If 〜もしも翡翠が霧の谷で育ったら〜

 それは「世界」が見る夢のひとつ。

 昔々あるところに、霧の谷という国があった。
 それは人間と精霊の国。
 時の王は人と精霊に深く愛されていた。霧の谷という人間の国の王であり、同時に精霊達の長でもあった。
 彼の御代は長く平和が続くと思われていたが懸念されることがまるでないわけでもない。王は早くに王妃を亡くし、跡継ぎとなる正統な王子がいなかった。そして王は再婚しないことを公言していたのである。
 王には養子に迎えた王子が三人、そして庶子の姫が一人。
 霧の谷ではたとえ王の子であろうと庶子にはなんの権利もないことになっている。おまけに男子ではなく女子だ。だが現在王の血を引くただ一人の存在であることも間違いない。
 跡継ぎの問題は国の重鎮たちにとっても、国民にとっても、頭の痛い問題であった。

 だが当事者たちはのんきなもの。
 物語は、庶子の姫が七つの誕生日を迎える数日前から始まる。

   ***

 森の出口で、三人の兄たちが待っていた。
 一番年長なのがトール。十になる。茶色の髪、茶色の瞳、無口な少年だった。育ち盛りの男の子らしく、きょうだいの中で一番体が大きい。
 次に年上なのがヨタカ。同じく今年十になるが、まだ誕生日を迎えていない。黒髪、碧い瞳。くるくると動く明るい色の瞳が賢そうな光をきらめかせていた。
 一番年が若い男の子がシキ。最近八つになった。まっすぐな黒髪に蒼い瞳。ヨタカの瞳が南の海の色だとしたらシキの瞳は冬の夜空の色の瞳をしている。野外よりも本の似合うおとなしそうな雰囲気の子供だった。
 三人は、最愛の妹が森から飛び出してくるのを今か今かと待っていた。

 ほどなくして。
「あにうえ!」
 子鹿が駆けてきたかと思われるほど勢いよく、男装の少女が飛び出してきた。右手には小さな手作りの弓、左手にはしとめた野ウサギ。
「ほら、義兄上たち! 一人で獲物をしとめた!」
 自慢げに高々と野ウサギを掲げた。
「よくやった!」
 三人の兄たちはまだ六つの妹に駆けよる。……決して、狩人の子供を育てているのではない。彼女はれっきとした「おひめさま」なのである……はずなのだが……。

「約束だ。今度の狩りに連れていってくれるって」
 きらきらと翠の瞳を輝かせる「おひめさま」の名をヒスイという。まっすぐな黒髪は肩より短く切りそろえていて、まるで少年のようだった。着ている服も男の子が着るような動きやすい上下だった。さすがに身分があるので本当の狩人の子供のように粗末な生地ではない。日に焼けた肌、指は小さな傷だらけ。どこかで転んだのか頭には葉っぱがついている。その葉っぱをとってやりながら、二番目の兄ヨタカがくすくす笑った。
「よくやったけれど、お前にはまだ無理だ。シキと二人、森で遊ぶ程度にしておけ」
 その台詞に、一番目の兄トールもこくりと頷く。
 ヒスイは頬を膨らませた。上の二人の兄はもう大きくて、武器の練習である狩りも、模擬刀を使った練習も本格的に始めている。もちろん大嫌いな勉強も本格的に始まっているのだがヒスイは知らない。ただ二人の兄たちに置いていかれることだけは分かっていて、そのことが悔しくてたまらない。
 三番目の兄シキはまた別の意見のようだ。
「そうだよ、まだ僕らにはあぶないよ。兄上方、あんまりヒスイと無茶な約束しないでください、怪我でもしたらどうするんですか! 女の子なのに!」
 ヒスイはどうしてそこで「女の子なのに」といわれなければならないのか分からなくて首を傾げた。
 トールはどう説明していいのか渋面を作っている。ヨタカは爆笑したいのを必死でこらえていた。
 こと野外活動においてはシキよりヒスイのほうがずっとずっと適性がある。シキが妹にかこつけて自分もちゃっかり狩りや剣の練習から逃れようとしていることが、二人の兄たちには丸わかりだったのである。

