紅石英だけは知っている

 イスカが還俗してしばらく経った頃である。
 アイシャに向かって切り出した。
「明日、僕に付き合ってカガン様のところに行ってくれませんでしょうか?」
 聞いたことのない固有名詞だった。多分、神殿関係の誰かだと思うがアイシャは顔を思い出すことができない。
「私、その方を知っているかしら?」
「いいえ、多分ご存じないと思いますよ。アイシャさんは主に、地上部分しか出歩かないでしょう?」
 神殿の法衣を着ていないイスカは、そういって微笑んだ。
 いまだに普通の衣装を着たイスカの姿に馴染めない。なにしろアイシャの知っている彼は、いつ、どこにいても、少しくたびれた朽葉色の法衣を着ていた。それは、いかにも「清貧」といった様子でイスカの人柄にはふさわしく見え、いつのまにかイスカの一部になっていたようである。
 イスカは、窓から見える神殿を指さした。季節はそろそろ秋に差し掛かっている。秋晴れのよい天気だった。
「大地の神は正式名称豊穣と冥府の神というのはご存じですよね。土の上と土の下を司るので『大地の神』という通称で呼ばれるわけですが、その名の通り、地上において農業や園芸にかかわる部分と、地下で神学や鉱石の研究をする部分に分かれています。フォラーナ神殿は、総本山の割には地上部分の規模が小さいと思えるかもしれませんが、地階がとても広いのですよ」
 そこまで説明されるとアイシャにも理解できた。
「わかったわ。カガン様というお方は、地下にお住まいの方なのね?」
「ええ。あの方は鉱石、特に水晶の研究が主なのです。仲間内では、間違って神官になった方として有名ですよ」
「間違って? それはどうして?」
 アイシャが微笑み混じりに尋ねると、苦笑混じりにイスカが答える。
「神殿に仕える者の『学問』とは、人々の役に立つことを調べて伝えることが主眼です。ところがカガン様という方は本当に自分の興味のためだけで水晶を集めたり調べたりしている方なので、そういう方なら神殿ではなく物見の塔へ行ったほうがよかったのではないかと噂しているわけです」
 そこでアイシャは初めて、神殿と物見の塔の違いがなんとなく分かった気がした。
 アイシャは神殿育ちだから神殿でする学問がどういうものなのか想像がつく。物見の塔も「学問をする」ことには変わりなく、両者がどう違うかまでは思い至らなかった。世間一般がいうようにあそこは暇と金のありあまった人間が魔法使いになるために行く場所だというくらいの認識でしかなかったのだ。
「……そういうわけで、アイシャさん。どういう理由での呼び立てか知りませんが、二人で来いとのことなのです。一緒に行っていただけますか?」
 アイシャは一も二もなく頷いた。断る理由がなかったからだ。そして、「今この時期」「二人で」来させることになんとなく思い当たる節があった。……もしかするとイスカは気づいていないかもしれないが……。

