イスカ少年の日常
 
 東の空が白んできた。太陽神の乗る金の車はまだ山の向こうから顔を出してはいない。周囲はまだ燭台を必要とするくらいには薄暗いが朝の気配は濃厚で、どこかで鳩が鳴いていた。イスカは人間の侍従が起こしに来る前にそっと主(あるじ)の寝台を窺いに行った。

 実は昨日、姫君は父である主の寝台に潜り込んで休んだ。人間がこれを見つけて騒ぐ前に、起こしてご自分の寝台に戻っていただかなくてはならない。
「もし、おはようございます」
 控えめにささやいたがそれで充分だったようで、帳の奥から二人分の気配が動いた。
 帳の奥から最初に顔を出したのはヒスイだ。
「おはよう」
 彼女の寝起きがいいのは共に旅をしていたときに了承済みである。
 それでも昨日遅かっただけあって、まだすこし眠そうだった。寝台の上から枕を抱えて降りる。イスカはその姿を見て小さく溜め息をついた。
 ヒスイときたら極めて短い上下を着て恥ずかしげもなく足を出していた。ちなみに普通、婦女子の夜着というものは足首までの長さの浴衣に腰帯と決まっている。
 男の子のような下衣を身につけるのはいい。旅装も男物だったから。だが旅装は長靴(ちょうか)の中にしまいこめるほど長い丈だったのに比べ、今着ているものは太腿の半ばくらいの丈しかない。上衣は半袖でこちらも市井の少年が普段着に身に付けていそうな服だ。いくら相手が父親とはいえ、間違っても殿方の寝室に入る格好ではない。
 ……いや、ある意味でとても正しい格好なのかもしれないが。そうすると逆に「父親」の寝床に潜り込む格好ではない。
 常識はずれのヒスイの姿に溜め息をつく自分がおかしかった。レンカの言葉ではないが常識がないのが精霊であるはず。常識を心配する自分の方がまるで「人間」のようだ。
 そんなささやかな感慨をさっさと捨てて、イスカは目の前の職務に立ち向かった。
「よろしいですか、ヒスイ様。そのままご自分の寝台にお戻りになってください。変な噂が立ってからでは遅いのですよ」
「変な噂?」
 ヒスイはことさら不思議なものでも見たような顔立ちで首を傾げた。さて、今度は寝起きのホウが帳の奥から顔を出す。長い黒髪をけだるげにかき上げて憂いを含む微笑みを浮かべた。
「私を、娘に手出しする変態にしたいのはイスカだけではないということだね」
「……まあ、近親相姦ネタなんて、おしゃべり雀の食いつく絶好の話題だものな」
 と妙に納得する親子だった。
 いっていることは間違ってはいない。間違ってはいないのだが。なのになぜかイスカは冷たい汗が吹き出すような錯覚を覚えた。……この会話、何かおかしいような気がするのはまだ自分が人間のことを理解しえていないからだろうか……。
「とにかく! 他の人が来てしまいます。ヒスイ様、お早く。ホウ様、あとで手水(ちょうず)と剃刀をお持ちしますからお待ちください!」
 ヒスイの背中を押して外に出す。ホウはというといつまでも名残惜しそうに手を振ってみせる始末だ。あれは絶対にご自分の娘御の年齢を間違っているとしか思えない。しかしヒスイ本人までが父親に向かって手を振って見せるのだから、イスカはもう何もいうまいと決めた。