 三人はそれぞれ別の家から王にもらわれてきた。
 今の王家は炎を司る家柄で、ほかにも三家、大地を司る家、風を司る家、水を司る家があり、それぞれ同じくらい格式が高い。炎の家が絶えるなら必然的にほかの三つの家から誰かが選ばれることになる。
 トールは大地の家の出身である。実兄がひとりいた。その人が大地の家の跡継ぎになると決まっていたので、ごく自然に末っ子のトールが養子に入った。
 ヨタカは風の家の出身である。実父には妻が多く、風の家には男の子が多かった。実家ではいてもいなくてもいい存在。いつでも十把一絡げに扱われていて、いつか家を出たいと思っていた。そんな心中を察してくれたのかどうか、王は、数多い男の子の中からヨタカを選んでくれた。
 シキは水の家の出身である。水の家に生まれたただ一人の男子であった。水の家の跡継ぎとして容赦なくしつけられ、それがあまりに暴力的であったためシキの小さな体にはいつも無数の傷跡があった。そこから養子に迎えるという名目で救い出してくれたのが今の王だった。跡継ぎを不当に横取りされたと実家は怒っていたけれど、シキは今の家が気に入っている。ここでは誰も殴らないし、鞭で打つ者もいない。

 そして四人きょうだいのうち紅一点がヒスイ。
 母は誰か分からない。
 あるとき、どこからか赤ん坊の彼女を王が連れてきた。「娘だ」と。
 側近の誰もヒスイの母を知らない。髪と瞳の色以外は母親似だと王が喜ぶのでヒスイとよく似ているのだろうと思われるが誰もその顔に覚えがなかった。逆に言うと父王とは髪と瞳の色くらいしか似ていないので、側近の中では本当に王の子供か疑わしいとはっきりいう者もいる。
 やれ音楽や詩や刺繍やらを学ぶより、この娘は森を駆け回ったり、馬を走らせたりすることが大好きだった。しつけがなってないと宮廷につとめる教育係は全員青くなっているが肝心の王と娘はどこ吹く風である。
 そして三人の兄たちは皆、この風変わりな妹を可愛がっていた。

 四人がほほえましく笑っているそこへ、火の鳥が現れた。青い空を背景に、広げられた羽根は燃えているように赤い。
 ヒスイが嬉しそうに声をあげる。
「レンカ!」
 父の右腕とも称される幻獣であった。ヒスイは火の家の出身なのでこの火の鳥とはとても仲がいい。仲が悪いのは水の家出身のシキである。シキは頭上をあおぎみて口をとがらせた。精霊や幻獣と付き合うにはこういう風に、生まれついた家の持つ属性が重要な場合が多い。
「おお姫君。初めての狩りは成功したかえ」
 たちまちのうちに火の鳥は大人の女性の姿へと変貌した。炎が渦巻いているようなオレンジ色の巻き毛が印象的だ。レンカはヒスイの手にある兎をみると赤い瞳を輝かせる。
「おお、おお、ようやった! さすがは姫君じゃ!」
 たわわな胸にヒスイの頭をいだき、頬ずりをよせる。レンカの愛情表現は豊かだが少々押しつけがましいきらいがある。シキは露骨に鼻筋にしわをよせ、ヨタカは笑う。トールは呼吸ができなくなっているヒスイをおもんぱかってひとつ咳払いをしてみせた。
 その後、ぷはっと息をはく小さなヒスイの姿があった。
「レンカが来ているということは、父上もいるの?」
「むろんじゃ。ただイスカは留守番じゃぞ」
 イスカというのは同じく父の側近である大地の精霊で、外見は成人直前くらいの少年の姿をしている。一年のうち半分は父の仕事を手伝っており、半分はヒスイのよき子守役であった。そして父王がレンカを伴ってヒスイの住まう離宮を訪れるとき、たいていイスカは留守居役なのである。イスカを伴ってくるときはレンカの姿がない。
「……レンカとイスカ、両方こられればいいのに」
 ヒスイの小さなつぶやきを、レンカは大きな動作で笑いとばしてみせた。
「可哀想なことをいうてやるでない。妾と一緒におるといじめられると青くなっておるのじゃ。あれも姫君の前でいじめられるのは面白くなかろうて」
 三人の兄たちも、うんうん、と頷く。
 それもそうかとヒスイもほんの少し口角を持ち上げた。