   *

 フォラーナ神殿には、ありとあらゆるところに下り階段やら真下に降りる梯子やらがある。堂々と表に出ているものもあれば、誰かの抜け道なのか見つかりにくいところにあるものも、様々である。アイシャとイスカはそのうちのひとつを使って下へ下へと降りていった。内部は思ったより明るい。照明器具といえば炎しかない一般家庭と違って、ここくらい大きな神殿になると光霊がふんだんに配され、照明として使われているのだ。
「すごいわね。地上と変わらないくらい明るいじゃない」
「もっともっと深いところになると光源がヒカリゴケや夜光キノコになるんですよ」
 そういいながら、イスカは次の階段を下りていく。地下一階では天井近くに窓を作ってそこから太陽の光を取り入れている部屋が多いが、もうひとつ下ると完全に地上の光は入らなくなってしまう。
「こちらです」
 イスカによって示された小さな扉をくぐると、真っ先に目に入ってきたのは大きな透明の水晶柱であった。思わず息を呑む。あちこちに綺麗な色のついた石が置いてあり、光霊の熱のない光を反射している。原石のままむき出しで、それでも美しいその輝き。見えない力に圧倒されるようだった。
「……すごい……」
 隣ではイスカがにこにこと笑っている。
「石は大地の精霊の力がとても強いんですよ。純度の高い水晶はなおさらですね」
 だとしたら、さぞイスカには居心地いい場所なのだろう。この部屋の主と懇意にしていても不思議ではない。
 その水晶の隣の執務机に、小さな老人がいた。
「よぉ来たの」
 老人がにこっと柔和な笑みを浮かべる。そこから見える歯が何本か抜けていて、なんとなく親しみを感じる笑みだった。ちょっとばかり発音が明瞭ではないのは歯のせいだろう。
 老人を前にしてアイシャはスカートをつまみあげる淑女の礼をとった。
「うむうむ。よう来た。あんたはワシを知らんじゃろうがワシはあんたを知っておるよ。あんたが入ってから神殿のまずい飯が、食えるものになった」
「あら、光栄ですわ」
 謙遜と自負の入り交じった笑顔でアイシャは素直に喜んだ。料理に対する褒め言葉はなによりアイシャを機嫌良くしてくれる。カガンという老人は人のよい笑顔で、手招きをした。それに従って距離を詰める。老人は、今度はイスカに向かって手招きをした。イスカもまたおとなしくそれに従った。
 二人を並べて、カガンは実に満足そうにいった。
「いや、それにしても、めでたい! 二人とも結婚おめでとう!!」

 イスカは顔色を失い、ぱっくりと口を開けた。

 アイシャは、どうせそんなことだろうと思ったので、目を丸くしたあと極上の笑顔を作る。
「どうもありがとうございます」
「アイシャさん!?」
 イスカの反応はもっともであろう。それ以上余計なことをしゃべらないよう、アイシャは素早くイスカの脇腹に肘を入れた。
「……!」
 言葉を失ったイスカの代わりにアイシャはあることないことをしゃべる。
「すいません。嬉しすぎてちょっと言葉を失ってるみたいですの。この純朴少年をその気にさせるの、苦労しましたのよ」
「うむ、めでたい。よき夫婦となられよ」
 完全に勘違いしたカガンの台詞に、イスカは目でアイシャに説明を求めていた。かわいそうに、顔色を失っている。ある程度予想がついていたアイシャと違ってやっぱり何も気づいてはいなかったのだ。
 アイシャは知っている。イスカが還俗した理由を、カガンのいうような理由だと推察する神官や巫女は多いのだ。ほとんどがそう思っているといっていい。
 普通に考えて、真面目が取り柄の若い神官がある日いきなり還俗して若い(?)独身女性と同居するという事実が、なにを指すか。
 神殿の上層部に近いところはイスカが大地の精霊だと――それも今や過去形だが――いうことを知っている。精霊達の最後の聖域が滅亡したという話はまだ入ってこない。百里以上離れた場所の出来事が耳に入ってくるまでは相当時間がかかるのだ。だから、大神官とその周囲を除く大半の人間が、イスカが還俗した本当の理由を知らない。推察するだけの情報もない。だから彼らが知り得るのは上記した事実だけである。
 すでにアイシャはその勘違いによる「とばっちり」を食らっており、台所仲間たちからは妙な応援を受け、一部の巫女からは心の潤いがいなくなると泣きつかれた。ご丁寧に面と向かって祝いの言葉をのべてくる神官もいる。
 イスカのほうでも同様の「攻撃」を受けているはずなのだが、聞いたところによると彼は真正面から噂を否定してただの居候だと言い張るから、なおさら周囲は「謙遜している」という話になっていったらしい。正直者はときどき、むくわれない。
 小さな老神官カガンは上機嫌だった。
「イスカとはよく鉱石について話した仲であるし、これは是非とも祝わなくてはと思ってな。結婚の祝いには『永遠に変わらぬもの』として石の入った装身具を贈る習慣があるが、イスカの家には何も伝わっておるものがないという。なに、石ならワシの専門じゃ。どれでも好きなものを持っていくがいい。ワシからの結婚祝いじゃ」
 そういえば、祝いだといってワインをおごってくれる人はいたが、本当に祝いの贈り物を持ってくる人はいなかったなとアイシャは作った笑顔の裏で冷静に考える。
 イスカは、もちろんそれがもらうべき理由のないものだとわかっているから首を振った。
「とんでもない! カガン様からそのようなもの、いただけません! だいたい僕たちは……」
 なんでもありませんから、と続くはずだったであろう言葉はそこで中断されることになる。
「……イスカはワシが嫌いなんじゃ。老人の楽しみを奪いよるんじゃ」
「カガン様!? そういうわけでは……」
「老い先短い老人の善意を断りよるんじゃあ。のう、嫁さんよ。年寄りは大事にせよと、あんたからもいってやってくれんかのぉ」
「カガン様!」
 自分が弱者であるということを十二分に知りつくしている老神官は曲者だった。少なくとも真正直なイスカにとっては、相手が悪かったとしかいいようがない。
「ここには搬入が難しかった大きな石しかないが、奥にいけば宝石にできるような紫水晶の原石もある。いってみるかね」
 人の話も聞かずカガンは、こっちだ、と部屋の奥へと案内を始めた。ついていくしかないような状況である。
「カガン様!」
「こっちじゃよ」
 イスカの抗議はむなしく響いた。アイシャは、そんなイスカの肩にそっと手をやる。
「まぁ、集めた石の数々を見せてもらいにいくだけと思えば……。最終的に品物を受け取らなければいいんじゃないの?」
「アイシャさん……なんであんな、あることないこと言ったんですか?」
「ごめんね。体裁ってものがあるのよ、人間には」
 本当のことを説明しはじめるとまずイスカが人間ではないというところから始めなくてはならず、うまく説明できる自信のないアイシャには誤解されているほうが八方丸く収まるのである。