 さて、ヒスイを本来の部屋の寝台に押し込んで――これも充分、姫君に対する臣下の態度ではなかったが――寝たふりをしてもらうように頼むと、今度は身を翻して剃刀と洗面器を取りにいった。ようやく辺りは明るくなってきていた。廊下でも侍女や従者とすれ違う回数も多くなる。
 イスカの本来の仕事は従者ではない。
 従者に使ってもらってもかまわなかったが、ホウはお前がそれをやると他の者の仕事をとってしまうからと、別の仕事を命じていた。それでも主の側にいたいという精霊の意向は無視できない。軽やかな足取りで、水を張った洗面器、石鹸、剃刀を主の寝室に運ぶ。
「おはようございます、ホウ様」
「おはよう」
 寝起きだろうとこの人は綺麗だった。イスカに一歩遅れて従者や侍女が幾人か入室してくる。彼らは水の入った瓶、鏡、櫛、それに濁った水を捨てるための別のたらいを手にしていた。長い黒髪を後ろから押さえてもらい顔を洗う。石鹸は滑らかな泡を作り、ぴかぴかに研がれた剃刀をあて、そして入れ替えた綺麗な水で顔をすすいだ。髪には魔力を蓄える作用があるといい、術者は長く伸ばすのが通例である。ヒスイのように短く切った髪はそれだけで損をしているのだ。まるで女性のような長い髪を侍女が黄楊(つげ)の櫛で梳く。精製されて匂いのない上質の椿油に浸された櫛は引っかかることなく黒髪の間を滑り降りた。本当に女性ならここで髪を高く結われたりしているのだろうとイスカはつい、いらぬ想像してしまう。
「イスカ、ヒスイのところにいってくれるか?」
「は?」
 主に見ほれていた矢先に突然、思いがけないことをいわれてイスカは一瞬反応が遅れた。普通は男性であるイスカに未婚の女性の世話など頼まない。ヒスイのところにも今頃侍女が派遣されているはずである。
「あの娘は思った以上に人見知りが激しいようだから、お前、行ってくれないか。今頃侍女が全員追い出されているだろうよ」
 もっともである。ホウのいうことは間違っていない。イスカは頭を下げて退室することにした。
「あ、ホウ様。午前中は書類整理だけですから、ご朝食後にお手伝いいたします」
 ホウは頷いた。

 そしてイスカは長い廊下を渡ってヒスイの元に赴く。その部屋の近くに寄っただけで、騒動はすぐに理解できた……。
「全員、出て行け!」
 おそらくは昨日、湯殿に詰めていた侍女達が聞いた台詞と同じ物が今日も木霊していた。侍女たちがぞろぞろと部屋から出ていく。その数は通常、姫君の世話をする数から比べるとうんと少なかった。気を使って少なくしたのだろうと分かったがそれすらヒスイは気に入らなかったらしい。そっとイスカは額を押さえた。ホウの危惧していたことは当たっていたわけである。
「……あの、ヒスイ様……」
 部屋の外からそっと声を掛けると即、不機嫌そのもののヒスイの声が返ってくる。
「着替え中だ。入ってきたら命はないぞ」
 言葉の内容に、ピシ、と音を立てて関節の動きが固まる。
「も、申し訳ございませんっ」
 そんな命知らずな真似をする胆力の持ち合わせなどイスカにはない。足をその場に縫いつけて、イスカは部屋の外でヒスイから許しが出るのを待つことにする。ホウ様に殺される、青い髪の妖魔に殺される、ヒスイ様に殺される、と頭の中でぐるぐると不穏な単語が渦巻いた。
「……もういいぞ」
 部屋の中からつぶやかれた一言。イスカの固まった関節は油を差されたかのように、やっと正常な動きを取り戻すことができた。
 失礼します、と入室したヒスイの部屋では色とりどりの女物の衣服が寝台の上に広げられていた。けれど部屋の主はいつもの簡素な旅装に身を包んでいる。
「その服でよろしいのですか?」
「これがいいんだ。好きで着てるんだから文句をいわれる筋合いはない」
 そういったヒスイは前髪が少し濡れていた。洗顔はすませているらしい。イスカは失念していたことを思い出して、心の中でこっそり納得した。今まで侍女や面倒を見てくれる人がいない中で生活していたヒスイはなんでも一人で出来るのだ。それなのに赤の他人である侍女たちにいじられるのは、かゆいところに手が届かない感じがして不愉快なのかもしれない。
 寝るためだけの部屋には小さな控えの間が続いており、ヒスイとイスカは今そこにいた。物を置くために持ってきたのだろう小振りの卓の上には洗面器、櫛、石鹸。手ぬぐいに手鏡。それに見たこともない小瓶や小皿が並んでいる。今までホウの世話しかしたことのないイスカは物珍しさも手伝ってついまじまじと見てしまった。
 ヒスイは顔色を変えることなく、並んだ小瓶を「化粧品ひとそろいだ」と説明してくれた。なるほど、女性ならではの品物である。
「……こんなにいらないから片づけて欲しいんだがな。ただでさえアイシャが作り置きを全部持たせてくれたから」
 ふう、と溜め息をつく表情はちょっとホウに似ていた。試しにひとつ、とヒスイは綺麗な小瓶を手にとって開封し、イスカに渡してくれる。蓋を開けられた瓶からはきつい香りがした。香油らしい。
「アイシャさんはこういうのをお作りになるのが得意だったのですよね」
「ああ。上等の薔薇や茉莉花などは高価すぎて使えないけれど、化粧水とか香草を使った小物類は好きらしくてよく作っていた」
「じゃあ、ここにある石鹸とかお好きかもしれませんね」
「それは私も思う」
 やっとヒスイは小さく微笑んだ。その顔を見ているとやっぱり可愛い方だなと思う。絶世の佳人を見慣れているせいでイスカが「綺麗」という表現を女性に用いることはまずない。
「えっと、朝食はホウ様とご一緒なさいますか? それともこちらに運ばせましょうか。ホウ様は午前も午後もお仕事がありますので今日はお会いになれないかもしれませんが」
 ヒスイは少し首を傾げて考え込むような動作をとった。
 何か不都合があるのだろうかと顔色を窺うが、ヒスイは
「では私は今日、何をしていればいいんだ?」
 と聞いた。
「それは、ええと……では、刀鍛冶職人を呼びましょう。体にあった新しい弓をお作りになってはいかがでしょうか」
 この答えはヒスイを喜ばせた。あまり表情に表す方ではないのだが、わずかに目の色が輝いたように思う。
 イスカは胸をなで下ろす。ここでもしも、「仕立屋を呼びましょう、新しいドレスをお作りになってはいかがでしょうか」などといえば今日一日ヒスイの機嫌が悪いことは明白だった。もしかしたら追い出された侍女たちはヒスイを普通の婦人だと思ってうかつにそんな話題を持ち出したのかも知れない。
「朝ご飯は、ここで食べる。父と一緒だとまた義兄が一緒なのだろう?」
「いいえ。昨夜は晩餐でしたから特別です。ホウ様はいつも自室で簡単に召し上がられます」
「じゃあ一緒に食べよう」
「分かりました。すぐそのように計らいます」
 イスカは深々と頭を下げた。

