはまじまじと首を見つめた。
 シドだからこそ分かることがある。この表情筋の適度な付き方、完全に左右対象の目鼻立ちは滅多にあるものではない。そして切れた毛や癖毛やごわつきのない、十分な油分と水分で潤った滑らかな髪の毛。シドが造形美を対象とする人形に求める完璧な美しさが、まさに天然の状態でそこにある。じっくりと見つめていくうち、人形師としての情熱がふつふつとたぎってくるのがわかった。
「骨格と髪の毛はそっくり使わせてもらおう。だが、若返らせるには新しい皮膚が必要じゃ。それも最も美しい人形にふさわしい、白くきめ細かく、ひとつもしみや傷のない、完璧な皮膚がな」
「……あなたならそういうと思っていたわ」
 サイハが婉然と笑みを作った。
「瞳にする硝子玉も忘れてはならんぞ。いや、硝子では駄目じゃ。宝石をよこせ。二粒、まったく同じ大きさの上質なものをな! 色は髪の色にあわせて黒か?」
「深緑なんてどうかしら? 深い森の色、命の色よ。毒の色でもあるわね。……用意しておくわ」
「早くな! でないと腐敗が進むじゃろうが!」

 強い人形を作れ、という命令はシドの中で二次的なものになっていた。
 とにかくこの世で一番美しい人形を。あのサイハを越える美しさを持つ人形を。
 皮膚の選別には時間がかかった。そのうち首を支えるための体の骨格を探したが適正なものが見つからず、あらたに削りだした。材料は秘密だ。
 そうしてまず美しさを整えて、次に戦える体を作りだして、今は表情という最後の仕上げにかかっている。
 ここまでくるのに五十年はかかったかもしれない。

 闇の精霊の顔だと聞いたとき、驚いた。
 シドにとってこれは五十年前に死んだ「人間」の顔でしかなかったからだ。

   *

「馬鹿な!」
 思わずカイマンは叫んでいた。
 シドは、空っぽの眼窩を向けてただそこにいるだけだ。表情らしきものは読めない。空虚な声がするだけだ。
「今にして思えば、女王は始めから『精霊』を作ろうとなさっておったんじゃな。性差のない、永遠に若々しい存在。あの顔の持ち主……生きた人間が、その条件にあてはまらなかったというだけの」
 そうかもしれない。
 一瞬納得しかけた。
 だが、カイマンは首を振った。
「違う……! ただの人間に、あの奇跡が再現できるものか!」
 あの顔は、この存在は、そう容易く人間が真似できるものではない。あのサイハより美しかった闇の精霊。その姿に、よく似ているという表現では追いつかないほど、そっくり同じ顔。
 深い深い闇、どこまでも広がる安らぎ。
 かの魂を納めるのにふさわしい器。
 ではなぜか。
 あの顔の持ち主たる「人間」に、闇の精霊の魂が入っていたからだと仮定すれば。
「……生まれ変わったというのか……」

 ごくまれに、同じ魂を抱えてもう一度生まれてくる例があるという。
 サイハの側に控えている氷の精霊もそうだと聞いた。
 シドは「そうかもしれんな」といい、人形を見つめる。カイマンは、なぜか、怒りに似た感情が膨れ上がってきた。

「ではなぜ! 闇の精霊が生まれ変わっているのに、雷帝はこの世に存在しない!?」

 シドは冷たい声でいった。
「その答えは多分、誰も知らぬ。あの人間が闇の精霊の生まれ変わりであるということも、お主の仮説にすぎぬ。また雷帝がこの世にもう一度生を受けていないといいきるのも、お主の仮説にすぎぬ。もっといえば生まれ変わりが同じ姿をしていると決めつけるのも早急じゃ。答えは誰にも出せぬ。おそらくはあの女王にもな。あえてその答えを求めるのならば『予言の星』に求めるのであるな」
「……」
「女王は、この人形を『星』のために用意した駒じゃというた。ならばそこで何かしらの答えが得られるのかも知れぬ。あの青い小僧はどうやらあちら側についたようじゃし、なによりあの女王が珍しくご執心じゃ。そこらあたり何か理由があるのかも知れぬ。……いや、これは儂の仮説じゃな。どのみち今ここで答えは出ぬよ」

 それは正論。何も言い返せない。ここで何を言ったとしても、真実にはたどり着かない堂々巡り。
 カイマンはもう一度、人形を見た。
 例えようもない懐かしさと同時に、いいようのない怒りがこみあげる。
 カイマンは、正直いうと闇の精霊が嫌いではなかった。敵対していたけれど、嫌っても憎んでもいなかった。むしろ好ましくさえ思っていた。容姿に恵まれなかったカイマンは他者より余計に美しさが持つ『力』の威力を知っている。美しさは人を動かす力になる。その最たる者がサイハであり、そして闇の精霊だった。
 雷帝と、闇の精霊が刃をかわす姿は息を呑むほど綺麗だった。
 なのに今、あの当時の両軍の将は、片方の姿しかない。それが寂しい。寂しくて、悔しい。子供が自分の手柄でもないのに優れた友人を自慢するように、カイマンは雷帝が自慢だった。
 ――けれど雷帝はここにはいない。
 人形の顔は否応もなく思い出させてくれる。思いおこせば「幸福だった」といえるあの頃を。
 思い出させないで欲しかった。忘れていたのに。忘れたふりをしてきたのに。
 記憶が呼び起こされる。
 王よ、友よ、そして愛しい面影よ。過ぎ去りし日々は二度と戻らない。

 醜悪な闇の類似物は微動だにせずそこに在った。
 カイマンは黙ってその場から立ち去った。

   ***

 のちに「予言の星」と対峙したとき、カイマンは知ることになる。
 サイハがあれほどまで「星」を求めていた理由を。

 ――ああ、あんたは、そんなところに居たんだな。
<終>


<あとがき>
いつかそのうち本編にエピソードとして挟む予定だった話。
さして本編に関係のある話でもないんで(そうか?)番外編として独立させることにしました。この話を読んでいなくても本編に支障はありません。そのはずです。
ラストになにやら意味深な台詞がこぼれでていますが、深くつっこまないでください。オチの落としどころに七転八倒しただけです。「あんた」って誰ですかー(すっとぼけ)

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[目次]
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