   *

 上質の紫水晶をみせてくれる、と通された部屋には、大きな紫水晶の原石があった。外側は一見ただの岩なのだが、岩がまっぷたつに割れて断面が見えている状態である。断面から見える岩は内部が空洞になっており、その内側の岩肌とでもいうのだろうか、その部分はすべて紫水晶がびっしりと隙間なく生えていた。
「なにこれ、すごい!」
「紫水晶はこういうふうに生成することが多いんです」
「それは宝石にはならんよ。色が薄すぎる。けども、結晶の形がきれいじゃろ」
 先がとがったきれいな六角柱が全部内側を向いている。別の水晶を見せてもらったら、結晶は全部が全部六角柱をしているわけではなかった。
「宝石として磨くと色はうんと薄くなってしまう。山ぶどうのソースを作るとき、赤っぽい紫のぶどうを摘むかね? それとも黒紫色のぶどうを摘むかね?」
「もちろん黒っぽいものを摘みますわ。完熟して甘くなっている証拠ですもの」
「そう、黒紫の山ぶどうを摘んで、そこから美しい紫色のソースができる。石も同じじゃ」
 漠然とアイシャは、トーラの額にあった紫水晶の飾りを思い出していた。
 あれも原石のときには黒っぽい色だったのだろうか。トーラの瞳はまるでこの色の淡い原石から作られる紫水晶のようだ。粒は大きいが色が薄く、宝石としての価値が低い。だがとても優しい、かわいらしい色合いだ。
 これなんか面白いですよ、とイスカが指さしたのは球形に研磨された紫水晶だった。
 紫の中に、金色の部分が混ざっている。
「なぁに、これ?」
「中に入っているのは黄水晶ですよ。水晶は無色透明ですが、さまざまな不純物を取り込んで結晶化するとこういうふうに色が付くようです。黄水晶は紫水晶とよく似た成分でできているらしくて、こうやって混ざってできている結晶もあるのですよ」
 黄色い水晶はよく見ると金色というより、琥珀色をしている。イスカの瞳の色だ。
「トーラの中にイスカが入ってるみたいね!」
「……その例え、できればやめてもらえませんか……」
「ん?」
 そんなことをいっていたらカガンが四角く研磨した石をもってきてくれた。ブローチにするならかなり大きな宝石だ。ひとつの石のなかに、淡い紫の部分と淡い黄色の部分があって二色に分かれていた。色の間に明確な境目はみあたらない。
「こんなのって!」
 感動のあまり声をあげると、カガンは満足そうに頷いた。
「先ほどの結晶をみたじゃろ。あの、ちょうど黄色と紫の真ん中の部分を切り出して磨いたものじゃ。紫水晶(アメジスト)と黄水晶(シトリン)、両方の特徴を兼ね備えておるからアメトリンという」
「すごいわ、本当にこんなのがあるんですね!」
「残念じゃがこれは色が薄くて、石の持つ美しさが伝えきれん。本当に濃い紫と、濃い黄色がひとつになったアメトリンを見たことがあるがそれはそれは美しいものじゃった」
 さらにカガンはいう。そもそも黄水晶自体がまれな石であり、宝石にできるほどの大きさと色がそろったものはなかなか出ない。こんなふうに二色がまざっているものを見つけるよりも紫水晶だけの原石のほうがいくらかみつかりやすいと。
「いいわねぇ、イスカとトーラばっかり」
 思わずため息が漏れる。
「できればその例えはあまり……二色に分かれた石、もっと見たいですか?」
 最初はしぶい顔をしていたイスカもいつのまにか機嫌がよくなっていた。石ばかりのこの場所は大地の精霊の気配が色濃く、イスカにとっていつまでも機嫌が悪いままでいられないような環境なのかもしれない。
「カガン様、電気石ありましたよね」
「知っておったか」
「知っていますよ。水晶だけじゃなく、そういうのも色々ためこんでいるの」