 森を見渡せる場所に白い離宮がある。ヒスイはずっとそこで暮らしていた。五人が戻ると、出迎えてくれたのはヒスイの侍女だった。
「おかえりなさい、ヒスイ」
 彼女の名をシシィという。本来の役職は侍女だが、ヒスイの身の回りの世話をする下働きの女であり、教育係でもあり、母親代わりでもある風の精霊だった。白い髪を宮女風にふわりと結って、藍で染めた木綿のドレスをまとっている。材質は格が落ちるが意匠は上品なもので、十分侍女らしいといえた。
「お父様がお待ちかねですよ」
 といってヒスイを抱きしめた。ヒスイはシシィにただいまの挨拶をしたあとその腕をすりぬけ、奥へと駆け込む。
「父上!」
 手を伸ばしたその先に、誰よりも美しいひとが座っていた。
「おかえり」
 その人がそこにいるだけで空気が丸くなる。涼やかな花の香りと、木々の清々しい香りがどこからか香り立つような。
 まっすぐな長い髪を垂らし、その色はどこまでも深い漆黒。ヒスイのそれよりも艶やかだ。ヒスイの瞳は一枚の葉っぱのような翠であるが、王のそれは鬱蒼と茂った森の深緑をしていた。そのひとを初めて見る者は皆、その美しさに一様に息を呑む。かのひとの美しさは単に造作の問題だけでもない。本人の善良さと公平さからくる清々しい雰囲気を放っており、微笑むとさらに優しさを含んで、見ているこちらは幸せな気持ちがこみあげてくる。
 霧の谷の王にして、精霊達が自慢してやまない最愛の長。それがヒスイの父親というひとあった。
 黒髪と緑の瞳以外は本当に似てない親子である。
 王は頬を桜色に染めて最愛の娘を両の手で抱きしめた。そしてすぐに右手をあけて、三人の義理の息子達に差しのべられる。
「おかえり、トール、ヨタカ、シキ。今日もなにか楽しいことがあったかい?」
「義父上!」
 次に王に抱きついたのはシキ。一番は妹に譲ったけれど、義兄たち相手に二番手まで譲る気はない。四人の子供たちのうち、王に一番よく似ているのがこのシキである。王の実母は水の家に連なる者だったので親戚同士にあたるのだ。顔立ちがよく似ているということは、それ以外の部分の粗を見つけやすいということにも繋がる。どうしても周囲の者は、シキに過剰な期待をかけがちだった。現王は、幼少期からそれはもう、評判の高い者だったから。
 だが期待をかけられているのはシキだけではない。養子である三人はそれぞれ実家やその他から色々な期待がかけられていた。王は次の跡継ぎをまだ正式に発表していない。三人、それぞれに好機がある。王位争奪戦に熱心なのは往々にして、当人よりその恩恵にあずかる周囲だったりするものだ。当人にとってはいい迷惑である。
「トール、ヨタカ、今日は何をして遊んだ?」
 年少の二人に両腕を捕まえられた王は微笑みながら上の二人に声をかける。義父に声をかけられて、トールは少し照れた。
「ヒスイが自分の弓で狩りをしました」
「教えました。オレたちで」
 ヨタカが自分を指さして笑う。言葉にするのが苦手なトールと違い、おしゃべりとなるとヨタカの独壇場だ。
「オレが子供の頃に使っていた弓を持ってきました。矢は自分たちで作りました。意外にトールが上手に作ります。シキは獲物を見つける目はいいのですが、実技はからっきしです。今日は初めてヒスイが、自分一人で、兎を狩りました。この子はこういうことが好きなようです。いずれちゃんと本人専用の弓を作ってあげてください」
 シキは、ヨタカのよく動く口をにらみつけながら、自分のことはいわなくていいのにと口の中でつぶやいた。王は目を細めてその報告を聞く。そして娘を褒めた。息子達を褒めることももちろん忘れない。
「トール、お前は武器をいじるのが性に合っているようだね。手先の器用さは大事にしなさい。いつも小さい子の面倒をよく見てくれて助かるよ。ヨタカ、お前がいつも詳しく教えてくれるので助かっている。ありがとう。お前の気配りのよさにもちゃんと気づいているよ。シキ、目がいいのは財産だよ。お前のその長所は魔法を使うときにもきっと役に立つよ」
「本当ですか?」
「ああ、本当だとも。いつも妹を可愛がってくれてありがとう。お前達は私の数少ない『信頼の置ける者』達だ」
 三人の息子たちはこの偉大な義父から信頼を寄せられることをなによりも誇りにしていた。