 主人たちが食事の間、使用人は忙しく働くのが当然である。まして精霊は食事を必要としない。主人より先に執務室に入ってまず掃除。不必要な書類を千々に引き裂いて捨てる。これはあとでレンカに燃やしてもらえばいい。よく洗って乾かした筆を太い物から細い物と揃え、壺に黒々とした新しい墨をつぎ足す。古い資料は木簡・竹簡に記されていることが多いのでそれも書庫から取り出してきて用意する。各地を渡る風の精霊からの言葉を書き記すのは書記の役目だ。今日必要なだけの報告書と、昨年と先月の情報を書記長から探してもらって渡してもらう。それに今日中に絶対許可をもらわねばならない書類もまわされてくる。
「お主はまこと働き者であるな」
 いつのまにやら後ろに立っていたレンカがからかうように笑った。
「……あなた、僕がいない間にちゃんと仕事してくれていました?」
「もちろんじゃとも」
 実に晴れ晴れとした笑みをこぼすレンカを見、次にちらりと書記長を振り向くと彼は深々とした溜め息をこぼした。おして知るべし、である。
「いったでしょう? 精霊の報告は主観に基づいているからちゃんと人間の報告書とも照らし合わせて客観的な判断を下さなければならないと」
「全く正反対を書いてある場合もあるぞ?」
「そういう場合があるならなおさらです! 僕が帰ってきたからにはそんないいかげんなことホウ様にはさせませんからね!」
 むきになるイスカに、レンカはますます満足げな笑みをたたえた。
「頼みにしておるぞ」
 彼女はことにこういう地味な作業が苦手である。面倒くさいとか、退屈だとか、どうしてもそういうふうに思ってしまうらしい。イスカには信じられないことだった。