 聞き慣れない名前の石である。今度はこっち、とアイシャはさらに部屋の奥へ通された。
そうしてカガンから出してきてもらった研磨した石は、先ほどのアメトリンと同じようにひとつの石の中に緑とピンクが同居していたのだ。
「こんなのもあるの? 今度はヒスイと私ね!」
「電気石の中でもリチア電気石は様々な色がでる石なんですよ。色によって色々呼び方が変わったりして、赤いルベライト、青いインディコライト、無色のアクロアイトとか。こうやって二色あるのはバイカラートルマリンといいます」
「これは埃が付きやすいんじゃよ。微弱な電気を帯びているらしくてな」
 それで電気石というのかとアイシャは納得した。
 他人の部屋だというのにイスカはどこになにがあるのかちゃんと知っているらしくて、ほかにも「これも同じトルマリンですよ」と色々出してきてくれる。
 なかでも面白かったのは外側が緑色で内側に行くにしたがってだんだん白っぽくなり、中央が赤紫の色をしている石だった。細長い原石の状態で出してきてくれる。
「これも素敵。面白いわ!」
「ウォーターメロントルマリンです。これは断面の色が西瓜のようだというところが面白いので、残念ながらカットして指輪になるような宝石にはできません」
「でもとても面白い石だわ。輪切りにして磨いたら何か飾りにできそうじゃない? 綺麗な色だし。真ん中の赤紫、ピンクっぽくもあるわね。これも私とヒスイね?」
 まるでアイシャの周りをぐるりとヒスイが取り囲んでいるようだった。そう、いなくなったヒスイは、そうやってアイシャを守ってくれる子だった。いつでも一番安全な場所にアイシャを置いて、そうして自分は外敵と戦う。このトルマリンの輪切りの色は一番外側が緑でなくてはいけなかったのだろうか。一番外側がピンクでは駄目なのだろうか。なんとも不思議な石である。
「ここまでとても面白かったわ。ねぇ、セイはいないの?」
 カガンにその例えは通じなかったが、イスカには通じていた。こめかみに指をやり、少し考えたあとイスカはカガンに聞く。
「カガン様……青い鋼石(コランダム)ありましたっけ」
「あるとも。研磨していない、大きなやつが」
「それはちょっとセイの印象ではないです……」
 そのあと簡単ではあるが説明してくれた。コランダムというのはなにせとても硬い石なのだそうだ。その硬さと、澄んだ色合いと、研磨したときに素晴らしい輝きをみせるため高価な宝石として代表的なものなのだそうである。
「聞いたことあるでしょう、青玉(サファイア)のことですよ」
「別に青くなくても、ピンクでも黄色でもホワイトでも宝石になるような鋼石(コランダム)は赤以外、全部サファイアと呼ぶんじゃよ。赤い石だけは赤玉(ルビー)と呼ぶ。だから逆に青いルビーとか白いルビーは存在しないわけじゃ」
 なんだかとてもセイらしいといえば、らしい。安石なんかお断りだといわんばかりに、自分だけ高見から見下ろしているようだ。あの人懐っこいセイから来る印象というより、やはり最後に見た、青い髪、冷たい目をしたセイの印象が強く残っていた。
「他に僕が知っている青い石といえば瑠璃(ラピスラズリ)がありますが、あれは不透明な紺色なのでなんとなくセイの印象ではないのですよ。菫青石(アイオライト)は紫が勝ちすぎてちょっと印象が違いますし、藍玉(アクアマリン)だと色が薄すぎますね。蛍石(フローライト)は、色は綺麗ですが柔らかすぎる石ですし」
 青玉(サファイア)は美しくて硬くて高価で、人にとても愛される石だ。
 やっぱり人懐っこいセイも青玉が似合いそうだとアイシャは思い直した。