 王は、娘の側に他人を近づけなかった。
 この娘には義理の息子たちと違い、大きな後ろ盾がない。むしろ邪魔な存在で、なんども危ない目にあってきた。宮廷で王はできるだけこの娘にそっけなく対応していた。それがヒスイの身を守ることになるからだ。宮廷で育てず、こんな何もない田舎の離宮で精霊に育てさせているのもそのせいだ。
 ヒスイの周囲に近づくことができる人間は限られている。そんな事情もあって、三人の養子たちにとってヒスイの住まうこの離宮は唯一、息抜きのできる場所だった。近くにある小さな森は子供にとって絶好の遊び場だったし、湖もあって夏場は泳ぐこともできる。馬を存分に走らせるだけの平地もある。なによりうるさい大人の目がない、口がない。はめをはずせば精霊たちから叱られることもあるが、それでも欲にまみれた人間の口よりもずっと心地いい。
 だから三人はこの場所が好きだった。トールとシキには実妹がいないし、ヨタカにしてもドレスやままごとの話しかしない実妹たちより男の子のようなヒスイのほうが話もあう。ヒスイは三人にとって「敬愛する義父の娘」であり「自分たちの可愛い妹」でもあった。

 この日は一日、ヒスイの初めての狩りの成功を祝う話でもちきりだった。
 ただ一人ヒスイの狩りの成功を喜ばなかったものがいる。侍女のシシィだった。三人の義兄と王とレンカが帰ったあと、小さなヒスイを膝の上にのせてため息をついた。
「悪いことではないのよ、ヒスイ」
 でもねぇ、とシシィの嘆きは続く。
「あなたにはもっと生き物を大切にする心を大事にしてほしいわ。長は何を考えていらっしゃるのかしら。あなたは女の子なのに」
「それ、シキ兄上にもいわれたよ」
「当然だわ。あなたは社交界の華にだってなれるのよ! 私がお育てした姫君なんですからね!」
 精霊というものは人間の俗世界のことにあまり感心がない、というのが一般論だ。
 なかにはこういう性格の精霊もいる。特に風の精霊はうわさ話やおしゃべりが大好き。華やかな場所には賛辞も多い。シシィはそういうものを好む傾向があるようだ。そしてヒスイは風の属性が強いが、シシィとは逆に野原をかけまわったり自由気ままに旅をしたりするほうに興味があった。
「父上は、ヒスイに一人で生きていけるようになれ、っていうよ」
「それも悪くないけれど! でもやっぱり女に生まれたからには気の利いたおしゃべりに、愛する殿方との愛の詩の交わしあい、それに風のように軽やかな円舞とか!」
「……」
 それのどこが面白いのかわからないけれど、ヒスイはシシィが好きだった。だから「そうだね」とだけ答えておいた。父王はヒスイがのびのびと暮らすことを望んでいるし、ヒスイ自身もそういう暮らしのほうが好きだけれど。自分が愛している人には喜んでもらいたいけれど、喜ばせる方法が自分の好きなことだとは限らない。
 シシィはヒスイをそっと抱きしめる。
「可愛いヒスイ。私の育てた姫君。どうしておとなしく『おひめさま』をやっていてくれないの。そうすれば……」
 ため息がもれた。
 なぜか泣いているように思えた。