 やがて朝食を終えたホウが執務室にあらわれる。
「やぁ、やはりお前が帰ってきてくれるとこの部屋がきれいだね」
 にっこりと微笑むホウは嬉しいことがあったせいかいつもより二割増しくらい綺麗だった。こんなに美しい主を頂けることが嬉しくて、自然とイスカの表情も嬉しいものへと変わる。
 さあ、仕事だ。
 椅子に向かうとホウの表情は自然と厳しいものに変わった。
「イスカ」
「はいっ!」
「午後からは手伝ってくれなくても大丈夫だから、お前は神殿に顔を出しなさい」
 イスカはちょっとためらった。
 確かに、精霊とはいえ人間社会に深く関わっているイスカはホウの側にいるだけが仕事ではない。
 人間の世界には七柱の神々が存在している。霧の谷には神々の代わりに四つの竜を祭る神殿がある。どちらの世界にも共通している崇拝の対象が、大地だ。
 外の人間の国では大地の神の神官ということになっていたが、ここ霧の谷に帰ってきた場合、イスカは地竜を祭る神殿に所属する精霊ということになる。
 しかし外では「神官」として振る舞うことが最優先事項だったことに比べると、ここにいる間は「守護精霊」としてホウの側に仕え守ることが最優先で動く基準となるはずだ。神殿が何かいってきたのだろうか、それでホウ様はお困りなのだろうかと、イスカはわずかな間に色々と考えをめぐらせた。
 それに気付いたのだろう、ホウは顔を上げてことさら優しい微笑みをイスカに向ける。
「地竜様にお孫様がお生まれになったそうだ。お祝いをしてさしあげてくれないか」
「そうなんですか?」
 ならば納得がいく。イスカは表情を明るくした。
「わかりました。それでは午後からお暇をいただきます。ありがとうございました」
「礼をいわれることはしていないよ」
「それでも、ありがとうございます」
 笑顔が自然と漏れる。ホウも微笑み、レンカは相変わらず空中に浮かんで物珍しそうにイスカを眺めていた。

   *

 午後。
 ホウに命じられたままにイスカは神殿へと顔を出した。大地の竜を祭る神殿でイスカの顔を知らないものはいない。……そのはずなのだが。
「どなたかの紹介がなくてはお通しできません」
 と、守護につく兵士はいった。この役目を負う者も神殿に従事するはずだ。霧の谷を留守にしていた間に新しく入った新米なのだろうか。どうしようかと思う。
「怪しい者ではありません。ここの神官だったものです」
「確認が取れるまでこちらでお待ちいただくことになります」
 イスカは首を振った。自分が来たことで他の者に迷惑がかかるのは困る。
「今日のところは引き上げます。今度は紹介してくださる方と共に参ります」
 と頭を下げた。
 本日の目的は地竜様にお孫様が生まれたお祝いをするためである。これからゆっくり産養いの品を選ぶのもいいかもしれない。そもそもは「お前が顔を出すだけでも喜ばれるのだから」とホウに強くすすめられたからであって、本当ならしかるべき手順を踏むべきである。
 お言葉に甘えて市にでも寄っていこうと思った矢先に、イスカは声をかけられた。
「ここまで来て引き返すはないじゃろう」
 ぴく、と耳をそばだてる。聞き覚えのある声だった。
 振り返ると白い髭を蓄えた好々爺が微笑んでいる。かの人の姿を認めたとき、イスカは目を丸くした。
「地竜様!」
 もちろん、よく知った顔だった。だが、そう簡単にここにいるはずのない人である。
 イスカの通る声が聞こえたのだろう。先ほどの新米兵士が飛び上がらんばかりに驚いた姿が視界の端にかすめた。
 イスカは慌ててその場に跪く。
「こちらへお渡りでしたか。申し訳ありません、気付きませんで」
「いや、いや。お前をここへやったと精霊の長から聞いてな。久しぶりじゃの」
 つまり待っていてくれたのだ、イスカを。ありがたくて、それ以上に申し訳なくて、イスカは深々と頭(こうべ)を垂れた。
「律儀じゃのぉ」
 目尻をとろけるまでにさげて地竜の翁はイスカの頭に触れた。幼子をあやすように撫でる。
「このたびはお孫様がお生まれになったとのこと。おめでとうございます!」
「うむ」
 好々爺の表情は崩れることがない。つられるようにイスカも笑った。
「……よき表情で笑うな、イスカよ。そなたを長にお預けしたのは間違っておらなんだとみえる」
「地竜様……」
「よい、よい。昔のようにおじいさまと呼んでおくれ」
 竜といえば精霊にとって、人間にとっての神に等しい。その竜に親しげな声をかけてもらえる相手というのは精霊の長くらいなものである。精霊の信仰の対象、全ての幻獣の頂点に立つもの。それが竜。彼らは通常、精霊の前にはほとんど姿を現さず、竜の中でも選ばれた代表者のみが霧の谷にまれに顔を出すだけなのだ。それは目の前にいる地竜の翁も同じこと。
「はい、……おじいさま……」
 例え数ある精霊の中でも竜にこのような口を利ける精霊はイスカだけだろう。遠慮がちにそう呼ぶ少年の頭を、地竜の翁は実の孫でも可愛がるかのように撫でた。その手は人間に擬態していたけれどイスカには覚えがある。

