秋学期が始まった4日目。
母親から携帯に電話があったのは、3時限目の授業が終わった時だった。
受話器の向こうの母親は涙声ながらも、必死に動揺を隠そうとする。
「ソラがもどしてばっかりなんよ……」
あの電話を貰ってすぐに、友人に4時限目の代返を頼み、急いで帰路に着く。
帰り道の電車の中、ソラの事が頭から離れようとしない。
僕がソラに出会ったのは八年前の事で、その時捨て犬であっただろうソラは、僕に向かって必死に尻尾を振り、ヒューンヒューンと悲しい声で鳴いていた。
その頃、小学生だった僕にはその行為が「早く拾ってくれ」と言っているように見えて家に連れて帰ったんだ。当然、家族はいい顔をしなかったはずだ。
世話するからなどの有りがちな言い訳で親を納得させて、あれから八年。
あまりにも早すぎる。家に着いた時には1時間半がすでに経過しており、最悪の事態に陥ってないことだけを願っていた。
玄関で迎えたのは、おろおろとする母親であり、いつも尻尾を振っているソラの姿はそこにはない。
僕は玄関に荷物を放り投げ、自宅の縁側へと走った。
縁側から見える庭の真ん中に真っ白い犬が丸まっている。こちらに気付いたのか、身体を動かさず、尻尾を振って迎え入れてくれる。
確かに、庭のそこら中に吐いた跡が残っていた。
「やっぱり、私のせいやわ……注射サボったから」
何時の間にか後にいた母親が涙声で言う。
「まだ、死ぬって決まったわけやないねんから……俺が観るからオカンは向こうに行っといて」
僕らという一家はペットを飼うことに対して、あまりに無知過ぎた。
予防接種という物がどれほど大事なものかを知らなかったのだ。
ソラがゴホッゴホッと喘息のような咳をした。
このソラの身体を蝕んでいる原因はフィラリア。
予防接種を怠り、ソラの身体の異変に気付いたのも遅すぎた。
フィラリアの主な症状は酷い咳、1時間に1度、しかも5分間くらい咳をし続ける。
ソラはその咳と同時に胃の中の物を吐いた。とは言っても、吐くものは胃の中に入っていない、胃液だけを何度も何度吐く。
「ソラ」
僕がそう呼ぶと、ソラはゆっくりと立ち上がり、僕の傍まで歩こうとする。
その足取りはよろよろと危なっかしく、僕は思わず靴下のまま庭に降りる。
ソラを歩かせるのはあまりにも酷に見えたのだ。
僕が近寄ると、ソラは鼻先を僕に近付ける。その後、頭を僕の右手に擦り付けた。
「そうか、撫でて欲しいねんな」
右手でやさしく頭を撫で、そのまま手をソラのお腹に当てた。
フィラリアは悪化してくると、腹水がたまる。その腹水を取るために、今朝も大学に行く前に利尿剤を飲ませた。だが、腹は妊婦のように膨れ、減っているようには見えない。
「ソラ……良くなったら……絶対に散歩に行こな」
自分のその言葉が涙声になっている事に気付く。
何もしてやってない。
僕はソラに何もしてやってない。
そう考えると……僕は泣かなかった。
泣くにはまだ早すぎた。
その晩、僕はソラに無理矢理、好物の茹でたベーコンを食べさせた。
いくら、吐くからとは言え、食べさせなければ、悪化するばかりだからだ。次の日、ソラの容態は好転した。
天気は素晴らしい陽気で、この暖かさが容態に作用したのかもしれない。
そういえば、ソラという名前の由来はソラの毛が真っ白だった事に由来する。
実はソラの名前に決まる前、クモという名前だった。白いクモとでも言いたかったのだろう。それならという事で、クモよりもソラの方が良いだろうと母が勝手にソラと決めたのだ。僕としては「毛が青いわけでもないのに」と呟いたが、響きが良かったのでソラという名前に決まったのだ。
その日のソラは、空と同じく快調で、咳は何時もの通り出るものの、吐くことをしなくなり、利尿剤が効いたのか、腹水も少し減ったらしい。
僕がパジャマ姿のまま庭に出ると、ソラは喜んで駆け寄ってきた。
喜びのあまり口にした言葉。
「散歩行こか」
僕はソラを抱き上げる。
お腹の水以外はすべて、皮と骨だけだった。
悲しさが余って力を込めて抱き締める。
痛かったのか、ソラがヒャンと鳴いた。だが、秋の空は変わりやすい。
夕刻になるにつれ、雲が空を覆い、気温がだんだんと下がってくる。
そしてまた、ソラの容態も変わりやすい。
ソラがまた吐き始めた。
僕は秋を恨んだ。
夜になったときにはとうとう雨が降りだした。
秋の気温は寒く、雨は刺すように冷たい。
ソラはとうとう……血を吐いた。
僕はソラを縁側に上げてやる。
ここなら雨は当たらない。
ついでに布団を縁側にひき、ソラを布団に入れて一緒に寝てやることにする。
ソラが鼻をすり寄せてくるたびに僕はソラを撫でてやった。
鼻に湿り気は無く、乾いている。体調の悪い証拠だった。
僕にしてやれることは、撫でてやることだけ。
やさしく撫で続けてる。
何度も何度も。
何度も何度も。
それはもしかすると、僕の中でのけじめだったのかも知れない。
そんなことしか、してやれないし……
ただ、撫でるたびに僕の中で確固たる覚悟ができていた。
言うなれば、ソラが死ぬということへの覚悟。僕がウトウトし始めた頃、不意に不快な感覚が襲った。
眠い目を擦り、見てみると布団がびっしょりと濡れている。
ソラはすまなそうにクゥーンと鳴いた。
布団が濡れた原因がソラの尿だということに気付くのに、それほど時間は必要としなかった。
「そうか、トイレにもよう行かれへんかったんか」
僕はソラの頭を撫でてやる。
「別にかまへんぞ、もらしても構わんぞ」
利尿剤を飲んでいるのだ、そう自分に言聞かせようとした。
「ソラ……お前、もう死んだ方がええかも知れへんなぁ」
別に怒っているわけでもない。
とても、優しい気持ちで口にした。次の日、ソラは死んだ。
雨は上がり、薄い水色が空を占めていた。
こんなに雲一つ無い青空なんだから、きっとソラは迷うことなく空に昇ったのだろう。
青空に小さな……ソラの様な白い雲が流れた。
僕はほっとして泣いた。