   *

 王の名前を、ホウという。
 夜遅いというのに、ホウはまだ自室に戻らず執務室にこもったままだった。何百枚目かの書類に署名をし、筆記具を傍らに置いて、目頭を押さえる。
 少年の声が聞こえたのはそのときだった。
「お疲れでしょう。お茶をどうぞ」
 大地の精霊イスカが両手に盆をかかえたまま入室してきた。
 その足下に、さっと別の足が伸ばされる。イスカはそれにひっかかったが、素早くもう片方の足を前に出して転ぶことは避けられた。
「レーンーカー」
「どうかしたかの」
 転ばせようと足を出したのは火の鳥だった。出入り口の近くにいながら姿を見られないよう、壁際に貼り付いていたのだ。
「どうかしたかじゃありません。お茶を持っているときに変ないたずらはやめてください」
「お茶を持っておるから足を出したのじゃ。間違ってはいかん」
「……レンカ……」
「それにしても成長したのぉ。昔はよくこの方法で転ばせたものじゃが。あれは何年くらい前であったかの?」
 とホウに話を振った。ホウは唇に苦笑を浮かべながら、頬杖をついて昔を思い出す。
「まだイスカが小さかったころの話だね。十年ほど、かな」
「ほんの十年ほど前であったか。……大きゅうなったのぉぉ。んん?」
 火の鳥はとても長く生きているので十年など、人間でいうとほんの数ヶ月前の出来事をいわれているようなものである。精霊にしても同じだがこのイスカ、珍しく成長する精霊だったため十年前というと七つほどの子供の姿をしていた。精神の成長も人間並みであるため、いつまでたっても子供の頃の失敗談をいわれているようでイスカは面白くない。
「どうせレンカには勝てないと決まっているんです。僕は勝てない喧嘩はいたしません」
「喧嘩をふっかけた覚えはないのじゃが……」
「冗談じゃありません! レンカが誰かに喧嘩をふっかけたりなんかしたら、この国半分なくなりますよ!」
 あながち冗談ともとれない必死の叫び声に、ホウはようやく表情をほころばせた。この二人の漫才は執務ばかりのホウの毎日にこうやって少し潤いをくれる。
「レンカ、それくらいにしておいてやりなさい」
 放っておくとますまずイスカが劣勢になるので、その手前くらいでホウが止めに入る。これもいつものこと。イスカはほっとして茶を給した。
「今日はヒスイ様のところへ行かれたのでしょう? どうでした?」
「イスカがいないと駄々をこねられたよ」
 ホウが思い出し笑いを添えてそんな話をすると、イスカもまんざらでもないような表情で照れて笑った。
「ヒスイが初めて、一人で兎を狩った。そして私がシシィに叱られた。あまり野蛮なことは教えるなということらしい」
 その台詞にレンカがつけたす。
「長に面と向かって文句をいえるのはあの娘くらいではないかの」
 声が面白がっている。イスカは眉をひそめた。精霊は長に対して絶対の忠誠心を持つ。それなのに文句をいえるとは……。
「あの……シシィが反抗的になるのはこれが初めてではありませんよね?」
「うん? ああ。だが不思議ではないね。シシィはずっと人間の側にいた精霊だろう。人間くさい部分が出てきてもおかしくはないし、それが私に意見をのべることとして現れても頷ける。いっていることはある意味、正論だしね」
「そうじゃ、そうじゃ。お主も精霊にしては相当人間くさいぞえ」
「そうですが……」
 言いよどんでいるイスカに、レンカが促した。
「何じゃ。なんぞ、気になることでもあるのか?」
「取り越し苦労だといいんです。あの……ヒスイ様には守護精霊がいませんよね」
 精霊は契約によって、あるいは自発的に、人間の守護をする。レンカは精霊ではなく幻獣であるが、契約によってホウの守護をしていた。契約による守護は対等、もしくは自分より弱い精霊という力関係でないと難しい。そしてホウはいずれヒスイにも契約によって守護精霊をつけようとしていた。
「シシィはヒスイ様の守護精霊にはならなかったと聞いています」
「正確には、契約ではシシィを縛りつけられなかったということだ。子守の仕事はよくやってくれている」
「……もうすでに、だれかの守護精霊になっている可能性は考えられませんか?」
 ホウとレンカが目をあわせた。
 人間は複数の精霊を持つことが不可能ではないが――かなりの力量を要されるためほぼ不可能に近いが――、精霊が複数の主人に仕えるのは不可能だ。
 ただの取り越し苦労であるといいのだが、とイスカはもう一度つぶやいた。
「イスカ。次にヒスイのところへ行くときは、お前が供をしなさい」
「そうすると妾が留守居役であるか」
 レンカが自分を指さす。だがホウは真面目な声で答えた。
「まさか。使える人材、遊ばせておくつもりはない」
 留守番などという閑職にはやらないと固い声が言外に告げていた。イスカとレンカの背にぞくりと寒気が襲う。優しく美しく涙もろく、虫も殺せないような風情の主人だが、決してそれだけではないことを二人は知り抜いていた。