 何を隠そう、この翁こそが幼いイスカをホウに預けた地竜の長本人なのだから。

 精霊は通常、赤子の姿でこの世に現れることはない。
 けれどイスカは赤子の姿で生まれた。

 それは、深い渓谷の底でのこと。
 谷のはるか上、岩肌に沿うように道があった。踏み外せば命がないような細い道だった。あるとき、何があったのか馬車と人間がそこから堕ちた。
 谷底にたたきつけられ、馬車は壊れた。人間は死んだ。
 男と女だった。
 男は即死、けれど、女は谷底にたたきつけられた時まだ生きていた。ほんのわずかな時間だったけれど、生きていたのだ。女は孕んでいた。
 女は痛みや死への恐怖などと同時に、願う。腹の子の生を。自分の命はなくなっても、この子だけは、と。そんなことが叶うはずがないのに。
 男と、女と、女の腹で生きていた命はそこで消えた。大地は血を吸い、死肉は微生物によって分解され、骨は風によって白くさらされた。壊れた馬車も年月ふるごとに朽ちてなくなった。
 男と女が死んだ名残がまったくなくなったころ。何も知らない、年老いた地竜がまったくの偶然からその地に降り立った。
 その地竜の足の下で、大地の精霊は生まれた。
 精霊にしてはあるはずのない、赤子の姿。それは死んだ女が願った姿を無意識にとったのかもしれない。本当のことは分からない。だけどイスカは、自分が生まれる前の土くれの上には人間の血が染みこんでいたことを知っていた。血と共に願いが染み込んでいたことも。

「おじいさまに拾っていただかなければ、僕は今頃どうなっていたでしょうね」
 イスカは微笑む。翁も微笑んだ。
「そなたのことであるから、誰かが通りかかったときに両の手をのばして、つれていってくれと笑んだかもしれぬな」
「僕があなた様にしたようにですか?」
「覚えておるか?」
「……実はあまり……あとで聞いただけなのです。でも、竜のみなさまにとてもよくしていただいたのはしっかり覚えておりますよ」
 竜はずいぶんと長く生きる。その分、出生率は低い。種族としての寿命が静かにやってきているのだと以前、耳に挟んだことがある。子供が生まれないと残されるのは年寄りだけだ。それは竜の種族の中でも特に長く生きる水竜や地竜の間でもっとも顕著にあらわれていた。
 そういう状態だったこともあって、長が連れ帰った精霊の赤子は皆に愛された。
 赤子というものが珍しいことも手伝ってだが、特に雌の竜がその子を可愛がった。母性本能が刺激されたのかもしれない。一時期はあまりに雌たちが可愛がりすぎて雄の竜は近づきもさせてもらえなかったという。
 精霊は元々、竜を信仰の対象とする。そして竜は自分たちに従う精霊をもともと親しく思っていた。
 しかし、イスカだけを特別に可愛がると他の大地の精霊に示しがつかない。
 竜は、その赤子を自分たちの眷属にしようといった。どこからともなくそんな声があがった。なにしろイスカは、谷底で生まれてすぐに地竜の長に拾われた。地竜しか知らないのだ。大地以外の他の精霊を知らないし、人間も知らない。本来、精霊は人間を見守るべきものなのに。だったらこのまま竜の眷属にしてしまえばいい。イスカもそのときはそれが一番いいことだと思った。大地の精霊は保守的だ。外に出るより、よく知ったここでずっと皆といられるといいと簡単に思っていた。
 一人、表立って反対は唱えていなかったが、悩んでいたのが地竜の長。彼は一族を守ると同時に多種族との共存という責任も背負っている。精霊には精霊の生きるべき道があると知っていた。はたして何も知らないまま子供を竜の一族に加えてよいものだろうか、と。
 そして。
 完全に一族に入る前、イスカは地竜の長につれられ初めて霧の谷にきた。そこでとても綺麗な人間を見た。女の子かと思ったその人間は男の子で、イスカはその少年に――のちのホウに――育てられることになった。
 今日から私がお前の親代わりだから。そういって黒髪の少年が微笑むとあたりに花が咲いたようだった。

