菫
聖都に来たその瞬間から心を奪われてしまった。
何と美しくその人は踊るのだろうか、と。 自分の容貌が冴えないことを俺は知っている、でも、どうにかして彼女に近づきたくて、毎日彼女の隣を陣取っては歌った。 彼女は俺を覚えてくれたのか、時折、踊り出す前に会釈をしてくれる。 高らかに夕刻を知らせる鐘の音が響いた。 さぁ、これからだと息を吸い込んだ俺の目に映ったのは帰り支度を始める彼女の姿。 疑問を抱いた。そして、その疑問を絶好の機会だと思った。 「もう終いかい?」 「ええ。おしまい」 急がしく片付けをしながら、それでも、ちゃんと俺の方を向いて答えてくれる。 「うちはそういうの、座長がうるさいの。私のことをいつまでも子供扱いするから」 そう言って手を振ってみせる。 その仕草の愛らしさ…… どぎまぎしてしまった自分を晒したくはなくて、大袈裟なくらいに俺は肩をすくめてみせた。 「君が本当に一人きりなら是非一緒にと誘うんだけど。でも、君のところの座長、見かけないよね?」 語ることをそっちのけで必死に考えた誘い文句だ。しつこい男だとは思われないように、あくまで世間話を装って誘えるように。 彼女は嫌な顔ひとつ見せずに菫色の瞳をきらめかせてこう行った。 「まだ追いついてないの。途中で別の仲間を迎えに行ってて、私には先に聖都に行けって。本当はもうひとり一緒にいるんだけれど、彼は彼で花街に入り浸りなのよね。じゃ、お先に」 手を振り、颯爽と身をひるがえす彼女。 何だか彼女の行動は全てが少し芝居がかって見える。踊り娘特有の芝居気なのだろうか? それとも演出過剰な娘なのだろうか? しかし、そのようなことはどうでもいい。感情のこもらない棒読みのような答え方だったが、それは年配である俺に対して緊張していたのかもしれない。 どっちにせよ、気にならないことだ。 彼女が菫色の瞳を俺の顔にまっすぐ当てて、話してくれたのだから。 鈴と手拍子に合わせて、伸びやかに踊る彼女の姿に俺はすっかり魅せられてしまっていた。 翌日。 「俺と組まないかい?」 一曲踊り終えて、ため息をついていた彼女にそう声をかけた。 踊りながら時折俺の楽器に視線をあてていた彼女。きっと、鈴と手拍子だけの単調さが物足りないのだろう。そう思ったから。 「ありがとう、でも、座長に聞いてみないと判断できないわ。まだ追いつくのは先のことになるだろうし」 「しかし、寂しいだろう、音楽がないってのは」 「そうね、でも、あなたに迷惑はかけられないわ」 気にしてくれてありがとう、ともう一度言って、彼女はまた踊り出した。 彼女の踊りには華がある。人間離れした妖しさとでも言えばいいのだろうか、俺は自分の生業も忘れて見とれてしまう。 女神だと最初は思った。祭りに浮かれて女神が降臨したんじゃないかと。 「もう一人いるって言ってたけど、その彼は楽器をしないのかい?」 客が切れた瞬間を逃さず、そう問いかけた。 息を整えていた彼女は露骨にしかめつらをして、こう答えた。 「できるかもしれないけど、きっとしてくれないわ」 「同じ座なのにかい?」 芸で身銭を稼ぐ者として、俺は素直に驚いた。糧を得るためには協力し合う、そうしなければ生きていけないというのに、彼女の連れは彼女にだけ躍らせているだなんて。 そういえば、昨日、花街に入り浸りだと言っていた……それを思い出した俺はその時にはもう叫んでいた。 「あんた一人に躍らせて遊蕩三昧! そいつは男のすることじゃねぇ!!」 「ううん、大丈夫なのよ、彼だって遊んでばっかりってわけじゃないから。それにあたしは踊るのが好きだから、踊ってるだけだし」 激した俺に驚いたのか、彼女は慌てた素振りで早口にこう言った。 しかし、俺に納得など行くはずがない。 彼女は昨日と同じく夕刻の鐘と同時に片付けを始めた。 「お先に」 と、愛想良く声をかけて、帰路に着いた彼女の後を俺は追った。 連れとやらに文句をつけたくてたまらなかった。 宿屋の一室に入っていった彼女を確認する。念のために女将にその一室に泊まっている客の素性を聞く。 彼女の容姿を告げて、隣に陣取って吟遊詩人をしていると説明したら少し安心したのか、女二人、男一人で泊まっているということを教えてくれた。 連れは一人だと言っていたはずだが? そう思うが、男が一人ならば恐れることはない。 彼女の負担を減らしてあげなければ。 意を決して、俺はドアをノックしようとした。その瞬間、首に衝撃が走った。 * 「ヒスイ、ヒスイ、大きいネズミが捕れたよー」 「人をむやみに傷つけるなと言ったはずだが」 男の首根っこを捕まえて意気揚々のセイをヒスイの鋭い一瞥が襲う。 「や、やだなぁ、そんな怖い顔しないでよ、ヒスイさん。怪しい人間が部屋を窺ってたからとりあえず気絶させただけなんだから」 と、トーラが男の顔を見て声をあげた。 「お隣さん!」 「トーラの知り合いか?」 言いながらヒスイは問答無用で男を気絶に追いやったセイを睨む。 「こいつの知り合いなんか、どうせロクなことないよー」 へらへらとそう言い放ったセイは、決して笑っていない目でトーラに問いかける。 「で、どういう知り合い?」 「顔見知りよ。私の隣に陣取ってる吟遊詩人。最近、妙に馴れ馴れしく話しかけてくるのよね」 トーラの話し声に反応したのか、男が意識を取り戻した。 目の前にへらへらとした笑顔で立つセイと、自分を訝しげに見つめているヒスイに視線をさまよわせ、最後にトーラを見た時、男はセイに向かって怒鳴りつけた。 「お前! 彼女一人に躍らせて遊蕩三昧しているそうだな!! 恥を知れ、恥……ガッ」 先ほどとは反対側の首筋に打撃を受けて、男はまたも気絶した。 「セイ」 「安心して、いじらないよ、抜くだけだから」 「セイ!!」 「だって、トーラに絡んでこられたら厄介でしょう?」 だから、トーラに関する記憶は抜いておくよとセイは言う。それ以外は何もしないから、と。 確かに絡んでこられると厄介ではある、しかし、記憶の操作をヒスイは良しとはしない。だが、トーラと二人がかりで説得されてしまっては、ヒスイは頷く他なかった。 「ねぇ、ヒスイさん」 男を放り出してきたセイはヒスイを背後から抱きしめてその耳元に囁く。 「何だ?」 抱きしめられた時点で握り締められていた拳はとりあえず次のセリフを待つ。 「トーラはいなくていいと思うなぁ」 同時に見事なアッパーがセイの顎を襲った。 * 俺は夢を見ていた気がする…… 菫色をした女神に会っていた。そんな朧な曖昧な記憶がある…… いや、きっと夢だろう。 美しく踊る人だった。 その後、彼は拙い声だが珍しい物語を語る吟遊詩人として評判になった。 |