   *

 ヒスイの誕生会が近づいていた。
「まぁ、なんて素敵!」
 シシィは感嘆の声をあげた。
 今日は衣装あわせである。
 一応、庶子であるとはいえ姫君なのだからと、ヒスイの誕生会は毎年宮廷で行われていた。それでも義兄たちの誕生会に比べたら質素なものであるが。
 そのときに着るドレスをあわせているのであるが、動きたい盛りの子供にこれはなかなか苦痛な作業であった。随分長い時間じっとしていなくてはならず、ちょっとでも動いたら叱られるし、仮縫いの時には針がちくりと指すときもある。
 腕の上げ下げも満足にできないような肩の凝るドレスを着、髪の毛をぎちぎちに引っ張られて結い上げられ、そのうえにかもじを足しているからそれを固定するためピンもたくさん刺して、まことに窮屈で仕方ない。
 だがヒスイは「これもあの父の娘に生まれたさだめ」と諦めることができるだけの我慢は身につけていた。シシィの教育の賜といえよう。
 そして案の定シシィは大喜びしていた。
「素敵! 毎年明るい黄色のドレスだったけれど、今年はヒスイの翠の瞳にあわせた淡い緑のドレスにして正解だったわ。来年はもっと大人びた意匠でも似合うわね。そうそう、もっと髪をのばせば、かもじをつけなくても自前の髪で結えるわよ」
 お化粧はどんな色にしましょうか、と、シシィは頭の中でなにやら想像図を描いているようだ。
 ヒスイは今年で七歳。毎年そうだという確信はないけれど、今回の商人は去年来た商人とは別のような気がしていた。もしかして今年から変えたのかもしれない。シシィがドレスの色を変えたといっていたから。
 今度の商人はとても媚びた、いやな目をした男だった。
「姫君はきりりとした凛々しいお顔立ちでいらっしゃいますから、膨らませたふんわりした裾よりも、すっきりと直線的な裾のほうがお似合いでいらっしゃいます。そうして、それ、腰回りの細さをもっと強調されましたら大人向きのドレスを着こなす日も早うございます」
 それもそうねというシシィの顔に影が差した。それまでヒスイのドレス姿しか映っていないような目をしていたのに、このいやな目をした男に向かい合ったシシィはなぜか表情が暗い。もちろん本人は、そんなそぶりをみせていないつもりなのだろう。
「……。ね、ヒスイ」
「シシィ?」
「ちょっと、そこらを歩いてみては? ドレスで歩く練習をしなくてはいけないでしょう? それに靴もね」
 と、かかとの高い靴が出された。
 いったいいつ大きさを確かめたのやら、ヒスイの靴はとても小さかった。成長期なのだから大人が気づかない間にすぐに大きくなる。縦横がとてもきつい靴をはき、かかとの高さゆえぐらぐらする足下を気遣い、慣れない目線におどおどとしながら外に出る。
 商人が隣で支えてくれた。支えがないと満足に歩けない。親指と中指は早くも悲鳴を上げた。
「シシィ、駄目だよ。歩けない」
 振り向くと。
 そこに、生まれたときから可愛がってくれていた風の精霊の姿はなかった。
「……シシィ?」
 隣から、ドスの利いた声がヒスイに向けられる。あの商人だった。
「お静かに、姫君」
 ヒスイは息を呑んだ。
 シシィはどこにいったのだろう。この男は何が狙いなのだろう。この男を呼び込んだのはシシィなのか。そうしてこの男は自分を誘拐するつもりなのか暗殺するつもりなのか、あるいは別の使い道があるのか。
 大声をあげたとしてもここには誰もいない。
 商人はゆっくりとヒスイを促し、それこそ歩行練習をさせているように見せかけた。ここに人間はいなくても精霊の目はいたるところに光っている。だがこの場で一番発言力があるだろう精霊シシィは、ここにはいない。
「さぁ姫君。馬車にお乗りください」
 商人がたっぷりの布を使ったドレスや靴や装身具を持ち込んだ馬車が、すぐ近くまでつけられていた。
「その靴では逃げられないでしょう?」
 商人の男のいうとおりだった。
 この靴では走れないし、それでなくても子供の足だ。大の大人に追いかけられればすぐ捕まってしまう。おまけに、普段着ならともかくこの服だとすぐに呼吸がさまたげられる。ドレスの裾はかさばって、思ったよりも重さがあった。こんな重石を身につけていては早く動くことはできない。
 たすけて、たすけて、と。
 ヒスイは心の中で繰り返した。
 いつも身につけるようにといわれていた短剣は試着のときシシィに取り上げられてしまった。身を守る武器もない。
 考えれば考えるほど結論は考えたくないことを指し示している。
 シシィが裏切ったのか。
 馬車の中は、ドレスの渦ができた。商人の手にはいつのまにかナイフが握られていて、それは七つに満たない女の子の喉にあてがわれた。
「揺れるとざくりといきますよ」
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。
 焦ると同時に、ヒスイの頭の中のどこかがどんどん冷静になっていくような錯覚が起こった。
 首にひやりとした感触があたる。
 不思議とヒスイはそれを怖いと思わなくなった。
「……この期におよんで、一応はまだ敬語で通すのか」
 商人はひるんだ。
 泣きもしない、騒ぎもしない、かといって怯えもしていない少女に何か得体の知れないものを感じたのかもしれない。
 ヒスイは翠の瞳をすがめて商人をみた。
「内心は苦痛で仕方ないのだろう? 貴様にとって、たかが庶子に礼儀を通すのは我慢ならんとみえる」
「こいつ!」
 商人はそれまでの媚びへつらう態度をなげうって、荒々しい顔でヒスイの顔を殴った。
 ヒスイはその隙に、男の死角からドレスの下に手をつっこんで忌々しい靴を脱ぎ捨てた。両手を拘束される前にやっておかなければならなかったことだ。
 馬車はゆっくりと進む。貴婦人のところへと向かうような馬車は、全力疾走をしてはいけない。御者に一人、商人風の男が一人。ヒスイに分かっている範囲で犯人は二人。
「どこの誰ともわからん女の腹から生まれた犬ころのくせに、生意気な!」
 頭に血が上ったか、両手はまだ自由だ。
 馬車の早さが加速する前に、ヒスイは馬車の扉の掛け金をはずした。そのまま重力にしたがって、外へ転がり落ちる。