「懐かしいですね。あれから、もう……にじゅう、ろく? 二十六年ですよ」
「人間と共におると時間の流れが早かろうて。まだ二十六年ではないか。そなたの成りは随分と大きゅうなったがの」
 目元を細めてイスカを見つめてくる目は、本当に昔から変わらない。
 孫が生まれたという。地竜の一族にとっては待望の赤ん坊だ。竜ではないイスカがあれほどにまで可愛がられたのだ。今度の子供はどれほどの祝福を受けていることやら。今後、何事もなくすくすくと成長してくれることを願うばかりである。
 そんなことを思いながら、イスカは、つと視線を翁から外した。
「僕にとっては『もう』二十六年です。色々ありましたからね。ホウ様が成人なさって、即位されて、ご結婚なさって、……不幸な出来事があって……、それからお子様まで設けなさったのですから。そのお子様ももう成人されているのですよ。早いと思われませんか?」
 人の子の世代交代は早い。側にいるとイスカまで引きずられそうになる。そのおかげで、まるで人間と変わらない早さで成長することにもなったのだが。
 ホウのことを語るのは楽しいが相手が地竜の長だと勝手が違ってくる。最初にイスカを拾ってくれたのはこの方なのだ。なのに、なんだか新しい養い親の方がいいと明言しているようで後ろめたくなる。
 しかし翁の好々爺の笑みは崩れることがない。イスカの心の中も見抜いているだろうに。ただ穏やかに微笑むのだ。
「そなたはあるべき場所に戻っただけだ」
 と、翁は笑った。
 イスカも微笑み返そうとした。だが、笑顔は奇妙にゆがんでしまう。
「……すいません。竜の眷属に迎えていただきながら……僕は、竜を選ぶことはできませんでした」
 このままずっと精霊でいたい。それがイスカの希望。
 いつかホウがみまかるまで側に仕え、そしてホウの願うようにヒスイを守る。そう誓ったのだから。そうやってずっとずっと……永遠に。
 地竜の長は、それでいい、といってまた目尻を下げた。本当の孫を見つめるように優しい目で。イスカはやっと心からの笑顔を返すことができた。
 幸せだから。だから、心配しないで。

   *

 日が暮れて。鳥が眠るように、人々も西の空が茜色を失う頃にはもう眠る時間だった。下々の家屋とは違ってこの宮ではあちこちに明かりを灯し、もう少し長い時間を使って政務にはげむけれど。
 それも、月が天頂にあがるまでの話。
 梟の鳴き声だけが木霊する時間になると、生活のため明かりは次々に落とされる。闇と静寂が支配する夜の時間だ。

 ホウとヒスイが寝入ったのを確認して、やっとイスカの一日の仕事は終わった。
「……疲れた……」
 小さくため息をつく。精霊は睡眠を必要としない、食事も必要としない。それでもしっかり疲労はするのだ。
 こういうときは水の中に入るのが一番とばかりに、イスカは手ぬぐいを持って森の奥の小さな泉に向かった。
 イスカの立場ではホウやヒスイのように熱い風呂で入浴などできない。しかし幸いなことに霧の谷は水が豊富だ。人間の住む場所といえば霧の谷しか知らなかったイスカであるが、外に出るようになって初めて水がとびきり貴重であることを知った。
 木陰の中には水浴ができそうな窪地や川がある。普段は一人で独占というわけにはいかないけれども、この時間なら誰もいないはずだ。