 色々な石を見せてもらったあと、いよいよ本題がやってきた。
「で? 結婚祝いはどれがいい?」
 それまで楽しく珍しい石を見ていたアイシャとイスカは動きを止める。
 二人はそっと目配せをしあう。イスカがおそるおそる切り出した。
「えっと……そのことなのですがやはり……」
「おお、そうじゃ! 嫁さんによく似合う石があるぞい!」
「……人の話を……」
 聞くはずがないのである、この老神官が。
 そうして持ってきたのは紅石英(ローズクォーツ)の原石だった。半透明の淡いピンクで、甘く優しい色だ。
「カガン様のことだから珍しい石を持ってくるのではないかと思っていましたが、わりとよく見かける石ですね」
 ちょっと拍子抜けしたような、安心したような声でイスカが胸をなで下ろした。
 通常、石英が結晶化したものを水晶と呼ぶ。その整った六角柱は自然の作る造形美に思わずうならされる美しさで、紫や黄色の物も六角柱に結晶化したものはとても珍重される。が、どういうわけかピンクのものは不透明で塊状のものばかり産出されるのだ。露天商などが磨いて飾りに使うときには紅水晶と呼ばれていることもあるが、産出された形から見るなら水晶というより石英のほうがふさわしい。
「きれいじゃろ? 菱マンガン鉱(ロードクロサイト)も赤紫系ピンクをしておるが、ありゃちょっと嫁さんにはキツすぎる色じゃからの。これくらい、まぁるい、やさしぃい色のほうが似合うじゃろ」
 にこにこと微笑むカガンを前にして、そうですねとイスカが相打ちを打つ。アイシャもにこにこと笑顔の仮面を被った。
「恋愛成就の石ですわね」
「そういう話もあるな。やはり女は、まじないとか好きかの?」
「ほほほほほ」
 顔は笑っていても目は笑っていなかった。イスカが怪訝な顔をしてアイシャを覗き込むが、アイシャはかまわなかった。
 とても機嫌が悪かった。ほかの何は知らなくとも、アイシャは紅石英だけは知っている。愛の女神の神殿で恋愛のまじないに使われる石だからだ。
 どこまでいっても、かの女神との縁は切れないと宣告されたようで非常に不愉快だった。
 カガンは善意から熱心に薦めてくれたが半分以上アイシャは聞いてはいなかった。
「帰りましょう、アイシャさん」
 イスカが、袖をひっぱった。
 その瞬間やっと我に返る。
「顔色が悪いですよ。帰りましょう。……カガン様、その石は預けていきますのでまた今度にしてくださいますか」
 老神官の返事を待たずイスカはアイシャの手をとり、ひっぱっていった。
「外に出ましょう。ずっと地下にいたから気分が悪くなったでしょう」
「え? ごめんなさい、そういうわけじゃないのよ」
「いいから出ましょう。お日様の光をあびたらきっと元気になりますから」
 なんとなく察してくれたらしい。そして何もいわなかった。こういうふうに気を利かせてくれるイスカは鈍いのだか鋭いのだか分からない。手をひかれて階段をのぼって、そうして外の光を目にしたら本当になんとなくほっとした。