 どさ。

 当たり所が悪ければ首の骨の一本くらい折ったかもしれない。
 馬車はすぐにとまった。かなり無茶な止まり方をして、馬は驚き跳ね上がった。馬車も前半分が軽く浮く。
 ヒスイが落ちた痛みをこらえる暇もなく。
 商人風の男も降りてきた。
 ヒスイは走る。離宮の方角ではなく森の中へ。どうしてそちらに走ったのか自分でもわからない。もうシシィのいた離宮は安全な場所ではないと判断したからかもしれない。
 男も走る。ナイフを片手に。大人と子供の足の速さは歴然だった。
 あともう少しで森だというところで、ヒスイはドレスの裾をつかまれ引きずり倒された。
 さすがにこの頃になると精霊達もなにかおかしいと気づき始めたようだ。
「さぁ、鬼ごっこはおしまいだ。手前が生きていると迷惑だとおっしゃるお方がいるんだよ!」
 それが、ヒスイが男の声を聞いた最後だった。
 ヒスイの頭の中で何かが言葉になった。
 お前、このままこの男に命をくれてやるつもりか、と。

「風よ、この男を引き裂け!!」

 それは命令。今まで言葉にしなくても風はヒスイのいうことをきいてくれた。
 だがこれは命令。言葉にして、はっきりと。
 男は赤い色をしたたらせる肉塊になった。

 ヒスイはそれを見ていた。呆然と。その視界の向こうにいつの間にかシシィがいた。
「……どうして……」
 いつもふわりと結っていた白い髪を背中に流し、いつもこざっぱりした藍色のドレスを着ていたのに今は柔らかな白い服だった。
「……どうして? ほかの風の精霊は、私が押さえていたのに……」
 それは裏切りを自白した台詞に他ならない。
 聞きたくなかった言葉だった。