 木陰で靴を脱ぎ、法衣を脱ぎ、その下も脱ぐ。水際の手に届く場所に衣類を置いて、それからやっと水の中に滑り込んだ。額に締めた金色の環だけはそのままだ。
 大地は水と相性がいい。精霊も妖魔と同じく精神体なのであるが、かりそめの体であっても水に触れる感触は楽しかった。冷たささえも心地よく感じる。イスカはしゃがみこんで頭まですっぽり水の中に沈めた。自分が水を厭わないのはやっぱり竜の眷属だからだろうか。全ての竜は本来、水を司るものだったと伝えられている。そんな話、今では信じられないけれど。水を司るのは水竜、そして地竜は大地を司るものだ。関連性があるとは思えない。だが、本当なら水を厭っていいはずの火竜がまるで「泳ぐように」溶岩の中で体をくねらせている様を見ていると全ての竜は水を司ったという話はとてもありえそうな話に思えた。
 イスカは精霊であって竜ではない。だが、イスカの体には竜の眷属である証があった。
 普段は完全に衣服に隠され、まず人目につく場所ではないので誰も知らない。知っているのは地竜の一族とホウだけだ。ヒスイも知らない。……いや、もしかするとあの星見の少女には『見られて』いるかもしれないが。
(そういえば、彼女にはどこまで見えているんでしょうねぇ?)
 不思議に思いながらイスカは水をかいて、水面に顔を出した。
 濡れた髪の毛を顔からぬぐい、立ち上がる。水位はそれほど深くない。足もつくし、水の中に隠れてしまっているのは腰から下だけだ。そしてイスカは体をひねって背中……尻を見た。
 水ごしに見える、それ。尾てい骨の真上には透き通った琥珀色の鱗がある。
 イスカはそっとその上に触れた。鱗は親指の爪くらいの大きさがある。冷たいはずの鱗だが、心なしか温かい感じがした。この鱗は間違いなくイスカの一部。もちろん普通の精霊にこんなものはないし、生まれつきでもない。
 これこそが竜の眷属の証。
 ひとたびこの鱗に宿る力を引き出せばその瞬間にイスカは精霊ではなくなる。精神体である体はなくなり、新しく作られる竜の肉体にこの精神は宿るだろう。傷つけられれば血も流れるし、空腹も覚える生身の肉体に。それがどれほど不自由なのかは今のイスカには分からない。ただ分かっているのは、この鱗はそのときに尻尾の代わりとなるということだ。羽のない竜はいるけれど、尻尾のない竜はいない。そして人間の姿にはその尻尾がない。
 この鱗には竜に変じるときのための力が一切合切、詰まっている。
「……そんなこと、もう一生ありませんけどね」
 小さく微笑んだ。イスカは一生、精霊であることを望んでいるのだ。水を浴びるときくらいしか思い出さないけれど、だからこそ水浴の時はいつもこの鱗を確認してしまう。
 自分が竜の眷属であること。望まれて竜の一族に迎え入れられたこと。そしてその手を振り払ってしまったこと。

 このまま一生、ただの大地の精霊として終える。
 それが「交喙」の名前を受けた精霊の運命。名前に込められた意味は矛盾。下のくちばしは上を向き、上のくちばしは下を向く鳥の名前。大地に縛られた存在でありながら空を飛ぶ鳥の名前を受けた、それだけでなく、精霊でありながら同時に竜の一族でもある自分になんとも似つかわしい名前だった。

 水から上がり、軽く体を拭くと素早く衣類を身につけた。
 空を見上げると冴え冴えと月が輝いている。あいにく月が明るすぎて星天井とはいかないけれど、イスカはその場でころりと横になる。
 大地に接した場所はイスカにとって一番心地いい場所だ。今夜はここで、このまま眠ってしまおう。イスカは目を閉じた。
 さやさやと葉ずれの音。草の裏で虫の音が鳴いた。どこまでも気持ちのいい夜だった。

   ***

 翌朝。
「ヒスイ様! どちらですか!」
 できるだけ声を抑えながら、朝一番にヒスイを起こしに来たイスカは青くなって周囲を見渡した。寝台の中はからっぽだ。
「ヒスイ様!」
 何度目かの呼び声に、ようやくいらえはあった。
「おはよう」
 そのとき、壁の一部がぱっくりと口を開けて、中からすでに着替えを終えたヒスイが顔をのぞかせた。そこは本来、姫君を守るための近衛兵を控えさせておく隠し部屋だ。こういう場所は貴人の部屋にはいくつもある。
「何をやってるんですか!」
「ん。まるで忍者屋敷だと思って、色々ためしていた」
「で……こちらに本来控えるべきの兵士は……」
「追い出した」
「……」
 でしょうね、と。イスカの言葉は最後までいうことは出来なかった。

 そうしてイスカの日常はまた始まる。ヒスイが霧の谷を立ち去るまでの、平穏(?)な二年間の始まりでもあった。
<終>


<あとがき>
 イスカ番外編。ミツルギさんにさしあげました。
 彼の過去について本編と多少の食い違いがあります(第四章参照)。本編ではさっさと先を進めなければならなかったという都合上、はしょって説明した部分がありますが、こっちの方が正解。
 それから、この話はちょうど第三章「父と娘4」の翌日、番外編「恋火」と同じ日の話になります。イスカが、レンカが、そしてホウやヒスイがもっとも幸せだった平穏な日々。

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