 結婚祝いには「永遠に変わらないこと」を意味して石のついた装身具を贈る習慣がある。アイシャはざっとこれまでのことを思い返した。
 一度目の結婚の時には透明な石がついた指輪を贈られた。つけたまま家事など出来そうにない豪華なもので、ほとんど宝石箱の中で眠らせていた。男爵家に代々伝わっているというその品は離縁したときに相手の家に置いてきた。
 二度目の結婚の時は、石はなかった。二人とも天涯孤独だったので代々家に伝わっているような品などなく、また貧乏で装身具を買うような金も残っていなかったので、夫はアイシャが喜ぶようなものを考えて考えてピンクのリボンを贈ってくれた。その品は今もアイシャの髪にある。いずれくたびれて朽ちるだろうが、そのときになったらまた同じようなものを買い求めるだろう。
 そういえば愛の女神が司る色は薔薇色である。

「ねぇイスカ」
 今度はアイシャが、イスカの袖を引っ張る。
「大丈夫よ。私、大丈夫」
 くすりと小さく微笑んでみせた。イスカはまだ心配そうな顔をしている。
「本当よ? 紅石英(ローズクォーツ)も、今、好きになったわ。ねぇ、本当にあの石、私に似合うと思う?」
 と尋ねてみたら、イスカからは次のような答えが返ってきた。
「無理はしないでください」
 アイシャは、今度は本当に心から微笑む。否定の言葉は出なかった。そのことに気をよくする。
 つまらないことにこだわるのはよそう。女神なんか関係ない。石に意味を後付けするのは人間だ。石は昔からただそこにあるだけなのに。

   *

 残念ながらそのあとアイシャは再びカガンと会うことはなかった。秋はすぐに過ぎ去り冬将軍が猛威を振るい、雪に閉ざされた小さな家の住人はいつのまにか二人とも消えていた。

   ***

 数年後。

 カガンの臨終の時は近づいていた。
「窓を開けておいておくれ」
 夜、寝る前に側付きの少年にそう告げた。
 ためらいながらも少年はそっと窓を開けて出ていった。冷たい夜風が室内に入り込んでくる。病人の身には堪えるがカガンは口元をゆるめた。

 昔は、寒さをこらえてよく夜空を見上げた。
 星のひとつでも落ちてこないかと飽きずに眺めていた。
 残念ながらカガンの手に落ちてくることはなかったが、地面の中には星が埋まっていた。

 ぱさり
 軽い羽根の音がして、次に耳に馴染んだ声がした。
「……カガン様」
 ああ、この声は。
「イスカか」
「はい、カガン様」
 そっと囁くような声。預けた物を受け取りに参りました、と。
「ふ、ふ、遅かったな。ワシも、心残りじゃった……」
 薄く目を開けると見慣れた少年の姿。身にまとう衣装は違うけれど。その背中にはコウモリのような羽根があった。お迎えが近づいて、妙な物が見えるようになったらしい。
 しわくちゃの手で枕元の箱を指さした。イスカがその箱を開け、カガンに見えるように掲げられたのは、穴を開けた紅石英の珠だった。あの優しくおおらかな奥方の首飾りにされるはずだったもの。珠の形に磨き、穴を開けたところでカガンはもう動けなくなった。
「幸せにな……」
 アイシャとイスカが小さな家から急に消えたことは知っていたが、二人はまだ一緒にいて幸せに暮らしているとカガンは疑っていない。イスカは静かにその手をとった。
「ありがとうございます、カガン様。たしかに受け取りました」
 やっと心残りもなくなった。
 ――カガンは目を閉じた。

   *

 それからずっとずっと、イスカの服の隠しの中には紅石英の珠がついた根付けが入っている。
「また会いましょう」
 しばらくこの石、渡す予定はない。

 また会いましょう。いつか、きっと。
<終>


<あとがき>
趣味全開の番外編。彩根さんにさしあげました。
あまりに趣味に走りすぎたために一部、翡翠抄の世界観を無視してしまいました。翡翠抄世界ではアメリカ大陸にあたるところはない(あるいはまだ発見されていない)のですが、作中に「産出国は南米以外にありえない」鉱石の名を出してしまいました。だって出したかったから!(おい)
なおタイトルはリクエストをうかがった彩根さんご本人につけていただきました♪ タイトルを思い浮かばず彩根さんに丸投げしたとか言……いえいえ、げふげふ。
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[目次]
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