   ***

 他の精霊がホウのところへ駆けつけ知らせたときにはもうほとんど終わっていた。
 それまでにレンカが調べたところによると、シシィはヒスイが生まれる前から風の家に連なるある青年と恋仲だったそうだ。
 ヒスイの世話係をまかされて、愛情を込めて育てていたのはたしかだけれど。
 それよりも精霊は主人への愛がまさる。シシィはずっとその青年を愛していた。
 年が経つにつれ青年はシシィほど熱心に、彼女を愛さなくなった。いつのまにか彼にとってシシィは恋人ではなく利用できる駒になったらしい。
 ヒスイが自立心など養わず、だれかに利用されるがままの姫君に育っていてくれたら今回のようなことはなかったかもしれない。利用価値のある駒として。それはヒスイがヒスイである限り無理な相談だった。

 恋人であり主人でもある青年のために、シシィは可愛がっていたヒスイを彼の策略にゆだねた。

 ヒスイの誕生会は予定通り行われた。ただし、盛大に。
 三人の義兄たちも出席した。
 ヒスイも、ドレス姿で主役となった。
 当事者達ヒスイもホウもレンカもイスカも、三人の養子たちには何もいわなかった。公にもしなかったが後ろ暗い連中には確実に伝わるように、レンカとイスカは骨を折った。

 その席でホウは告げた。
「この場をもって発表させてもらおう。我が娘ヒスイから王位継承権を剥奪する」
 場が、どよめいた。
 一人静かにヒスイはそれを受け止めていた。
 義兄たちは口々に「あんまりだ」と抗議したがホウは聞き入れなかった。人々は、その場はヒスイの誕生会ということもあり一応表面をとりつくろっていたが、あとで宮廷中がひっくりかえるような大騒ぎになった。

   *

 ヒスイだけは権力争いには巻き込みたくなかった、というのが父親としての本音であった。
「ヒスイ、王様になりたかった?」
 夜、父は娘にそう問いかけた。娘は黙って首を振る。
「いらない、そんなもの」
 父と娘は二人顔を見合わせ、共犯者の笑みをうかべあう。
「そうだね。自分から鳥篭の中に入っていく小鳥ではないからね。好きに生きなさい。そのためのお膳立てならいくらでもしてあげる。大空に飛び立って、そのあげくどこでのたれ死のうが、ヒスイの人生だ」
 恐ろしい台詞をさらりといってのける。
「大丈夫。だってあなたの娘なんですから。ねぇ?」
 その台詞はヒスイに向けられたものではなかった。誰も知らない「妻」の名をつぶやいてホウは虚空をみあげる。
 ヒスイも父親にならって空を見上げる。
「うん。だって私は、ホウとサラの娘だから」

 優しい乳母は二度と帰ってこない。
 人を疑うことを知らなかった穏やかな時間は帰ってこない。

   ***

 その十数年後、ヒスイはめでたく結婚することになる。

 政略結婚があったのか、青い目の盗賊に惚れ込まれたのか、はたまた赤い目の海賊に押し倒されたのか「この物語の歴史は」語らない。
<終>


<あとがき>
なんのひねりもないタイトルですいません。ラストをどう落とそうか軽く悩んだ作品。こんなオチでも構わないよねと開き直りました。どうせ「ありえなかった」話なんですから。
もしヒスイがこっちの世界で育っていたら、きっとお義兄ちゃんたちも妹のことすっごく可愛がっていただろうなと思ったのが始まりです。本編では義兄たちは意地悪してますからね(苦笑)
不思議とヒスイさんにとって6歳という年はトラウマかかえこむ年齢らしいです。最初は本編と同じトラウマ抱えていただこうかと思ってましたが、寸前で思考回路に邪魔が入りました。……誰の呪い?(笑)
当初ヒスイの乳母の名前はアイシャでした。作中での位置づけが位置づけなのでやめました。でも聞き慣れない名前だったら「始めからこいつ怪しい」って思うじゃないですかー。ちょっちジレンマでしたよ。

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